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境界を越えたバス/都県境編3.5/丸子橋・ガス橋

東京都/神奈川県境編その3.5
現地調査:2022年2月
2022/09/17初版公開
この記事のデータ類は2022年9月時点のものです。
この記事の画像は特記なき限り筆者自らが撮影したものです。

境界を越えるバス、今回の記事のうち丸子橋の分は、本来は都県境編「その4」として公開する予定でした。が、現地調査後ほどなくしてバス路線が廃止されてしまいました。過去の路線を調べているうちに、1つ下流のガス橋にも路線バスが走っていたことが判明したので、両者合わせて「その3.5」として公開します(その関係で、上流側ではあるけど最近まで路線バスが通っていた丸子橋を先に解説します)。

丸子橋・ガス橋と、これまでに紹介した橋の位置関係
(多摩川スカイブリッジは、諸事情?により省略^^;)

丸子橋

橋の概要

 丸子橋は多摩川下流域の、東京都大田区田園調布本町と神奈川県川崎市中原区上丸子八万町の間にかかる。自動車が通行可能な多摩川にかかる橋としては、下流側から6番目になる。主要地方道でもある東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線が通る。往復4車線で両側に歩道がついた橋であり、全長405.6m/幅25.0mである。

丸子橋東側半分。
よく見ると中央付近に橋を渡るバス(多分、二子玉川駅行)が写ってます。
丸子橋の西側。左岸側から撮影。
アーチ2つで水流をまたいだ先は、普通?の橋になってます。
丸子橋西詰の上流側。
丸子橋西詰の「青看」。
神奈川県道2号線は左折で「綱島街道」となります。
「中原街道」は右折ですが県道番号が"45"になり、この先に狭隘な区間があります。

 初代の丸子橋は、1934(昭和9)年に架けられた。東海道の脇往還の1つである中原街道が通る「丸子の渡し」の上流側に架けられており、当時は往復2車線の橋であった。ちなみに、中原街道は江戸の街から平塚宿まで、東海道の内陸寄りを通っていた。距離自体は東海道を行くよりも若干短い。
 交通量の増大と橋の老朽化に伴い、東京都と神奈川県が共同で架け替え事業に着手。2000(平成12)年に現在の橋への架け替えが完了している。

旧丸子橋の親柱

路線バス

 2022年3月末までは、東急田園都市線二子玉川駅~東急東横線多摩川駅を結ぶ"玉11"系統が、土休日の昼間のみ、丸子橋をわたって(武蔵)小杉駅東口まで延長運転を行っていた。担当は東急バス瀬田営業所である。昼間のみであるが、運行中は毎時4本程度の運転で、利便性はそこそこあったものと考えられる。筆者が乗った2022年2月の時点でも、乗客はそこそこ乗っていた。
 この路線の開設は古く、1955(昭和30)年に二子玉川園(当時は東急大井町線沿線)と多摩川園(当時も東急東横線沿線)の2つの遊園地(最寄駅)を結ぶ路線として開設された。ただし、営業成績はあまり芳しくない状態で続いていたとされる。
 武蔵小杉駅への乗り入れは2015年9月から土休日のみ開始2016年9月からは平日も乗り入れるようになるが、2021年3月のダイヤ改正で平日の乗り入れは終了、土休日の昼間のみの乗り入れに戻っている。2022年4月1日付のダイヤ改正で小杉駅西口への乗り入れは完全に廃止となったが、土休日のみの運行になっていたので、最終運行日は3月27日日曜であった。"玉11"系統自体は、2022年4月以降は全便が二子玉川駅~玉川駅間の運行となり、毎時4~6本の頻発運転で健在である。

丸子橋を渡る"玉11"系統小杉駅西口行。
小杉駅では横須賀線ホームに近いほうの西口に発着してました。
丸子橋東詰やや上流側の堤防上にて。
多摩川駅を経由して二子玉川駅まで行く便(画面右側奥)と
小杉駅西口に向かう便(画面左側手前)が、すれ違おうとしています。
西詰から橋に進入する"玉11"系統二子玉川駅行。
この姿も2022年3月で見納めとなってしまいました。

 丸子橋を渡る路線バスは"玉11"系統が初めてではなく、1970(昭和35)年に廃止されて以来、45年ぶりの復活であった。
 丸子橋を最初に渡った路線の起源は、第二次世界大戦終了直後の1940年代後半に開設された東急バス「神奈川線」に由来し、中原街道・綱島街道経由にて、五反田駅~丸子橋~日吉駅~綱島駅~横浜駅西口を結ぶ長大路線であった。
 ちなみに、五反田駅~丸子橋(東詰)間は、先に営業開始していた"100"系統(後の"東90"系統)東京駅~五反田駅~雪が谷~丸子橋間の雪が谷線と同じルートあった。この路線は都バスと東急の共管であったが、丸子橋を渡らずに折り返していた。当時の都バスの100番台の系統番号は他社との共管路線に対して与えられており、"100"系統はその第1号でもあった。
 東急バス「神奈川線」は1964(昭和39)年までに系統分割され、丸子橋を渡る系統は五反田駅~丸子橋~綱島駅の運行となる。その後、1970(昭和45)年に丸子橋を渡る区間が廃止され、上述した"東90"系統に吸収された。
 その"東90"系統は1979(昭和54)年に系統分割され、丸子橋まで来る(が橋は渡らない)系統は、東急単独運行となった"品90"系統品川駅~五反田駅~丸子橋と、その区間便である"反10"系統五反田駅~丸子橋になる。池上線の完全並行区間になってしまっため、"反10"系統が1984(昭和59)年2月/"品90"系統も1989(平成元)年3月末で廃止されて現在に至る。この結果、五反田~丸子橋間の中原街道を直通する路線バスは無くなってしまい、現代では路線が繋がらない箇所が散見される状態である。

