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境界を越えるバス/都県境・旧国境合流点/横浜町田インター周辺

東京神奈川都県境編13.5/武蔵相模国境編10.5
2024年2月現地調査実施
2024/04/17 初版公開

データ類は特記なき限り2024年2月現在のものです。
画像・写真類は特記なき限り筆者自ら作成・撮影したものです。

多摩郡と都筑郡の境界を辿って来た東京・神奈川の都県境は、横浜町田インターチェンジを越えて少し東南東に進んだ地点にて、都筑郡と鎌倉郡の境界を辿ってきた武蔵・相模の旧国境と合流します。合流点の風景は気になるのですが、この界隈で都県境を越えるバス路線は、休日に1往復のみしか運転されません。重要地点なのですが、番外編?特別編?としてお届けします。


現場付近の地理的な状況

ここまでの都県境と旧国境

 今回は総集編的な意味合いを込めて、これまでの「境界を越えるバス」都県境編/旧国境編にて紹介してきた場所の一覧を、地図にてご覧いただく。

これまでの記事で紹介してきた、路線バスが「境界」を越えるポイント。
縮尺故、位置が大分アバウトになっている箇所があるのは、ご勘弁を…m(_ _)m
旧国境が横浜市港南区を縦断する区間は、その前後を含め地点数が多くなりすぎたため、
主要地点以外は地名を省略しています。こちらもご容赦を…m(_ _)m

 これまでの記事では、東京都および武蔵国の外縁を、各々の南西端から時計回りに辿って来た。これまでのところ、都県境編は神奈川県との境界/旧国境編は相模国との境界となっている。
 東京都・神奈川県の境界は、多摩川に沿っている間は極めて明瞭である。路線バスが越えていくには橋が架かっている箇所に限られるが、路線が廃止されてしまったものが散見される他、そこそこ大きな橋なのに架橋以来バス路線が設定されたことがないと推定される橋もあった。
 多摩川筋から離れてからはかなり複雑なルートを辿っている。この区間は、元々は武蔵国多摩郡の南縁橘樹郡・都筑郡との境界であったものが、紆余曲折を経て都県境となった。迷走しているようにもみえるが、一続きではないもののそれなりに地形的な障壁(主に尾根筋)を乗り継いでいるので、横断するバス路線は思ったより少ない。
 旧国境の方は、横浜・横須賀の市境を抜けてからは、旧相模国鎌倉郡峠村エリアが東京湾側にはみ出している以外は、東京湾側と相模湾側の分水界を成す三浦半島中央分水嶺に続く尾根を辿ってきている。ただ、横浜市内港南区・南区周辺では、宅地開発が進んだため市町村境どころか区境ですらなくなった箇所もあり、多数のバス路線が旧国境を横切る結果となっている。このエリアでは、具体的な地点名を付け難い箇所も多々あった。それ以外の区間では、例えば横須賀市・鎌倉市の市境や、保土ヶ谷地区以北では尾根筋がかなり明瞭に残っており、境界としての役割を果たしている区間も多い。

合流点付近の都県境と旧国境

 前置きが長くなったが、今回の記事で紹介する都県境・旧国境合流地点付近の地図を、下に示す。

今回の都県境合流点と以前の記事で紹介した地点との位置関係、
および、周辺の行政区画。今後の記事で紹介予定の地点も含みます。
ベースの白地図は freemap.jp より。

 前回記事で紹介した町田市辻交差点方面から都県境を辿る場合、まず昔からの町田街道を辿ることになる。やがて、東名高速道路の横浜町田インターチェンジの手前にて、都県境は国道16号線現道と合流するが、町田街道は横浜町田インターチェンジへの流入路の築堤に行く手を阻まれ、分断されている。自動車の保土ヶ谷方向への通り抜けはできないが、国道の歩道へは短いトンネルなどを駆使して接続されている。

町田街道の分断地点。行く手を阻むのは、国道16号線から横浜町田インターへの流入路。
徒歩と軽車両のみが、高架を右斜め方向に潜り、都県境・旧国境合流点方向へと進めます。
道路の右側は、東京都町田市鶴間。左側が神奈川県横浜市緑区長津田町です。

