境界を越えるバス/都県境編4/二子橋(新二子橋・新多摩川大橋)
東京都・神奈川県境編その4
2022年2月/9月現地調査実施
2022/09/29初版公開
この記事のデータ類は2022年9月現在のものです。
またこの記事の画像は特記なき限り筆者自ら撮影したものです。
都県境・多摩川編のその4では、左岸=東京都側がようやく大田区を脱出し、世田谷区となります。地名としてはそこそこ有名ですが、通過するバスの本数は意外?と少ない、二子橋について語ります。新道である新二子橋の他、周辺にあるかつて路線バスの設定があった自動車専用道の新多摩川大橋についても解説します。
場所と来歴
二子橋は、これまでに紹介してきた大師橋や六郷橋、丸子橋と異なり、新橋が架けられた後も旧橋も合わせて使われている。単に「二子橋」といえば旧橋を示すことが多く、本記事でもこれに倣う。また、新橋の方は慣例に倣って「新二子橋」と呼ぶ。路線バスが通っているのは旧橋の「二子橋」の方である。ちなみに、旧橋の部分も国道指定から外れていない。
左岸は東京都世田谷区玉川1丁目と3丁目の間、右岸は神奈川県川崎市高津区瀬田と二子1丁目・2丁目の境目付近になる。全長440m/幅11.1m。対面通行の往復2車線で、歩道は下流側にのみ設置されている。
旧橋が架けられたのは1927(昭和2)年。大山街道の二子の渡しがあった付近に架けられる。支流の1つである野川との合流点付近でもある。渋谷から二子玉川までの軌道線を持っていた玉川電気鉄道が建設費の約3割を負担したので、鉄道道路併用橋として供用開始している。当初は渋谷から直通する路面電車サイズの車両が渡っていたが、玉川電気鉄道が東急に合併されたのちの1943(昭和18)年からは、大井町線の(いわゆる普通のサイズの)電車が走った。
戦後も暫くこの状態が続いたが、鉄道・道路共に輸送需要の増大とともに交通量も増えてきたため、1966(昭和41)年に東急田園都市線として溝の口〜長津田間が延長される前に、下流側に鉄道専用橋を架橋、道路交通との分離を行っている。
ちなみに、大山街道は大正時代に神奈川県道1号線に指定されていたが、1956(昭和31)年に国道246号線に指定される。鉄道と分離を行った後も交通量は増え続けたため、東京・横浜バイパスが企画・建設され、その一部として新二子橋が1974(昭和49)年に竣工、周辺道路の整備も行って1978(昭和53)年から供用開始している。全長577.8m/幅33.3mで往復4車線で両側にやや狭いながらも歩道を持つ。
新二子橋の左岸=東京都側は、橋の袂そのもの=二子玉川駅付近へ降りる歩行者・自転車専用となっているランプウェイがある付近は世田谷区鎌田一丁目であるが、その先も暫くの間自動車専用の高架橋が続いており、自動車が地上に降りられるのは瀬田二丁目と四丁目の境界付近となる。従来からの二子橋が多摩川との合流点付近で一緒にわたっていた野川を、この付近ではある程度離れているが一気に渡るようになっているためであり、そのついで?に、デパートの高島屋の上空も跨いでいるという、非常に珍しい光景が見られる。
右岸=神奈川県側は、川崎市高津区二子一丁目と久地二丁目の境界付近であり、歩行者と自転車はこの地点で地上に降りられるが、自動車が地上に降りられるのは溝口五丁目と六丁目の境界付近である。従って、新二子橋を渡ってきた自動車は、多摩川右岸を走る多摩沿線道路に直接入ることはできない。
バス路線
バス路線は、従来からの二子橋の方にのみ設定されている。新二子橋には歩道はあるものの、東京都側の取付道路部分が自動車専用道であること、道路の構造上ターミナルとなる二子玉川駅にアクセスし辛いことがバス路線の設定が無い理由として挙げられる。
現在、橋を渡るメインとなるのは"向02"系統向ヶ丘遊園駅~二子玉川駅で、東急バス高津営業所の担当である。運転本数は都市部のバスとしてはあまり多くなく、日中を中心に約60~90分間隔での運転である。平日夜の二子玉川駅発と平日朝の二子玉川駅行の1往復のみ、途中の新平瀬橋~二子玉川駅間の運転となる便がある。高津営業所は新二子橋のやや西方にあるため、出入庫の時間帯に二子橋を渡らない向ヶ丘遊園駅〜高津営業所間の系統が数本運転される。これらはすべて"向02"系統として運転されている。
