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境界を越えるバス/都県境編3/多摩川大橋

東京都・神奈川県境編その3
2022/08/28公開
現地調査:2021年10月/12月/2022年2月
特記なきデータ類は2022年8月現在のものです。
また、特記なき画像は、全て筆者自身が撮影したものです。

境界を越えるバスシリーズ、多摩川編(?!)の3回目です。現地調査は早々と済ませてたのですが、順番(??)の関係で、中々アップロードできずにおりました。橋の成り立ちも、バス路線も、思ったよりシンプルです。

橋の概要

多摩川下流部と多摩川大橋の位置。
ベースの白地図は freemap.jp より。

 国道1号線の現道が通る橋であり、この区間は「第二京浜国道」である。現代の橋は、全長435.76m/幅22.8 m。両側に歩道が付いた往復6車線という仕様は、大師橋や六郷橋と共通である。現在の橋は1949(昭和24)年に竣工した初代の橋を、随時改良を行いながら架け替えずに使い続けている点が異なる。かつての「矢口の渡し」に近い所に架橋されている。
 橋の左岸=北岸=東京都側は、大田区矢口3丁目と多摩川2丁目の間になる。右岸=南岸=神奈川県側は、川崎市幸区東古市場小向仲野町の間であるが、河川敷部分は古市場である。江戸時代以前は、両岸とも武蔵国で、原則として左岸が荏原郡/右岸が橘樹郡であるものの、この辺りで大きく蛇行していた太古?の流路が郡境→明治期の東京府神奈川県境なので、注意を要する。詳細は後述する。

大田区側から見た、多摩川大橋の全容。
奥に見えているアーチ橋は「多摩川専用橋」で、送電線と電話線のみが通っています。
上流側/大田区側河川敷から見た、多摩川大橋の全景。
多摩川大橋北詰上流側の袂。
銘版は開通当初からのものと思われます。
多摩川大橋北詰。
「川」と「橋」自身を示すロードサインが建っています。
都県境を示すロードサイン。
ロードサインの脇には、市区境の表示があります。
大田区側から見たロードサイン。
多摩川大橋本体と専用橋の間の河川敷からの風景。
多摩川左岸を往く旧都道424号線。
第二京浜に上がるためには、少々複雑なルートを取る必要あり。

バス路線の現況と歴史

現況

 通過するのは、東急バス荏原営業所による五反田線”反01”系統五反田駅~川崎駅ラゾーナ広場のみであるが、運転本数が毎時5~8本と非常に多く、おそらく、多摩川に架かる橋の中で最も多くの路線バスを通している橋になる。

多摩川大橋に向かう"反01"系統五反田駅行。
橋の中間地点付近に差し掛かる、"反01"系統五反田駅行。
多摩川大橋に進入する"反01"系統川崎駅行。
多摩川大橋上のバス車窓からの風景。

 この路線は、五反田駅から川崎駅直近の遠藤町交差点(国道409号線との交点)まで、ひたすら国道1号線=第二京浜国道を走る。非常にシンプルで、潔い。東京都側では都営地下鉄浅草線と諸に並行している区間(五反田~西馬込)もあるが、運転本数に段差はつけられておらず、直通需要も多いことを意味している。ちなみに、東急バスの東京都内にある営業所の路線で、神奈川県まで乗り入れるものはこの路線のみである。

川崎駅ラゾーナ広場前で発車待ち中の"反01"系統五反田駅行。
「多摩川大橋」のバス停。
多摩川大橋本体からかなり大田区側に入ったところにあります。
「多摩川大橋」のバス停を出発、多摩川大橋本体へ向かう"反01"系統川崎駅行。