 都県境は国道と共に更に東南東に進み、横浜町田インターチェンジを越えた先で、正面からやって来た武蔵・相模国境と合流する。この地点は江戸期の多摩・都筑・鎌倉の三郡境であり、現代では町田市・横浜市緑区・横浜市瀬谷区の境界となる。この地点には特に目印はないため、場所を割り出すにはGPS情報を詳細な地図上に表示させつつ確認する必要がある。

都県境と旧国境の合流点付近。旧国境側から撮影。
電光掲示板がある辺りの道路中央付近が該当。
都県境は道路沿いに画面奥からやってきて、手前からやってきた旧国境と合流。
合流後は左斜め前方の道がないところに進みます。
道路の反対側が横浜市緑区、画面手前が瀬谷区、奥が東京都町田市です。

 合流点への道のりを旧国境側から辿る。旧江戸湾=現東京湾にそそぐ帷子(かたびら)川水系と相模湾にそそぐ境川水系の分水嶺を北上してきた武蔵・相模国境は、旧相模国鎌倉郡瀬谷村=現神奈川県横浜市瀬谷区の東北縁の境界に沿って西北西の方向へ折れ曲がるように分水嶺を離脱する。この地点は、現代では横浜市旭区・緑区・瀬谷区の三区界であるが、江戸期には武蔵国都筑郡上川井村・長津田村・相模国鎌倉郡瀬谷村の三村境であった。交差点名は「川井浄水場裏口」である。旧国境は国道沿いに北北西へ百mほど進むと上述した三郡境へ至り、現代の都県境と合流する。

横浜市旭区・緑区・瀬谷区の三区界となる交差点。
武蔵・相模国境は、手前の路地に出てきて、交差点を左方向へ進みます。
ちなみに、境川と帷子川の分水嶺は、この交差点をほぼ直進です。
別アングルから見た三区界の交差点。
旧国境は左斜め前方の路地から出てきて、交差点を右奥方向へ向かいます。
撮影者が立っている側が旭区。横断歩道を右に渡った先が緑区。
道路対面の右側が瀬谷区で、そのエリアのみ旧相模国/残りは武蔵国です。

 合流した後の都県境・旧国境は、西寄りに進路をとり境川方面へと向っている。この区間はかつての武蔵国多摩郡と相模国鎌倉郡の境界が、そのまま現代の都県境となっているのだが、目立った河川や明瞭な尾根などの、両者を隔てる地理的障壁は存在しない。開発によって地形が失われた場所を除くと、横浜・横須賀市境から旧国境を辿ってきて、一番、境界が良く解らない場所でもある。

ちょっと盛り上がっている辺りが国道から離れていく都県境&旧国境。
辿れる道はありません。
都県境にして旧国境の路地の例。
この場所は次記事で説明予定の鶴間橋付近にて、旧大山街道へ出てくる交差点。
路地の左側が、東京都町田市鶴間=旧武蔵国多摩郡鶴間村、
右側が、神奈川県横浜市瀬谷区=旧相模国鎌倉郡瀬谷村です。

 飛鳥時代の後期、西暦換算で645年~710年の間ぐらいに、律令制により「国」が定められた当初は、境川水系と多摩川・鶴見川水系の分水嶺となる尾根筋(の辺り)が、武蔵・相模の国境と定められた。
 現代の横浜市旭区・緑区・瀬谷区の三区界=江戸期の上川井村・長津田村・瀬谷村の三村境より南は、現代の逗子市・横須賀市の北縁=江戸期における三浦郡エリアの北縁のあたりまでは、おおむね三浦半島中央山稜へと連なる尾根筋=江戸湾・相模湾の分水嶺が武相国境であり続けている。一方、現代の町田市北西部では、境川水系と多摩川水系を隔てる明瞭な尾根が存在する。この尾根が当初の武相国境であったと考えられており、地形的にも障壁となっている。
 このことを鑑みると、当初から尾根筋が不明瞭になっていた現代の町田市中部~南部にかけて、設定された当時の国境は、現在の都県境との合流点を直進して、ほぼ町田街道沿いに現代の町田市エリアを縦断し(厳密には、原町田エリアと本町田エリアの境界を辿り)、町田市北部に残っていて八王子市との境界にもなっている明瞭な尾根筋へとつながっていた可能性もある。
 いずれにせよ、元々尾根筋が非常に不明瞭であるため、鎌倉・室町と時代が下るにつれ、新田開発などで境界はどんどん曖昧になっていたようである。「国」が行政区分の単位ではなくなり単なる地方区分になっていたことも影響していると思われる。
 曖昧になっていたこの区間の国境を境川沿いと確定したのは太閤検地の際であり、このエリアでは1594年に実施された。この時に河川名が高座川から境川となったようである。