この他、高津営業所への入庫便として"玉12"系統駒沢大学駅~二子玉川~高津営業所が曜日によって異なるが7~9本設定されている。"玉12"系統のメイン運転区間は駒沢大学駅~二子玉川駅であり、入庫する便のみ二子橋を渡って高津営業所まで営業運転する。出庫便はすべて回送で行っているようである。土曜夜の1便だけは、渋谷駅~二子玉川~高津営業所間を直通する"渋12"系統となる。こちらも二子橋を渡る高津営業所への入庫便のみが営業運転しており、渋谷駅行は二子玉川駅始発である。
他の系統では、出庫便として営業運転を行うものが早朝に"玉06"系統二子玉川駅経由砧本村行が1本だけ存在する。"玉06"系統の主な運転区間は二子玉川駅~砧本村であるが、こちらは高津営業所まで直通する入庫便は存在しない。
もっとも、これらの系統絡み以外を含め、二子橋経由で高津営業所へ回送で出入りするバスが非常に多く設定されている。時間帯によっては回送便を見かけることの方が多いかもしれない状態である。
ちなみに、二子橋を渡って営業運転で高津営業所へ出入庫する便は、二子玉川駅前のバスロータリーには入らず、国道上にある「二子玉川」の停留所で客扱いを行う。
"渋12"系統の来歴
現在では土曜日のみ週1往復となってしまった"渋12"系統であるが、その大元は玉川電気軌道→東急玉川線が廃止された際に設定された代替系統であった。
玉川電気軌道は1907(明治40)年に渋谷~玉川(現在の二子玉川)間を開通、1924(大正13)年には玉川~砧間の砧線を、1925(大正14)年には現在の世田谷線となる下高井戸線の三軒茶屋~下高井戸間を開通させている。いずれも東京市電(当時)への直通を目論んでいた。
1927(昭和2)年には上述したように二子橋が架橋され、溝ノ口線として玉川~溝ノ口間が延伸される。二子橋の上のみ単線であった。1938(昭和13)年には東京横浜電鉄に合併された後、1942(昭和17)年に東京急行電鉄に社名が変更される。溝ノ口線の区間は1943(昭和18)年に大井町~玉川間の大井町線から直通運転を行うように線路の配線替えなどが行われ、大井町線の一部となった。
1969(昭和44)年、国道246号線となっていた玉川通り上に首都高速3号渋谷線が建設される際に、この上を主に走っていた東急(旧)玉川線は砧線と共に廃止され、下高井戸線のみが世田谷線として残る。ちなみに、首都高速3号渋谷線の高架が建設された際には、その地下部分となる東急新玉川線のトンネルも同時に作られた。ただし、駒沢公園付近~瀬田間は、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催の際に国道が先行整備されていたため、新たに地下構造物を作ることができず、東急新玉川線の桜新町・用賀付近は(旧)玉川線のルートで国道から外れた旧道部分の地下に作られた。
(旧)玉川線が廃止された際に、そのルートを概ねなぞる系統(後の渋01~04系統)と、新道となった国道246号線を走る系統(後の渋12~14系統)が設定された。ただし、これらの系統が設定された直後にはまだ系統番号は無く、1972(昭和47)年に東京都内の他の路線と同時に番号が与えられた。ちなみに"渋11"の系統番号は、駒沢公園付近で国道246号線を外れ、駒沢オリンピック公園経由で自由が丘・田園調布駅を結ぶ路線として以前から存在していた系統に与えられた。
三軒茶屋折り返しとなる"渋01"系統には途中無停車の便が、旧道に入り用賀で折り返す"渋02"系統と新道経由で二子玉川で折り返す"渋12"系統には急行便も設定された。トンネルは完成していたがレールがまだ敷かれていない新玉川線の予定地を走った便もある模様である。最も遠くまで運転されたのは、旧道を走る系統は"渋04"系統渋谷駅~溝の口駅/新道経由の系統は"渋14"系統渋谷駅~向ヶ丘遊園駅であった。