 現在、丸子橋東詰=東急東横線多摩川駅前の折り返し場にやってくる"玉11"系統以外の路線には、"多摩01"系統多摩川駅~東京医療センターがある。"多摩01"系統自体の運転開始は2011年3月からであるが、その源流を遡ると、"渋33"系統渋谷駅~雪が谷~多摩川駅の区間運転便に行き着く。
 この系統は1959(昭和34)年に渋谷駅~雪が谷~池上駅~大森駅間で渋谷線として開設された路線に端を発する。1981(昭和56)年5月に"渋33"系統渋谷駅~丸子橋間"森10"系統田園調布駅~大森操車場間に分割。1989(平成元)年に丸子橋折り返し場の廃止に伴い、多摩川駅に乗り入れるようになったが、"渋33"系統は2018(平成30)年2月末で廃止となった。東京医療センター以北の部分は、 "渋34"系統として区間運転便が残っていたが、2020(令和2)年3月より運転区間を短縮、"都立34"系統東京医療センター~都立大学駅北口~下馬営業所(下馬営業所付近は往路と復路で経路が異なるループ状運行)として残っている。担当が淡島営業所なので、出入庫便として三宿まで営業運転する"都立35"系統がわずかに残っており、これが現代では渋谷駅に最も近づく系統となっている。なお、渋谷線の南半分となった"森10"系統は下丸子線という路線名をもらったが、利用状況が振るわず、1993(平成5)年11月に廃止されている。

 なお、丸子橋の西詰には、川崎市交通局による"川74"系統川崎駅~小杉駅が入っている。「丸子橋」という名前の停留所は、本系統(多摩川右岸)の他、上述した"多摩01"系統(多摩川左岸)にもあるので、注意が必要である。また、"川74"系統のこの区間は日中ほぼ1時間に1本の運転であるが、左回りの一方向運転である上、丸子橋停留所から乗車した場合は小杉駅前までに下車しなくてはならない。1つ先の丸子通2丁目からは川崎駅行として運転されるので、小杉駅より先に行く場合は1停留所分歩く、もしくは、運賃を2度払う必要がある。

丸子橋右岸=川崎市側の丸子橋バス停。少々見つけにくい位置にあります。
本数が少ないうえ、3つ先の小杉駅前までしか行くことができません。
この区間は一方向循環なので、逆行する便はありません。

ガス橋

橋の概要

 東京都大田区下丸子と神奈川県川崎市上平間の間に架かる、自動車が通行可能な橋としては多摩川の河口から5番目の橋。東京都道・神奈川県道111号太田神奈川線が通る、往復2車線=対面通行で片側1車線の橋。歩道は両側にある。
 1929(昭和4)年にガス管のみの橋として架けられた後、1931(昭和6)年に人が渡れるような設備を追加して「瓦斯人道橋」となった。ただし、歩道の幅は点検用通路を流用したもので、幅1mしかなかったという。
 1960(昭和35)年になり現在の橋が完成、自動車が通行できる橋となり現在に至る。

川崎側=右岸上流側から見たガス橋全景。
大田区側=左岸上流側から見たガス橋全景。
上流側歩道脇の、都県境ロードサイン。
随分色褪せて、貫禄?が出てます。
下流側歩道脇の都県境ロードサイン。

