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アレキシサイミア的な失敗からの脱却?

自分には幼少期から失言や失敗行動が目立っていたが、最近急速に改善しているので、愚痴を交えて経過を書いておく。
参考:診断を受けたときの話「修論執筆と心療内科通院の並行」


失敗の原因

自分の失言癖や行動失敗パターンとは、「こういうときはきっとこうするべき」と信じてやったことが間違っていて、友達や親から「ひどい」「傷ついた」「思いやりがない」「みんな引いてた」と後から苦情がくるという、誰も幸せにならない結果を導くものばかりだった。

別件で心療内科に行っていたときそれを相談したら、担当の先生は「そういう失敗をするときには、何か法則があるのかもしれませんね」と言っていた。

それから自分の過去・現在の言動について2年間ほど考えていたところ、失敗するときの自分は以下のような状態にあったことに考え至った。

  1. 自分の感情・感覚を認識していない

  2. 他人の感情を想像していない

  3. 「こういう場面ではこうするのが自然」の誤り

もう少し詳しく説明する。

1. 自分の感情・感覚を認識していない

要は、自分の感情を無視する癖がついていたので、「自分はこれがやりたい、だからやるorだけどやらない」という発想・行動がスムーズにできなかったのだ。* そのため、無駄に忖度して本心ではない発言・行動をして人を不快にさせていたようである。

話を心療内科に戻すと、初診でアレキシサイミア(失感情症)のグレーゾーンと判断され、感情はあるがそれを認識するのが苦手な傾向にあると言われた。そして、アサーションという、やりたいことを認識した上でやるorやらないを決めるという過ごし方を教わった。そうすると、選択の結果失敗したとしても「自分が積極的に選んだ」という納得感があるので、適切に責任を取って次に進むことができるようだ。

アサーションができれば、そもそも無駄な発言はしないし、失言しても誠意を持って責任が取れる。

しかし通院当時は、アサーションが失言癖の問題にも繋がっているとは思っていなかった。通院はとっくにやめているが、本当の意味でアサーションを少しずつ実践できるようになったのは最近のことだ。

2. 他人の感情を想像していない

上記のように自分の感情がわからないでいると、他人が内心で感情を認識していることに思い至らず、「みんなも自分みたいな感じなんだろう」としか想像できない。そのため、相手が傷つく・ドン引きする言動を回避できないし、喜ばせることも難しかった。**

この状態から抜け出せたのは、つらさや楽しさを共有したり、話を聞いてくれたり、甘やかしてくれたりする人たちが身近にできたからである。感覚・感情を無視して過ごさなくてよいと気付かせてもらえたのは幸いだった。加えて、そういう人たちにも幸せに過ごしてほしいと思うようになり、少しは相手の話を聞いたりニーズを訊いたりできるようになった。

3. 「こういう場面ではこうするのが自然」の誤り

以上のように自他の感情がわからない状態で、発言するorしない、Cと言うor Dと言う、といった選択を迫られると、毎回「これが正解かな」と予想して当てずっぽうで選ぶしかなくなる。結果、うまくいくこともあれば非難されることもある。こちらからすると、ランダムな選択でランダムな結果が出てくるだけである。だから、コミュニーションにおいて問題が起きるパターンを覚えたつもりで間違えてばかりのまま、四半世紀以上生きてしまった。

これはエミュレーションの失敗に近いのではないだろうか。エミュレーションとは、他者の感情をあまり想像できない人が「Aが起きたときはBをするものだ」という法則を自分の中に蓄積していって、Aを入力したらBを出力するように心がけるようなことらしい(おおよそ)。人間の心の動きには法則がありそうだ、という予想までは合っているのではないかと思うが、それがどんな法則(「常識」と言ってもよい)なのかがわからないために失敗ばかりするのかもしれない。***

解決法?

