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境界を越えるバス/都県境編14/鶴間橋周辺

東京神奈川都県境 境川編その0
2024年2月現地調査実施
2024/07/18 初版公開

データ類は特記なき限り2024年2月現在のものです。
図面・写真類は特記なき限り筆者自ら作成・撮影したものです。

多摩丘陵を複雑に屈曲しながら横断してきた都県境は、三浦半島中央分水嶺の延長線を北上してきた旧国境と合流した後、境川へと移ります。今回のバス路線の越境地点は都県境が境川へ移る直前ですが、ここまで曲がりなりにも辿って来た尾根筋がありません。昔からの街道が境川を渡る地点と近いもののそのものずばりではないので、副題を「境川編その0」としています。


現場付近の地理的な状況

現場の位置とこれまでに紹介してきた地点の関係(前回記事の図を一部改訂)。
思えば遠くに来たもんです… ですが、まだ横浜市の一角です…

 今回は、バス路線が境界を越える地点直近にある目印となるような土木建造物が、少し離れたところにある鶴間橋しかなかったため、このようなタイトルになった。都県境を越える一部路線は鶴間橋を渡らないことについては、あらかじめ御了承いただきたい。
 なお、「鶴間橋」という名前の橋はさほど離れていない箇所にもう1つ架かっている。この橋も本数僅少ながら毎日運転されるバス路線が通っているので、次回の記事で紹介する予定である。

現場付近の拡大図。前回記事のものを一部修正して再掲載。
周辺のバス路線越境地点も併せて掲載。

 旧国境と合流後、東京都町田市=江戸期の武蔵国多摩郡鶴間村の南縁を辿って来た都県境は、八王子街道が通る鶴間橋の北方数百mの地点で、境川に合流する。この地点から上流側にて、この川筋が武蔵・相模国境で確定したのは1594年の太閤検地の際である。境川の名前を与えられたのは国境が確定した以降のことで、それ以前は高座(たかくら)と呼ばれていた。
 この地点より東側の都県境は、旧国境と合流して以降、尾根や河川などの目立った地理的な障壁となるものはほとんどないため、路地などに沿っている区間でなければどこが境界なのか良く解らない状況になっている。逆に境川を上流側から辿って来た場合、どこで都県境=旧国境が離脱するのか、それと関連付けられる標識の類がないと全くわからない状態である。

都県境=武相国境が旧大山街道を横切る地点。
境界は手前の路地から出てきて、前方右の路地へと進みます。
同じ地点で都県境を逆方向に振り返ってみた図。
何の変哲もない路地ですが、都県境で武相国境です。
路地を進むと、国道246号現道に行き当たります。
ここで都県境は国道を直角に横断した後、真っ直ぐに進んで境川に至ります。
都県境=武相国境が境川に合流する地点。
都県境は標識類がある付近の左手からでてきて境川を手前=上流側に進みます。
現場付近を角度を変えて見てみた図。都県境は右手からて来て、川沿いに奥に進みます。
現在建っている場所が横浜市瀬谷区/ポールの向こうが東京都町田市。
川の反対側は神奈川県大和市です。

 境川の西側は、現代では神奈川県大和市下鶴間=江戸期には相模国高座郡下鶴間村であった。これより下流側では、境川(旧高座川)は鎌倉郡と高座郡の郡境となるが、両岸ともに相模国となる。上流側は、現代では神奈川県相模原市南区の一部となっているが、江戸期には相模国高座郡上鶴間村が存在した。境川の左岸=東岸側には武蔵国多摩郡鶴間村があった。鶴間という地名が境川の両岸にまたがって存在しているのだが、元々1つのエリアだったのかどうかは不明である。
 ちなみに、境川は最下流では片瀬川とも呼ばれ、江ノ島の付近にて相模湾にそそぐ。現代では藤沢市内を突っ切っているが、境川左岸エリアは合併によって藤沢市(もしくはその前身自治体)となった地域である。境川は鎌倉郡/高座郡の郡境ではあり、東海道の藤沢宿は境川の両岸、すなわち、鎌倉郡と高座郡にまたがって延びていた。