江戸湾・相模湾の分水嶺

 このエリアでは、東京湾側と相模湾側を隔てる分水嶺は、行政区画の境界を外れて、複雑なルートを描いている。昔からの町田街道が現代の都県境=江戸期の多摩・都筑郡境であり、三郡境より南東側では江戸期における武相国境、かつ、鎌倉・都筑郡境である。
 現代の町田市側と横浜市瀬谷区側=旧多摩郡・鎌倉郡側は相模湾にそそぐ境川の流域であるのだが、この流域はウサギの耳のような形状で現代の横浜市緑区側=旧都筑郡側に食い込んでいる。食い込んだ2つのエリアは、北西側から順に、それぞれ境川支流の大門川・相沢川の源流域であると推定される。大門川の源頭付近には一等三角点を持つ高尾山があるが、相沢川源頭付近のピークは無名峰である。2つの川筋の間には、反対側から鶴見川支流の岩川が町田街道ぎりぎりまで食い込んできていた。ちょうどその辺りが現代の横浜町田インターチェンジになってしまっており、源流域は失われているが、東名高速を歩道橋で横断する辺りから眺めると、大まかな地形を把握することができる(タイトル画像がその風景である)。
 なお、境川支流相沢川の南東側は、鶴見川ではなく帷子(かたびら)川の流域である。現代の横浜市旭区のほぼ全域が帷子(かたびら)川水系であるが、流域の一部は、緑区長津田町=旧都筑郡長津田村側にはみ出している。

現場付近の地形。地理院地図をベースにしています。
標高は青(40m)~赤(100m)の間でグラデーション表示。
国土地理院のサイト内の機能を使っています。

 以下、この区間の分水嶺を、町田市辻の交差点から緑・旭・瀬谷三区界=旧長津田・上川井・瀬谷三村境である川井浄水場裏口の交差点まで実際に辿ったので、その様子をレポートする。
 町田市辻の交差点の直近にて、国道246号線現道=昔からの大山街道が乗っている尾根筋が、鶴見川・境川分水嶺となっていることは前の記事で述べたが、坂を登り切った辺りで分水嶺は直角に右方向へと続く。この付近にかかっている歩道橋の袂から、分水嶺を辿る尾根筋に乗る路地へ入り込むことができる。東急田園都市線すずかけ台駅方面から来た場合には、国道246号線へ出る直前にて国道越しに左手に見える尾根末端が、分水嶺尾根である。

分水嶺尾根分岐点付近に架かる歩道橋上から、町田市辻交差点方向を望む。
神奈川中央交通大和営業所へ回送で走るバスが写っています。
すずかけ台駅から登って来た道が国道と合流する地点。
正面の尾根が境川水系と鶴見川水系の分水嶺尾根です。

 東京工業大学の敷地の縁を進む区間は分水嶺を辿っているが、その先で耕作地や住宅などに阻まれて道は尾根筋を右方向へ外れる。道が復活するのは、標高100.46mの一等三角点を持つ高尾山山頂からである。山頂に鎮座する飯縄神社は無住であるがよく手入れされている。この飯縄神社の参道が高尾山頂へ至る唯一の道であり、かつ、分水嶺の続きでもある。分水嶺を辿るためには、前記事で解説した"津01"系統長津田駅~南町田駅のバスが通る道へ出た後、飯縄神社の参道を往復する必要がある。

尾根筋付近を辿る道。
左前方の網フェンスの向こう側は、東京工業大学の敷地。
高尾山山頂にある飯縄神社の裏手から見た、分水嶺尾根。
画面奥の建物は東京工業大学の校舎。
見ての通り尾根の稜線まで耕作地が広がっており、(まっとうな?)道はありません。
飯縄神社の参道。入口方向に向いています。
分水嶺を辿る場合はここを往復することになります。
振り返ってみた、飯縄神社=高尾山頂方向。参道が耕作地の中を突っ切っています。
奥のビルディングは東京工業大学の校舎で、尾根の向こう側に立っています。
分水嶺尾根はその手前を左方向へと進んでいます。