歴史

 この系統のルーツは、第二京浜国道がほぼ全通=多摩川大橋が架橋された時期に近い所まで遡ることができる。1950(昭和25)年に、都バスが東京駅八重洲口~久が原(現在の池上警察所)の”122”系統を東急と共管で開設。ちなみに当時の都バスで系統番号が100番代のものは、民営バスとの共管路線である。この時に、久が原以南は東急バスが単独で運行。東京駅八重洲口から多摩川大橋を経て横浜駅までという、現代では信じられないような長大路線が誕生した。なお、都バスの運転区間は、翌年には多摩川大橋(北詰側)まで延長されているが、第一京浜を走った"115"系統と異なり、神奈川県内には乗り入れていない。
 1960(昭和35)年頃には、東急バスの運行区間の南端が鶴見駅までとなる。同時に五反田駅~川崎駅の系統も開設され、これが現代まで続く”反01”系統の直接の起源となる。
 その後、1968(昭和43)年に都営地下鉄浅草線が西馬込まで延長されると、こちらに役割を譲るように都バス担当分は1970(昭和45)年に運転区間を東京駅~五反田駅に短縮系統番号も"6"系統に変更されて相互乗り入れを取りやめる。東急バスは五反田駅以西のみでの運転となる。1972(昭和47)年に系統番号が与えられた時に、五反田駅~川崎駅(東口)が”反01”/五反田駅~鶴見駅が”反02”系統(初代)となるが、後者は1981(昭和56)年に廃止された。現在の”反02”系統は1989(平成元)年に新設された五反田駅~池上警察署間の折返便であり、多摩川大橋まではやってこない。
 運行開始以来、川崎駅では東口に発着していた本系統であるが、川崎駅西口の再開発事業によるラゾーナ川崎に隣接する西口北バスターミナルが2007(平成19)年に完成、こちらに発着するようになる。バス停名は2018(平成30)年4月より停留所名が「川崎駅ラゾーナ広場」となり、現在に至る。

第二京浜国道/多摩川大橋を通る路線バス系統の変遷。

その後の五反田駅以北の部分

 都営バス単独による東京駅~五反田駅の"6"系統は、1972(昭和47)年に"東96"系統に番号が改められた後、1982(昭和57)年に田町駅以北を廃止、五反田駅発着で田町駅を経由する循環路線=往路と復路で一部区間が別ルートになるように経路変更、"反96"系統を名乗る。1990(平成2)年、元々"東96"系統だったルートが"反90"系統五反田駅~三田駅になったが、2015(平成27)年に路線廃止されてしまった。なお、三田駅と田町駅はほぼ同一地点である。
 ”反96”系統の残りの部分は、紆余曲折を経た結果、2002(平成14)年五反田駅以東の国道1号線を辿る区間"反94"系統五反田駅〜赤羽橋駅として独立。一応、2022年8月時点でも残っているが、朝3往復/夕4往復で1時間間隔での運転である。途中、白銀高輪の駅付近で国道1号線から(厳密には国道1号線の方が)逸れるが、終点の赤羽橋駅停留所は国道1号線に近い場所にある。
 白銀高輪駅付近より先は、東急バスによる"東98"系統により東京駅丸の内南口までたどることができる。赤羽橋付近で国道1号線から逸れるが、ほぼ並行した都道301号線を主軸に辿っていく。この系統も1948(昭和23)年に開設された都バスと東急の共管路線である、"113"系統東京駅南口(丸の内側)~目黒駅~自由が丘に端を発する古くからの系統である。都心部のルートは、開設当初から八重洲側に発着する”122”系統とは異なっていた
 なお、"反96"系統として最後まで残されっている部分は、他の路線と統廃合を繰り返した結果、現存してはいるものの原型を留めない状態(五反田駅~品川駅~六本木ヒルズ)になっているので、これ以上は触れない。
 このあたりの変遷について、詳細は都バスのファンサイトである「都営バス資料館」に詳細が記されているので、興味のある方は参照されたい。

その後の川崎駅以南の部分

 一方、川崎駅以南の第二京浜=国道1号線を走る路線であるが、横浜市交通局"7"系統川崎駅西口~横浜駅(東口バスターミナル)/"29"系統鶴見駅(東口)~横浜駅(東口)と、臨港バス"川50"系統川崎駅西口~鶴見駅西口が現存。いずれもそこそこ多い運転本数にて運行している。
 これらの路線の歴史を解説するには、東急が東京駅~横浜駅間の路線を開通させた頃まで遡る必要がある。非常に長くなるので今回は(??)省略させていただく。