解決法はまだわからないが、今は自他の欲求を知って満たすことを目指している。それぞれの問題点には以下のように対処するよう心がけている。

  1. 自分の感情を認識していない
    →欲求に向き合った上で解決or我慢を選択する

  2.  他人の感情を想像していない
    →普段から話を聞く、わからなければ訊く

  3. 「こういう場面ではこう言うのが自然」の誤り
    →「常識」に囚われず、自他の幸せのために自他の感情を優先する

失敗の解釈

以上を踏まえて、自分の過去の失敗パターンを振り返ってみる。

基本的な失敗パターンは、自他の感情を無視して、勝手に推測した「常識」にだけ従って行動するので、悪いときには全員が不幸になるというものだった。よかれと思って自分を犠牲にしてやりたくもない行動をして、それなのに結局自分や他人を傷つけ、しかも適切に責任を取れないパターンだ。

例えば、小学生のときに習い事の稽古場でアイスをもらって「何か感想を言わなければ」と思ったので、適当に当たり障りのないことを言ったつもりが、周囲の大人にはとても失礼だと思われていたことがあった。

他にも、ホテルの部屋で、お茶が飲みたいのにコーヒーしか見えていないため、本当は嫌なのに嫌だと実感せずコーヒーを飲んでしまい、後からお茶があったことに気付いて落ち込んだことがある。お茶を探すとか買いに行くとかそういう発想がないのは、「何かを我慢してでもとにかく目の前のことをこなさなければならない」という強い焦りがあるからだ。

前者のように他人に悪いことをしてしまったときは、周囲がフィードバックしてくれればこちらもわかる。丁寧な人は「お前にAをされて傷ついた」ときちんと説明してくれることもあり、そうすればこちらも「Aをやってはいけない」ということがわかる。しかし相手の傷つきの根本に心の動きがあることがわかっていなかったので、自分の頭の中で、失敗例=「してはいけないことリスト」が増えていくだけだった。だから迂闊に発言できなくなるし、人の心に踏み込んで何か伝えるといったこともないままであったのだろう。

そんなこれまでの自分にとって人間社会は混沌であり、既知の「してはいけないこと」=「NG要素」をマークしたところで、それ以外の総体は未知の「NG要素」を含む混沌のままで、どこに落とし穴があるかわからない四次元空間みたいに見えていた。また、楽しむことを目的に何かをしたことも他の人より少なくて(多分)、対象に打ち込むことや技術を高めることばかり重視して、緊張と不安をたくさん味わって、周囲に迷惑ばかりかけてきたように思える。

最近の変化

ところが、どうやら他の人たちはやりたいこと(大きな夢ではなく、何か食べたいとか友達と仲良くしたいとかその程度)があり、それを軸に動いているからカオスの波を乗りこなせているようだ、という様子が段々見えてきた。

知り合いとのやりとりでも気付かされることが多い。

自分は混沌の中にいるのがつらかったので「なんでもできるなら、食事も睡眠も何もせずに死ぬまでやり過ごしたい(つーかもう終わりにしていい)」と考えていた。そんなときに知り合いがたまたま「本当になんでもできるなら〇〇がしたい」と言っているのを聞いて「この人はやりたいことがあるんだ!」と衝撃を受け、「自分にはやりたいことがない」と絶望した。(この衝撃のメカニズムをうまく説明できない、自分で書いてても馬鹿みたいな文章だと思うが)。

しかし、自分はやりたいことを隠蔽する癖がついているだけで、本当は何か欲求があるのかもしれない思い直した。実際、喉が渇けば水が飲みたくなるので、まずはそういう小さい欲求を無視せずにすぐに満たすようにした方がいいんだと思うことにした。それも元気がないときは全然実践できないのだが…。

そのように心がける中で、他人の感情を知って喜ばせる方法も以前よりわかってきた気がする。仲良くしてくれる人が笑顔でいてくれることはとても嬉しい。人付き合いそのものはまだまだ怖いが。

まとめ

一生上手くやれないままだと思っていたが、上に挙げた3つの問題点に気付き、誤って覚えた常識ではなく自他の感情を優先して行動するようにし始めた。その結果、失言癖が少し改善して、以前よりはまともな人付き合いができるようになってきたのが最近のことである。


*このように自分の感情の認識が苦手な人は、悪意や意図のある人に利用されやすそうなので注意した方がいい。

**額面通りの言葉のやりとりしかできないので相手の意図を汲み取るのが苦手だ、という傾向もこれを悪化させているかもしれない。

***認知行動療法に基づいたゲームアプリ「問題のあるシェアハウス」が助けになりそうだ。やっていた当時は「難しいけど面白いな」くらいに思っていたが、今なら開発側の意図が少しわかる気がする。


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