現場付近のバス路線

現場付近のバス路線概略図。クリック or タップで拡大します。
ベースの地図は openstreetmap より作成。バス路線は筆者が加筆。

都県境=武相国境を越える地点

  簡略地図にて示すように、この付近でバス路線が都県境を越える地点は、都県境が境川に移行するより東側の地点であり、国道246号線の旧道とバイパス=現道の双方にバス路線がある。これらの地点は、東京都町田市鶴間=旧武蔵国多摩郡鶴間村と神奈川県横浜市瀬谷区=旧相模国鎌倉郡瀬谷村の境界であるが、先述したように目立った尾根や河川はない。都県境の南西側にて、旧道とバイパスは合流し、すぐに八王子街道=旧国道16号線との交差点に至る。
 大山街道旧道上にて都県境を越える系統は、以前の記事にて取り上げた町田市辻の交差点にて一旦都県境を掠めてきた路線群で、"町87"系統町田駅~鶴間駅東口"町88"系統町田駅~鶴間車庫"南03"系統南町田クランベリーパーク駅~マークスプリングスの3系統が該当する。町田市辻の交差点にて一旦都県境を掠めた後、旧大山街道に入ってきた路線である。

旧大山街道にて都県境を越えてきた"町87"系統鶴間駅東口行。
実際には、バスの後、白い車の辺りが都県境。
都県境へ差し掛かる、"町87"系統町田バスセンター行。
実際の都県境は、その先、黒い車が左の路地から出てきている辺り。

 国道246号現道=バイパス上にて都県境を越えるのは、途中無停車の直行便である"南02"系統南町田クランベリーパーク駅~マークスプリングスである。こちらは、南町田駅を出ると、国道16号線大和バイパスから直接国道246号線バイパスに入るため、町田市辻の交差点は通っていない。

国道246号の側道を降りてきた"南02"系統マークスプリング行。
実際の都県境は、バスの車2台分ぐらい後、です。
国道246号側道から本線へ向かう"南02"系南町田クランベリーパーク駅行。
途中無停車の直行便です。

 これらの路線のうち、鶴間駅発着系統は通常の時間帯は"町87"系統として毎時1本程度運転される。"町88"系統は朝間の車庫発出庫便/夜間の車庫行入庫便のみ運転である。マークスプリングス発着系統は、通常はバイパス経由の直行便である"南02"系統として毎時1~2本が運転される。夜間の南町田駅発の便のみが旧道経由の"南03"系統として運転される。これらの全路線を神奈川中央交通東大和営業所が担当する。
 町田と鶴間を結ぶ"町87"系統とその区間運転便である"町88”系統は、前身となる路線も含めるとその歴史が非常に古く、1950年代にまで遡るが、詳細は調査未了である。一方、”南02"系統は、2003(平成15)年7月に工場跡地に開発された住居施設マークスプリングスのオープンと同時に開設された路線である。この派生系統となる"南03"系統は、更にその後、2017(平成29)年6月に開設されている。当初から夜間に南町田駅発のみの運転である。
 "町87"系統と"町88"系統は、都県境=旧国境を越えた先の交差点にて国道16号線旧道である八王子街道へと右折、境川を鶴間橋で渡って市境=旧郡境を越え、神奈川県大和市下鶴間(=旧相模国高座郡下鶴間村)に移る。この間の横浜市瀬谷区内にはバス停留所はないので、バス停だけ見ていると東京都町田市鶴間から神奈川県大和市下鶴間に直接入るように見える。
 一方、"南02系統"と"南03"系統の終点である住宅施設マークスプリングスは横浜市瀬谷区に存在する。境川を渡らないため、終点までの間であらたに境界(市境)を越えない
 この他、鶴間駅の東側に少し離れたところにある神奈川中央交通大和営業への出入庫回送便が、バイパスの高架側を走っていく。鶴間橋を渡らずに少し先に行った方が、市街地の細い道を走らずに済むため、近道なのである。南町田駅のみならず、町田バスセンター・バスターミナルへの回送便も多く設定されている。「町田市辻」の記事でも述べたように、さらに東側から(おそらく、最遠で青葉台駅?と推定)の回送便も確認されている。

