子どもに合った受験をさせたいねという話(神奈川)

 公立中学校の生徒たちを何百人と見てきた中で、私はぼんやりと考えてきたことがある。
 「私が公立中学校に進学していたら、どのくらいの内申がもらえてどれくらいの公立高校に行けたのだろう」ということだ。

 今から15年以上前、神奈川県に住む私は私立中学受験をした。そして無事に第一志望の某大学付属女子校に合格し、その門をくぐった。もとから小説を書くことが好きな小学生だったが、今もこうして書き続けているのは、中学での国語の授業や先生との出会いが決定的だったと確信している。それ以降の趣味嗜好の形成が大きすぎて、それ以外の自分を想像できないくらいだ。

 とにかくそんなものだったので、地元の中学へ行った小学校時代の友達から聞く様子でしか、私は「公立中学からの高校受験」のことを知らなかった。
 私の学校にももちろん内申点はあり、それによって内部進学の可否が判定されていたが、よっぽどの成績を取らない限りは単なる「自分の得意不得意を確認する数字」でしかなかった。ちなみに私の中学の通知表は10段階評価で、私の成績はたいてい8か7、好きな科目でテストが上手くはまった場合は9(10は取ったか覚えていない、おそらく取っていない気がする)といった具合であった。
 一度だけ、家庭科でパジャマを縫った時にありえない部分を裁ちばさみで切ってしまい、慌てこいた挙句あろうことかアロンアルファで裏布をした時は6になった。みきこ先生呆れただろうな。すいませんでした。

 私がみんなと岐路を違えた3年後、小学生時代の友達はそれぞれの高校へ進学した。
 なんとなく、それぞれの高校の名前は知っていた。一番仲良しだった女子グループの仲間たちは伊志田高校に行ったり、小田原高校に行ったりした。好きだった男子が横浜翠嵐高校に行くと聞いたときも「ああ、あいつ頭良かったもんな」と、淡白な反応をしていた気がする。
 その後神奈川県公立入試から前期後期が廃止されたりもしたが、もっと以前の知識から私が全てを知ることになるのは、それから9年後のことであった。翠嵐に行った彼が今どこで何をしているかは知らないが、私は彼に当時とは全く違う尊敬を抱いている。

 神奈川県の公立高校入試において、「内申点」は重要な位置を占める。理由は2つだ。
 ①合格点の判定に、それぞれの比率で内申点(9科目・中2の学年末+中3の12月×2の135点満点)が加わること。
 ②公立の滑り止めとして取る主な私立高校が、内申点により確保されること。(筆記試験は形式上、もはや撤廃されつつあるところも多い)
 どちらも重要である。偏差値55までの高校を志望する者には特に①が、それ以上のいわゆる旧学区トップ校を受ける者には特に②が重くのしかかることになる。
 個人的には、②の重みはとても大きい。公立高校はトップになればなるほど試験の点数が重視されるので、実は優秀生にとって①はそれほど気にならないところではある。むしろ、「内申美人」といわれるタイプが実力を伸ばせず本番の点数で不合格になるパターンのほうが多いくらいだ。ただ、「内申が実力に見合わず低い」タイプの場合、「希望通りの私立高校・コースが取れない」という現象が発生する。すると、精神的なプレッシャーが過度にかかってしまうのだ。滑り止めのはずが、「あの滑り止めの高校・コースに行くつもりは全くない。だから、確実に受かる公立高校に出願する」という思考になってしまう。私立進学校のオープン入試を受ける気概があるならまた別の話だが、全員が全員そうではない。
 実際、4年ほど前に小田原高校を受けた男子の話をする。実力判定では彼はほぼ確実に「受からない」子だった。とても真面目な好少年だったこともあり、直前まで私の上司は彼と綿密に話した。そのとき出てきた言葉は「もし小田高に落ちて私立に行くとしても、そっちに行くことも楽しみだからチャレンジしたいんです」だった。そして彼は小田原高校に合格した。彼は自分が満足する私立高校を取れていたからこそ、ゆったりとした気持ちでチャレンジができたのだ。

 はっきり言ってしまえば、内申点は「中学校の担当教師の主観」だ。テストは観点別に細かく数値で見てもらえるが、結局は関心・意欲・態度にBが付けば5にするにはなかなか苦戦する。また、2021年からはそれぞれの科目の観点が3つになる。そこでいう「主体的に学習に取り組む態度」は、実に3割強を占めるのだ。
 語弊を恐れずに言うと、中学生の将来はテストの点数や実力で決まるものではない。「先生とどれだけ仲良く学習ができるか、先生にどれだけ気に入られるか」で、大きく左右されるのである。

 どこかで言ったかもしれないが、私は「アピールのための行動」が苦手だ。
 もともとはおねだり上手な妹の姿を見て嫉妬混じりの嫌悪を抱いたことが始まりだった。まぁほぼ嫉妬である。処世術として必要なものだと分かっていたから、できない自分にも嫌悪した。そんな自分が「高校受験のための内申取り」を頑張れたかと想像すると、たいへん苦しくなる。勉強自体が楽しいから積極的な態度を取るということはできるのだが、いざそれでも内申があがらないとなった場合、きっとそこには私の壁が存在しただろう。

 twitterの流れ行くツイートの中で、「神奈川の公立トップ高校に行くやつはスーパーマンだ」という発言を見かけた。本当にそうだと思う。
 なんといったって、評価内申は9教科である。技能科目も含めて全てにおいて3はなく、それどころか過半数が5でないと受けることすら難しい。それぞれの担当教師からも抜けもれなく好感があり、何かしらの生徒会や委員・部長を務めるようなタイプであることが多い。私はそんな彼らに負けずとも劣らない学歴を経たつもりではいるが、正直人間性の出来が違いすぎる。
 だから、時折考えるのだ。「親が中学受験に私を仕向けてくれて、本当にありがたかったな」と。

 大学入試での共通テストへの変化、昨今の事情、そういったもので小中学生の状況も今後めまぐるしく変わるだろう。
 ただ、目の前の子どもの特性はおそらくほぼ変わらない。どういった道が彼・彼女にとって最も最適なのかを、私もきちんと考えていきたいと思う。

 (3歳の甥は最近ようやく「自分で文を考えて話す」ようになってきました。「えっとぉ、」と言いながらぎりぎり判別できる言葉で一生懸命説明しようとしてくれる姿はあまりにも愛おしいです。)

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