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観る前に読むと倍は楽しめる!!『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の時代背景(※ネタバレ無し)

公開二日目の8/31日(金)に観てきました。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(以下本作)
どーでも良いけど長いんだよ……タイトルが……

まずは閑話

今回は池袋のグランドシネマサンシャインで観てきたのですが、完全に勢いでグランドクラス(5500円)の席を予約したため、予約した次の日から食事代をケチり始めたり「外れたら終わりだ」という自分が覚悟をしても何も変わらない覚悟を持って劇場に臨みました。実際席に着くまで映画館の導線がイマイチで上映時間に間に合わなかったりぐぬぬな状況だったものの、流石に5500円の席は快適で、作品も素晴らしかったので「クソ!!タランティーノ、良い映画じゃねえk……(光)」と成仏することが出来ました。

休題

本作は決して映画オタク映画ではないので作中のイースターエッグを知ることなく十分に楽しめますが、実在の事件1969年に焦点が当てられたことを知っていれば尚更スリルを楽しみノスタルジーに浸れること請け合いです。ざっくりと本作は、タランティーノの持つ1969年以前のハリウッドへの郷愁をベースにしつつ、当時のハリウッドで実際に起こった悲劇へ徐々に緊張が高まっていく作りになっています。が、タランティーノは実在しない二人のキャラクターをハリウッドに住まわせてしまっており(狂言回しをするでもなくハリウッドに住んでいる落ちぶれた映画関係者の一人でしかない)主人公は何者なのか?という点も、気付けば面白いのに少々分かりにくい感じがします。

実在の事件であるチャールズ・マンソン事件は、既に多く言及されていて僕が改めて説明するほどの知識もないため「Wikipedia読んでから行け!!」としか言いようがなく飛ばすとして、タランティーノの郷愁の由縁たる1969年という時代に関する言及はそこまで無いようなので、本項では時代背景二人は何者なのか?という部分に軽く解説したいです。

ハリウッドにおける1969年

ベトナム戦争が後期に差し掛かり、政府や親世代に対して募る不信感、市民運動にカウンターカルチャー、若い映画作家によるアメリカン・ニューシネマの台頭……と、1969年とはアメリカ映画史における端境期でした。アカデミー作品賞だけ見ても、1967年に黒人のシドニー・ポワチエ主演の『夜の大捜査線』が作品賞を受賞し、同時にアメリカン・ニューシネマの『俺たちに明日はない』がノミネート、1976年の『ロッキー』と1977年の『スター・ウォーズ』ラインの80年代の幕開けまで、アメリカ映画は目を背けたくなる現実が映し出され続けました。

ここで1969年とは、後の大監督となる若い映画作家たちが社会へ問題提起を行って台頭した黄金時代でもあり、同時に結局答えを見いだせないビターズエンドの連続に、映画界―とりわけハリウッドが疲弊しきった10年間の始まりだったとも言えます。本作でその端境期、時代のT字路が背景にある事を頭の片隅にでも入れておくと、ぐっと話しが入ってきますし、何よりオリジナル主人公を登場させた監督の意図もすんなり理解出来てくるはずです。

映画に映るカウンターカルチャー

ピューリタン革命を経験していないアメリカでは、第二次大戦を終えてベトナム戦争に突入しても尚カトリック的思想が根強く、政府や親世代における封建的な社会が良しとされてきました。しかし、ベトナム戦争後期の惨状も相まって、若い世代による既存のルールや慣習への反抗が大きく運動化し、女性、黒人、同性愛者、障害者……等の、抑圧されてきた民衆があるべき権利を勝ち取っていきます。その中に既存のアメリカからの解放として、集落を作り、自由な宗教で自然と共に生きる「ヒッピー」たちが居ました。

町を離れて集落で自給自足を営む彼らにも組織があり、上述したチャールズ・マンソン事件のチャールズ・マンソンも「ファミリー」と称する集落を組織していました。社会のインサイダーを嫌い、自由を求めて町を離れた彼らは、皮肉にもチャールズ・マンソンを崇めるカルト教団化し、先鋭化した教徒が本作の核たる事件を引き起こすのです。

当時を象徴するキャラクターとして幾度となく映画に登場する彼らですが、スクリーンではどのように描かれていたのでしょうか?