国道246号バイパス側の高架橋経由で大和営業所へ回送されるバス。

境川=旧鎌倉/高座郡境を越える地点

 境川を跨ぐ鶴間橋は、前節で説明した"町87""町88"系統の他、以前の記事「旧国境編10 卸本町周辺」で紹介した"間01"系統鶴ヶ峰駅~鶴間駅東口が通る。この変種で、平日の早朝に1往復だけ横浜駅西口まで至る"横04"系統が存在する。路線の詳細についても、上記記事内で解説しているので、参照されたい。
 鶴間橋~鶴間駅の経路は"町87" "町88"系統と共通である。下鶴間に入るとすぐに西に経路が折れて鶴間駅方面を目指すが、この道筋が旧大山街道であった。ただし、バス路線は暫く行くと南方向へ左折、これより鶴間駅方面は旧大山街道と一筋ずれたルートを辿る。

鶴間橋を渡る"間01"系統鶴ヶ峰駅行。
同じく"間01"系統鶴間駅東口行。

 鶴間橋を通る道は国道16号線の旧道であり、八王子街道の名称がついている。東名高速道路が開通する前は、横浜町田インターチェンジ付近の保土ヶ谷バイパス/大和バイパスは存在せず、この道が横浜~八王子を結ぶ主要ルートであった。この道は、町田街道のバイパスルートの役割を果たすべく、昭和前期(第二次世界大戦前)に造られた道路である。
 大山街道=現代の国道246号線バイパス工事が行われる前は、大山街道は、東京都南多摩郡町田町方面から真っ直ぐに神奈川県高座郡大和町方面へとつながっていた。この当時の地図を以下に貼っておく。

”今昔マップ on the web”で製作した新旧地形図の比較。クリックで拡大します。
左側は1957(昭和32)年発行版だが、測量は戦前と推定されます。

 この当時の大山街道が境川を越えていたのは「鶴瀬橋」で、現存する。橋を含めた前後の道は双方向通行だが、国道246号側が東京都方向に向かう側道の一方通行路に接続されている。すでにバイパス本線が地上に降りかかっている区間でもあるため、大山街道の続きである路地(この区間は都県境も通っている)方面に抜けることはできないし、この方向から進入することもできない。ただ、橋のたもとの付近には大規模な住宅街があり、ここに出入りする車両により、双方向ともそこそこの交通量がある。

現在の鶴瀬橋。当初は大山街道が通っていました。

鶴間橋付近の自治体の変遷

現場付近の地域名の変遷。ベースの地図は openstreetmap より。
赤文字が現行の都道府県・市町村。青文字が江戸期以前の国・郡。

 まず、現場付近の地図を示して、この辺りの都県境・旧国境の概要を改めて説明しておく。
 地図の左下エリア、緑の線より下側で青の線より左側旧相模国で現神奈川県である。境川より西側が神奈川県大和市で相模国高座郡だったエリア、境川より東側は横浜市瀬谷区で相模国鎌倉郡瀬谷村だったエリアとなる。マークスプリングスもこのエリアにある。
 地図の上側、赤線・緑線の上側旧武蔵国で現東京都町田市エリア。江戸期以前には、武蔵国多摩郡鶴間村だった地域である。南町田クランベリーパークもこのエリアにある。
 地図の右側、赤線・青線の右側旧武蔵国だけど現神奈川県のエリア。横浜市緑区と旭区が該当し、どちらも武蔵国都筑郡で緑区エリアは長津田村、旭区エリアは上川井村であった。

