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無条件の自己否定

このnoteは全体で一つの長い自己紹介か、自分についての説明を作成しては保管する倉庫になりつつある。

さて今回は自分の「自己肯定感」について書いておく。

「自己肯定感」とは無条件で自分の存在を肯定する感覚のことだという。無条件肯定ができないということは、条件つきでしか自分の存在を肯定できない状態らしい。つまり条件を満たせないときに自己否定しているらしい。それを「自己肯定感が低い」というようだ(高低ではなく有無の問題ではないのかと直観的には思うが勉強不足でわからない)。

一方で、私(やその同類)は、条件つきの肯定以前に「自分が自分である」という一点でまず積極的に自己否定していると思う。「自分は自分であるからダメなのだ」という非論理的な固定観念だ。だから「Aができたら自分の価値を認められる」という条件Aも特にない。強いて言えば「自分が自分じゃなくなれば」という条件になるのだろうが、それは物理的に不可能だし、論理的にも矛盾してしまう。もちろん別人になりきる生き方をする人も世の中にはいるのだろうが…。(余談だが、不思議なことに私は自分のことが嫌いなわけではない。否定と嫌いは別物のようだ。)

今の自分の状態について、より具体的な説明を試みる。

A-1
成果をあげても、それが直接に自分の価値とは結びつきにくい。良くて「やりきったと思う」「よかったんじゃないの」、通常は「本当にこれでよかったのか」、悪いと「またダメだ」である。これは他人の評価に大きくは左右されない。基準があるとすれば自分の満足度だろうか。あるいは、単にその分野に関して技術・知識・経験が不足していて自分の技量を正確に測れていない場合もあるだろう。

A-2
他人に喜ばれたら「喜んでくれてよかった」と思うが、それが "自分のおかげ" だと本気で信じることが難しい。他人が嬉しがっていることは私にとっても喜ばしい。しかしそれは "私の行いの結果" そのものではなく、偶然その人たちにとって "私の行いの結果" が肯定的に受け入れられるものだっただけ、マッチしただけだと思う。だがそれが喜ばしいことに変わりはない。

B
逆に、失敗によって他人に不要な迷惑をかけたり、ネガティブ感情を抱かせてしまったら申し訳ないし、自分を責めてしまう。完全に "私の行い" のせいだと思うからだ。そもそも私は悪い意味で存在感を出すことが一番嫌で、大方ひっそり無害でいたいから、それが叶わないと動揺してしまう、「またやってしまった」「こうしたかったわけじゃないのに」「次こそは気をつけよう」と。それが自分の価値に影響しているのかはよくわからない。正直、無い価値(or少ししかない価値)が減ったりするとも思えない。"自分のダメさ" という氷山があって、その一角がまた一つ見つかった、というイメージ。

説明はひとまず以上だ。

こういう感覚にはあまり共感してもらえない気がするのだが、そんなに変だろうか。でも、条件つき自己肯定の人たちだって本質は同じようなもんじゃないのか、条件つきで自己肯定してるってことは自己肯定感が無いってことなんだから…とたまに疑問に思う。私(ら)と彼らとの差は何だろうか。努力で結果が変わると信じているかどうか、だろうか。条件つき自己肯定タイプの知り合いが複数いるのでやや気になる。掘り下げるのも失礼なので中々聞けないが。

とはいえまぁ私が条件つき肯定の側に行けることは当面なさそうなので、自分は自分でより健全な自己満足を目指して本気でやっていく。「自分はだめなやつだと思ってしまうのは仕方ない、それでも今目の前のこの人が喜んでいるのは事実だ、よかったじゃないか」という感じで。やってるうちに上述の自己肯定感の高低についての考え方も変わっていくかもしれない。


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