1977(昭和52)年に、渋谷~二子玉川間に地下線による新路線が東急新玉川線として開業すると、これらの系統は軒並み廃止・運転区間短縮・急行運転の中止が行われた。最終的に残ったのが、旧道の地下を走る新玉川線とは部分的に別ルートとなった"渋12"系統渋谷駅~二子玉川駅~高津営業所である。この他には"渋14"系統渋谷駅~向ヶ丘遊園駅が、運転区間を用賀駅~向ヶ丘遊園駅に短縮され"向02"系統となる(後に、二子玉川駅~向ヶ丘遊園駅に更に短縮され現在に至る)。なお、同時に廃止された砧線の代替えとして設定された"玉06"系統二子玉川駅~砧本村は、現在でもほぼそのままの形で残っているが、渋谷から二子玉川経由で砧本村まで直通する"渋13"系統は分割されて消滅している。
永らくの間、"渋12"系統は日中毎時3本程度の運転となっていたが、2022年4月のダイヤ改正により運転区間を短縮し"玉12"系統駒沢大学駅~二子玉川駅~高津営業所となる。駒沢大学駅以東は"渋11"系統などへの乗り継ぎ運賃制度を新設して直通需要に対応している。土曜夜の1往復のみが"渋12"系統として残され現在に至っている。先述した通り、渋谷駅行は二子玉川駅始発であり、二子橋を渡り高津営業所まで来るのは渋谷からやってくる入庫便のみである。
新多摩川大橋(第三京浜道路)
二子橋の下流側には、自動車専用道路の第三京浜道路が通る新多摩川大橋が架かっている。かつて、路線バスの設定があったので、この記事で合わせて解説する。
多摩川を越える=東京・神奈川の都県境を越える新玉川大橋が架かったのは、第三京浜道路の起点側の1区間である玉川インターチェンジ~京浜川崎インターチェンジ間が開通した1964(昭和39)年10月である。保土ヶ谷インターチェンジまでの全線が開通したのは1965(昭和40)年12月である。当時はこの種の高規格有料道路を国道に指定できるような法律がなかったため、東京都道/神奈川県道として開通している。このため、「いちこく」と呼ばれる第一京浜国道=国道15号線や「にこく」と呼ばれる第二京浜国道=国道1号線と異なり、「さんこく」と呼ばれることはない。第三京浜道路が国道466号線に指定されたのは、時代が下って開通から30年近く経った1993(平成5)年である。
左岸=東京都側は世田谷区野毛二丁目と三丁目の境界付近、右岸は川崎市高津区北見方二丁目で、ここに本線料金所もある。
行政区画の変遷
二子橋が架けられた1927(昭和2)年の段階では、左岸=東京府側は荏原郡玉川村/右岸=神奈川県側は橘樹郡高津村であった。これらの地方自治体の成立は1889(明治22)年の町村制施行時にまで遡ることができるが、実は二子橋の右岸側は、1912(明治45)年に郡境=東京府と神奈川県の境界を多摩川の主流路上に定めた法律の影響をうけている。
つまり、江戸時代後期の段階では、両岸とも武蔵国荏原郡瀬田村であり、1889(明治22)年の町村制施行時に周辺の村と合併して東京府荏原郡玉川村となったが、1912(明治45)年に右岸側のみ神奈川県橘樹郡高津村に編入された。現代において東京都世田谷区と神奈川県川崎市高津区の双方に「瀬田」の地名が存在するのは、以上のような理由による。
ちなみに、後に新二子橋が架けられた箇所は神奈川県が多摩川左岸に張り出している場所になる。後の橋の右岸袂となったエリアの東京府側は、北多摩郡砧村との境界付近でもある。第三京浜道路の新多摩川大橋が架けられた箇所は、ほぼ現代の都県境と同じである。
以下、町村制施行後の関連地方自治体の変遷をまとめておく。
武蔵国荏原郡側=東京府→東京都側
1889(明治22)年:東京府荏原郡玉川村が発足。
1932(昭和7)年:東京府東京市に編入され、世田谷区の一部になる。
1936(昭和11)年:北多摩郡砧村・千歳村が東京市世田谷区に編入される。
その後の世田谷区自体は、東京府東京市→東京都への移行や、戦後の区再編の影響を受けなかったため、ほぼそのまま残っている。
武蔵国橘樹郡側=神奈川県川崎市側
1889(明治22)年:神奈川県橘樹郡高津村が発足。
1928(昭和3)年:町制施行して高津町に。
1937(昭和12)年:川崎市に編入。
1972(昭和47)年:政令指定都市移行で川崎市高津区となる。
おまけ
二子橋西詰の近くにある、二子神社。小さなお社です。玉沿線道路上には、「二子神社前」の停留所もあります。