 この界隈の自治体の詳細は、以前の記事にて説明を行っているものも含まれているため、新出となる自治体を先に説明した後、既出である自治体は簡単に説明しておく。
 相模国・神奈川県エリアの内境川を挟んだ西側は、江戸期には相模国高座郡下鶴間村であった。1989(明治22)年に町村制施行で合併して神奈川県高座郡鶴見村大字下鶴間となったが、1891(明治24)年に高座郡大和村に改称。1943(昭和18)年に町制施行で高座郡大和町、1959(昭和34)年に市制施行して大和市となり現代に至る。大字下鶴間の地名は、2024(令和6)年時点でも大和市内の地名として残っている。
 ちなみに、北隣にあった相模国高座郡北鶴間村は明治期の合併でさらに北側の村々と合併し神奈川県高座郡大野村大字北鶴間となっている。1941(昭和16)年に合併で高座郡相模原町となり、1954(昭和29)年に市制施行で相模原市に。現在では相模原市南区の一部となっているが、北鶴間の地名は残っている。
 一方、境川の東岸のうち東京都=武蔵国側となっているエリアは、江戸期には武蔵国多摩郡鶴間村→1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併して神奈川県南多摩郡南村→1893(明治26)年に東京府(当時)へ移管→1954(昭和29)年に合併で東京都南多摩郡町田町鶴間→1958(昭和33)年に合併・市制施行で東京都町田市鶴間と変遷している。
 このように「鶴間」を冠する地域が、現代では3つの行政区分に分かれているが、元々一体だったのかどうかは不明である。
 境川東岸で横浜市となっているエリアは旧相模国エリアで、江戸期には相模国鎌倉郡瀬谷村→1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併して神奈川県鎌倉郡瀬谷村→1939(昭和14)年横浜市へ編入され戸塚区の一部→1969(昭和44)年の分区でほぼ旧村域が神奈川県横浜市瀬谷区になり、現代に至る。

 以下、蛇足。

 横浜市がこの辺りまで拡がって来た第二次世界大戦直前の時期には、お隣の川崎市のみならず、当時の東京府東京市も合併で市域を広げていた時期にあたる。東京市(当時)と横浜市に挟まれた川崎市は、北方向に拡張するしかなかったためか、現在の細長い市域になっている。横浜市は北方向のみならず、特に制限?のなかった西方向には旧国境を越えて拡がった。どちらも、流石に都県境を越えては拡がれなかった模様であるが、明治中期に多摩地区が神奈川県から東京都に移管されなかったら、稲城・多摩・町田も川崎市・横浜市に飲み込まれていた、かもしれない。
 なお、横浜市・川崎市の「区」は、「市」の下の区分で独立した議会は持たないが、旧東京市の「区」は、東京の都政施行と共に「都」の直下=他県の市町村と同じレベルになっている(権限などでかならずしも同一でない面はあるが)ことは知っておいた方が良いかもしれない。

おまけ:都県境編/旧国境編の記事通し番号

 本記事では、武蔵・相模の旧国境と合流したものの、タイトルは都県境編の続編として番号を振っている。これは、町田市付近の「旧・旧国境」(太閤検地以前?)が境川・鶴見川の分水嶺を辿っていた可能性があるため、将来、そちら方面の記事を書いたときには旧国境編の連番としたいな、と思っているためである。そこまで手を広げてる余裕は無さそうだなぁ、というのが、現時点での正直な気持ち、かも…
 ちなみに、この先で武蔵相模国境と東京神奈川都県境が分岐して離れていく区間は無く、神奈川県最北端=相模国最北端の生藤山の隣にある三国峠にて、武蔵甲斐国境/東京山梨都県境へと引き継がれていく。本格的に東京都の外周である都県境と武蔵国の外周である旧国境が離れるのは、武蔵国側が東京都から埼玉県に変わる雲取山の山頂から先、となる。
 なお、生藤山から南に行く相模甲斐国境と神奈川山梨県境は、離れることなく駿河国/静岡県との境界に引き継がれる。到達する地点は神奈川・山梨・静岡の三県境となるが、相模・甲斐・駿河の三国境であるため、こちらも三国峠の地名がつけられている。


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