ヒッピーが言及された映画

以下のグラフはIMDBでキーワードに「hippie」を持つ作品の数を時代ごとにプロットしたものです。これは「チャールズ・マンソン事件以降、ヒッピーは映画界でも言及されなくなるのではないか」という仮説を持って調査したものでしたが、結果は大きく異なるものでした。

1966年から1971年まですごい勢いで伸びるも、急降下して映画の世界から存在感を失っていきます。あの事件の後では「ハリウッドでヒッピーはタブーとなり描かれなくなるだろう」という仮説を持っていたものの、この時代既に映画はハリウッドだけではありません。ハリウッドの外で映画を撮り始めた若者たちによってヒッピーが多く描かれていたのです。

事実このグラフはアメリカン・ニューシネマの盛衰と動きを同じくしています。しかし作中での描かれ方は必ずしも好意的ではありませんでした。1970年の『イージー☆ライダー』では、如何にもヒッピースタイルのデニス・ホッパーが集落の組織に馴染めなかったり「結局あいつらはヒッピーというメジャーな肩書を名乗ってつるんでやがるんだ」と、主人公の疎外感を際立たせる小道具として登場しています。彼らは常に部外者であるからこそ、ハリウッドが忌避したヒッピームーブメントを冷静に描けたのかもしれません。皮肉ですがチャールズ・マンソン事件が「ハリウッドの外」に光を当てる分岐点的な役割を果たしたとも言えるでしょう。

夢の町、ハリウッド

ハリウッドは簡単に言うと日本映画における「○○撮影所」を超巨大にした土地です。劇中でも西部劇の街が登場しますが、各地に映画の舞台となる土地を開発しているため、今でこそ当たり前となった「ロケ」で撮影する事は多くありませんでした。アメリカン・ニューシネマの映画作家たちが「ロード・ムービー」を主要な題材としたのも、撮影所の外にある本物の世界を撮らんとする脱ハリウッド的な志向だけでなく、そもそもセットを使用出来ない実状もあったのかもしれません。

本作ではそんな時代の端境期を描いているため、随所に時代の陰りが忍び寄ってきますが、あくまで銀幕スターたちが集う絢爛なハリウッドに焦点が当てられているのが印象的です。登場人物もスティーブ・マックイーンやブルース・リー、ロマン・ポランスキーにシャロン・テートと、錚々たる面々が同じ時代、同じ場所に存在した……いや映画の中で実際に存在しているんです!この夢の世界こそ、タランティーノが思い起こしたい映画の世界だったのでしょう。アメリカン・ニューシネマの台頭、ハリウッド映画から離れる若者、夢の終わりの時はすぐそこまで来ていたのですが……

主人公は何者なのか?

ハリウッドという土地、そして時代について触れた上で最後に「あの二人は何者なのか?」という話です。本作の主人公は過去の栄光にすがって落ちぶれかけている男として登場するのですが、アメリカン・ニューシネマが始まって2年の1969年という時代と照らし合わせるとすんなり理解出来ると思います。主人公は当時のハリウッド自体の象徴でしょう。周りは才能を見出して手を差し伸べてくれるのに、プライドが高いばかりに変化を受け入れられず、陰りゆく自分のキャリアに肩を落とし、気付けば身の回りの事は何一つ出来やしないアメリカの中年男性……まさしく当時のハリウッドです。

この作品はタランティーノの考えるハリウッド黄金期の最後であり、同時に終わって欲しくない夢の世界です。その世界を象徴する主人公にタランティーノはどんな思いを込めるんでしょうか?定められた悲劇と終わりの時を前に何を望めるんでしょうか?是非映画館で確かめてみてください。

きっとぶっ飛んで「クソ!!タランティーノ、良い映画じゃねえか!!」と最高に悔しくなりながら最高に満足出来るはずです。

因みにこっちは→→→観た後向け(ネタバレ有り

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