 バスが通る道により、分水嶺尾根は一部掘り割られているが、それより下側では、かつての町田街道の方向へと緩やかに降っていく。降るにつれて鶴見川水系側は横浜町田インターチェンジによって開墾されたエリアとなる。分水嶺がなだらかになってきたあたりで、前項で述べた旧町田街道の分断地点につながる。

分水嶺尾根をバス道が掘り割っている地点。
正面のスロープを登って左方向へ進むと飯縄神社の参道です。
画面奥、右手方向へ路地を進むと、旧町田街道の分断点へ至ります。
町田街道方向へと降っていく分水嶺の道。
左手側は鶴見川水系岩川の流域ですが、横浜町田インターチェンジになっています。
町田街道の分断地点。再掲のように見えて実は違う画像を使用。
分水嶺を辿る道は、この交差点に左側の路地から出てきます。

 横浜町田インターチェンジ内を、複雑に絡まった歩道で抜け車道に出ると、すぐに左手に続く車道が分水嶺の続きを辿る道である。耕作地の中を登っていくが、家屋などの都合で稜線を辿れない区間もあり、若干のアップダウンもある。

耕作地の間を緩やかに登っていく尾根筋上の道。
緩やかすぎてどこが正確に稜線なのか判別できません。

 やがて前方やや左手に見えてきたこんもりと木々が茂ったピークが、鶴見川・境川・帷子川の三分水界である。残念ながら、この頂上は樹木や下草が生い茂りすぎており、頂上へ至る道はない。帷子川水系と鶴見川水系の分水嶺は、標高を落としながら更に先へ進むが、東京湾側と相模湾側の分水嶺になる帷子川水系と境川水系の分水嶺は折り返すように南南西の方向へ進む。

正面奥の樹木が茂っているあたりが、三分水界のピーク。
手前が境川水系/左側が鶴見川水系/右奥側が帷子川水系です。
三分水界のピークやや下から望む境川支流(おそらく相沢川)の源流域。

 三分水界の頂上に行くことは容易ではなく、高尾山頂のように神社の類も存在しないが、鶴見川・帷子川の分水嶺尾根上の道をかなり降りながら進んだ先に、椿稲荷という神社がある。無住であるがよく手入れされている。

三分水界の先にある、椿稲荷。

 なだらかな尾根筋上につけられた道を下っていくと、程なく横浜環状4号線との交差点に至る。概ね、ここから先は現代の緑区・旭区の区界=かつての長津田村・上川井村の村境を辿る。

分水嶺尾根筋上の道と横浜環状4号線との交差点遠景。
この画像は上流側からで、右側が境川/左側が帷子川水系。
交差点の先は家屋が建っている辺りが尾根筋です。
分水嶺尾根沿いの道と横浜環状4号線との交差点。
この画像では、振り返っているので、道の左側が境川水系/右側が帷子川水系。
実際の尾根は、道路のやや右手にずれています。
横浜市旭区と緑区の境界は、手前の路地から来て右方向へ曲がっていきます。

 直進すれば、ほどなく、川井浄水場裏口の交差点で、国道16号線保土ヶ谷バイパス北端部=この区間では昔の町田街道を拡幅・直線化した道を辿って来た武蔵・相模の旧国境と合流。分水嶺と合わさった国境は直進方向=ほぼ南へ進んでいくが、横浜市川井浄水場に突き当たるため、道路はその敷地を迂回するように設置されている。

現場付近のバス路線

現存するもの

 東名高速道路横浜町田インターチェンジ直近の一般道に入ってくるバス路線は、1系統しか存在しない。"南01"系統南町田クランベリーパーク駅~若葉台中央が、国道16号線現道=保土ヶ谷バイパス北端部にて都県境を越える。ただし、休日のみ1日1往復の運転である。神奈川中央交通中山営業所が担当する。
 国道16号線上には東名横浜町田インターチェンジのバス停が存在する。この付近は国道のバイパスとして建設された区間であるが、階段・跨道橋やトンネルで接続された歩道が断続的に存在しており、バス停は歩道のある箇所にある。この系統の終点である若葉台中央は横浜市旭区=旧武蔵国都筑郡上川井村内にあるので、都県境は跨ぐ(東京都町田市~神奈川県横浜市旭区)が旧国境は越えない路線となる。運転開始時期不明であるが、当初から運転本数僅少系統だった模様。