路線バス

 実のところ、自動車が通行可能となった橋としては比較的新しい?ため、過去、橋を渡ったバス路線は存在しないと思い込んでいた。ところが、なにかの拍子(?!)に、この橋を渡ったバス路線があったことが(偶然)判ってしまった
 橋を渡ったバス路線の源流は、東急バス下丸子線として蒲田駅~下丸子折り返し場の間を運行していた路線である。自動車が渡れるような橋に架け変わった1960(昭和35)年に運行区間を蒲田駅~下丸子~ガス橋~平間駅〜小杉駅前に延長した。そして1963(昭和38)年には、平間駅で別れて蒲田駅~日吉駅を結ぶ平間線が運行開始した。この系統は後に川崎駅~日吉駅に運行区間を改められ、丸子橋を渡らなくなっている。1960年代後半には、下丸子折り返し場発着でガス橋を渡り、小向・川崎駅方面との間を結ぶ路線も開設されている。
 1967(昭和42)年に蒲田駅~小杉駅の系統は"蒲02"、下丸子~川崎駅までの直通路線は"川65"の系統番号を与えられるが、"蒲02"系統は1974(昭和49)年に廃止1978(昭和53)年12月の路線再編で"川65"系統も多摩川右岸=川崎市内で路線完結する鹿島田線に吸収されて、ガス橋を渡る区間は廃止されてしまった。
 現代ではガス橋の川崎市側である西詰交差点を、丸子橋の項で触れた"川74"系統の北行(=武蔵小杉駅方面行)が経由する他、本数僅少であるが上平間始発の井田営業所・井田病院・江川町へ向かう"川63 / 川66 / 川83"系統の出庫便が往路のみ経由する(復路=入庫便は別ルート)。たぶん、この系統が川崎駅~日吉駅間の系統の成れの果て?であると思われるが、それを証明する資料には行きついていない。ちなみにこれらの3系統は頭文字に"川"の文字がついていることから判るように、本線は川崎駅発着である。平間営業所へ出入庫する枝線(の出庫便)のみがガス橋の袂を経由する。
 一方、ガス橋の東京都側である東詰には、直接やってくるバス路線は現存しない。近隣を大田区のコミュニティバスである「たまちゃんバス」が橋からそこそこ離れた箇所を経由する。運転間隔は37~43分で、1台のバスが循環運行していると推定される。

行政区画の歴史

 現在ではどちらの橋も東京都大田区と神奈川県川崎市中原区の間に架かっている。このうち、神奈川県側は橋が架かった時点ではすでに川崎市となっていたが、東京都側は当時の東京市が合併で拡大していた時期と重なっているため、ガス橋の東京側のみ、橋がかかった当初は東京市ではなかった。

丸子橋

 丸子橋の左岸=東岸側は、江戸時代には武蔵国荏原郡上沼部村であったと推定される。1889(明治22)年の町村制施行時に周辺の村と合併して東京府荏原郡調布村が発足。1928(昭和3)年に町制施行した際に北多摩郡調布町(現代の調布市)と区別するため、荏原郡東調布町となる。その後、丸子橋がかかる直前の1932(昭和7)年に東京市蒲田区に編入されている。
 丸子橋の右岸=西岸側は、江戸時代には武蔵国橘樹郡上丸子村であり、1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併し神奈川県橘樹郡中原村となる。1925(大正14)年に住吉村と合併して橘樹郡中原町となった後、丸子橋が架かる直前の1933(昭和8)年に川崎市に編入されている。中原区となったのは川崎市が政令指定都市になった1972(昭和47)年である。

ガス橋

 一方、ガス橋の左岸=東岸側は、江戸時代には武蔵国荏原郡下丸子村で、1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併して東京府荏原郡矢口村が発足。1928(昭和3)年に町制施行で矢口町となった後、1932(昭和7)年に東京府東京市に編入され蒲田区の一部となる。従って「瓦斯人道橋」がかかった当初は、左岸側は東京府荏原郡矢口町だった時代と重なっている。
 ガス橋の右岸=西岸側は、江戸時代には武蔵国橘樹郡上平間村であった。1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併し神奈川県橘樹郡御幸村となる。1924(大正13)年に川崎町・大師町と合併して川崎市が発足、この後にガス橋が架かっている。1972(昭和47)年に川崎市が政令指定都市になった際、幸区となった他の旧御幸村エリアと異なり、中原区となっている。

 橋が架かる前の話になるが、明治期には蛇行していた多摩川の旧流路にそっていた東京と神奈川の府県境が、1912(明治45)年に直線化された新流路に変更された。ただし、本記事で取り上げた2つの橋の袂の自治体は、この影響は受けていない。

明治期のガス橋・丸子橋が架かる予定地付近の地図。1905(明治38)年測図。
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二 氏)
により作成したものです。
丸子橋・ガス橋共に架かった後のその界隈の地図。昭和20年部分修正。
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二 氏)
により作成したものです。

おまけ

東急多摩川線多摩川行きの電車。
多摩川駅直前の踏切にて。

 上に載せたのは、多摩川駅前のバス折り返し場の脇を、半地下化された多摩川駅へ進入する、東急多摩川線の電車である。テールランプがついていることから判る通り、こちら側が列車の最後尾である。
 ということは右側通行しているようにみえるが、地形の関係で、この踏切よりも手前=蒲田駅寄りに2線ある多摩川駅多摩川線ホームのどちらに入るかを振り分ける分岐器があり、右側のホームに入るように振り分けられた後なので、とくに異常事態ではない。
 なお、この電車の塗色は、1950年代前半の東急の車両で採用していたものを模したものである。

多摩川駅バス折り返し場界隈にある浅間神社

 そして、多摩川駅本体とバス折り返し場の間にあたる位置に、このような神社があります。現地取材のときは先を急いでいたので参拝は省略させていただきましたが、神社仏閣好きな自分としては、由緒を確認したかったところ、かも?

余談

 いやぁ、まじで、2022年2月に現地取材をした時には、3月一杯で橋を渡る区間が廃止されるとは予想だにしていなかった… これも新型ウィルス感染症蔓延による、人流減少の影響なのか? それとも、バス運転手不足(厳密には、バス運転手さんに払う給料の原資不足??)に伴う減量運転の余波なのか?

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