現代における川崎駅~鶴見駅~横浜駅間のバス路線。
川50系統だけが臨港バス、残りは横浜市交通局です。

第二京浜国道と多摩川大橋

 現代の第二京浜国道が多摩川を渡っている部分の近隣には、江戸時代には鎌倉街道(の1つ)が通っており、故に、矢口の渡しが設置されていた。

1906(明治39)年測図の現在多摩川大橋が架かる付近の地理院地図。
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二 氏)
により作成したものです。着色部分は筆者が加筆。
東京府(当時)神奈川県境が整理される=多摩川本流となる以前、です。

 第二京浜国道の計画そのものは戦前まで遡り、1934(昭和9)年に、当時、京濱國道を経由で東京日本橋~(伊勢)神宮であった國道1號と全区間で重複していた國道36號(東京日本橋~横浜港)の経由地を変更する形で、新京浜国道の建設が決定される。1936(昭和11)年に着工。1942(昭和17)年に橋の下部工事が完成するも、第二次世界大戦の影響で長らく工事が中断したままであった。この間の1945(昭和20)年3月31日に木製の橋が架橋されるが、4月15日には戦災に遭い、焼失してしまう。
 終戦後建設が再開され、1949(昭和24)年に完成したのは冒頭で述べた通りである。完成当初は、中央部往復4車線が自動車用の「高速車線」、現代の歩道のように両側の一段高くなった部分に自転車や荷車向けの「緩速車線」と歩道が設けられた。

1945(昭和20)年部分修正の地理院地図。多摩川大橋架橋直後?
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二 氏)
により作成したものです。着色部分は筆者が加筆。
東京都神奈川県境は、多摩川本流となっています。

 1952(昭和27)年の新道路法施行により、第二京浜経由にて東京都中央区~大阪府大阪市北が新たに国道1号線に指定される。この時に元々1號國道であった京濱國道は国道15号線に指定されなおされたことは、六郷橋の記事で述べた通りで、この設定が現代まで活きている。
 1957(昭和32)年には日本で最初に水銀灯が橋上の道路照明として使用された。第二京浜国道自体は、東京都内の未開通区間が1958(昭和33)年に開通し、全線完成となった。
 交通量の増大に対応するため、1961(昭和36)年頃から「高速車線」と「緩速車線」の境界を撤去。数年かかって、現在の往復6車線+両側に歩道という形態に改築され、現在に至っている。

行政区画の変遷

 多摩川大橋が架橋されたのは戦後になるため、既に左岸は東京都大田区であった。江戸期には武蔵国荏原郡矢口村であった領域で、1889(明治22)年の町村制施行時に周辺の村を合併して東京府荏原郡矢口村となった後、1928(昭和3)年に町制施行して矢口町になる。1932(昭和7)年に東京市に編入された後は東京市蒲田区矢口町となる。東京都となった後、大森区と合併して大田区となり現在に至っているのは、大師橋や六郷橋の項で述べたことと同様である。
 右岸も、多摩川大橋架橋時には、既に神奈川県川崎市であった。江戸期には多摩川の昔の流れが郡境となっていたため、武蔵国荏原郡矢口村が多摩川本流の右岸に広く食い込んでいるエリアであった。この郡境が明治期にはそのまま東京府と神奈川県の境界になった(上記明治期の地図参照)。郡境の南側は武蔵国橘樹郡小向村で、1889(明治22)年の町村制施行時に周辺の村と合併して神奈川県橘樹郡御幸村が発足。1912(明治45)年に多摩川本流を東京府神奈川県境とするよう変更される。御幸村は1924(大正13)年に川崎町・大師町と合併して川崎市が発足。1979(昭和54)年に政令指定都市となり、旧御幸村のエリアは幸区に属する。

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