国道16号東行側にある、東名横浜町田インターのバス停。
インターチェンジへの流入路と流出路の間にあります。
頭上の高架橋は、インターチェンジをスルーするためのバイパス路です。
時刻表拡大図。1本しか時刻の記載はありません。
しかも、休日ダイヤしか載ってないです。

かつて存在したもの

 横浜町田インターのバス停にやってくる路線は、1996(平成8)年まではこの他に、"間05"系統鶴間駅東口~横浜インター循環が存在したようであるが、経路も含めて詳細は不明。鶴間駅は神奈川県/相模国側であるので、一周する間に2回都県境/旧国境を越えていたはずである。
 なお、現存する東名横浜町田インターのバス停のポールのうち、西行方向のみ、路線案内図が修正された形跡がある。"間05"系統は1方向運転であったことは判っていたが、このことから西行方向のポールを使う反時計回りのみの運転であったと推定される。
 バス停名も紙を貼って修正した形跡がみられるが、これはインターチェンジ名が「横浜インター」から「横浜町田インター」に変更された時に行われたと推定される。これは東行ポールも共通である。西行ポール限定で、次のバス停名と、路線案内図の終点のバス停名も、「南町田駅」から「南町田クランベリーパーク駅」に修正した形跡も見られる。

国道16号西行側の、東名横浜町田インターバス停。
路線案内図の左側部分が紙を貼って消されていますが、
この部分に"間05"系統の記載があったと推定されます。
なお、歩道はバス停前後十数mしかなく、専用の階段で出入りします。
西行ポールのバス時刻表。こちらも休日のみ1日1本の運転です。

 東名高速道路のインターチェンジ側には、1999(平成11)年1月まで(東名)横浜バスストップが存在し、国鉄→JRグループによる東名高速バスの急行便(実質各停)の一部が停車した。高速道路外からの交通アクセスが不便な場所なので元々停車する便が少ないバス停であった。インターチェンジに出入りする車の渋滞に巻き込まれることも多々あり、停車便が無くなり廃止されている。
 なお、この区間の東名高速道路には、小田急グループのバス(2024年現在では小田急ハイウェイバス)による箱根高速バスも運行されているが、かつて、(東名)横浜バスストップに停車したかどうかは不明である。
 Wikipediaの「横浜バスストップ」の記事内に載せられている航空写真とその解説文によると、国道16号東行側の東名横浜町田インターのバス停と歩道を挟んで背中合わせとなるような位置に設置されていたようである。
 該当記事はこちら → 横浜バスストップ - Wikipedia

東名横浜バスストップがあったと推定される付近。
目の前の道路は、保土ヶ谷方面への流出路と相模原方面からの流入路を結んでいます。
奥の建物はインターチェンジの管理施設です。

都県境・旧国境合流点付近の自治体の変遷

 この界隈の自治体の変遷は、以前の記事にて説明を行っているが、改めて概要を記しておく。
 このエリア、分水嶺の位置にかかわらず、かつての町田街道の北東側は、前記事で述べたように、横浜市緑区長津田町である。遡ると、江戸期には武蔵国都筑郡長津田村であったが、1889(明治22)年の町村制施行で、北隣の恩田村・奈良村と合併して神奈川県都筑郡田奈村となる。1939(昭和14)年に横浜市に編入され神奈川県横浜市港北区長津田町に。1969(昭和44)年に分区により所属が緑区になり現在に至る。詳細は、前記事都県境編13「町田市辻」を参照。
 更に少し進んだ横浜市内三区界(旭・緑・瀬谷)にて、旧国境は町田街道から外れて南へ曲がるが、この地点から先は、都筑郡側が横浜市旭区上川井町に変わる。江戸期には武蔵国都筑郡上川井村であったが、1889(明治22)年の町村制施行で、周辺の村と合併して神奈川県都筑郡都岡村となる。1939(昭和14)年の横浜市への編入の際には神奈川県横浜市保土ヶ谷区上川井に。1969(昭和44)年の分区の際に所属が旭区となって現在に至る。詳細は、以前の記事旧国境編10「横浜市瀬谷区卸本町付近」を参照。
 このエリアの町田街道南西側は、前記事で述べた通り、東京都の範囲内では町田市鶴間である。江戸期には武蔵国多摩郡鶴間村→1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併して神奈川県南多摩郡南村→1893(明治26)年に東京府(当時)へ移管→1954(昭和29)年に合併で東京都南多摩郡町田町鶴間→1958(昭和33)年に合併・市制施行で東京都町田市鶴間と変遷している。
 町田街道の南西側の神奈川県のエリアは、現代においては横浜市瀬谷区である。江戸期には相模国鎌倉郡瀬谷村→1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併して神奈川県鎌倉郡瀬谷村→1939(昭和14)年横浜市へ編入され戸塚区の一部→1969(昭和44)年の分区でほぼ旧村域が神奈川県横浜市瀬谷区になっている。詳細は旧国境編10を参照のこと。

おまけ?:今後の展開のようなもの

東京都外縁/武蔵国外縁/関八州外縁

  今回の記事を以って、都県境と旧国境は合流したので、この先は原則として両者を統一して取り扱う予定である。通し番号は都県境編の連番を用いる。前述したように、律令制の時代に国境が制定された当初、今回の記事の地点以北の武蔵・相模国境は、それ以南と同様、江戸湾水系と相模湾水系の分水界となる尾根に設定されていたという説があり、太閤検地以降の旧国境を踏襲する現代の都県境とは合流していないという見方ができることを、一応、考慮したためである。
 この先、都県境は境川に沿って概ね北西方向へ進んでゆき、境川の源流域に達する。ここで多摩丘陵にて多摩川との分水界を成している尾根に移り、高尾山・陣馬山をへて、神奈川県最北端となる生藤山の隣にある三国峠に至る。ここから東京都/武蔵国の外縁であることに変わりはないが、境界の反対側は山梨県/甲斐国に変わる。並行展開している(が更新が滞って?いる)関八州編とも合流する。この状態は東京都・埼玉県・山梨県の三都県境である東京都最高峰の雲取山山頂まで続く。
 ここで、東京都の外縁は分岐し、埼玉との都県境となって東へ進み、江戸川河口を目指すことになる。武蔵国の国境は、その先の埼玉・山梨・長野の三県境=武蔵・甲斐・信濃の三国境となる甲武信ヶ岳山頂にて相手が長野県/信濃国に入れ替わった後、埼玉・群馬・長野の三県境=武蔵・上野・信濃の三国境である三国山山頂にてようやく関八州の境界から離脱。現代の埼玉県の北縁を回っていくことになる。
 ただし、比較的多くのバス路線が見受けられるのは、東京都と神奈川県が境川に沿っている区間までである。その先にバス路線が存在するのは、国道20号線=甲州街道が越えている大垂水峠であるが、"八07”系統八王子駅南口~相模湖駅とその区間運転便である"湖29"系統高尾山口駅~相模湖駅が通るのみである。ちなみに、運転本数は、2024年3月現在、両者合わせて1日3往復である。関八州の外縁と合流した後も、東京・山梨の都県境=武蔵・甲斐国境を越える路線は、奥多摩湖の上流側に存在する"奥10"系統奥多摩駅~丹波山/"奥12"系統奥多摩駅~小菅の湯ぐらいである。
 その先は、東京埼玉都県境を越える路線はが青梅市北端で飯能市と接する成木地区まで、旧国境編は武蔵上野国境となってかなり進んだ埼玉県児玉郡神川町と群馬県藤岡市の境界にて神流川を縫うように走る区間まで、関八州編に至っては国道18号線の碓氷バイパスまで、境界を越えるバス路線が存在しない。
 もっとも、このエリアに到達するまでには、まだまだかなり?の月日を要すると想定される。この辺りまでたどり着く前に、都県境編/旧国境編は東京・千葉の都県境/武蔵・上総の旧国境の河口側である舞浜大橋まで飛んで、そこから反時計回りで始めるかもしれない。
 もっとも、関八州の反対側の端点は、茨城・福島県境=常陸・陸奥国境の勿来関周辺になる。この界隈どころか、関東地方≒関八州の北縁、すなわち、群馬・栃木・茨城県と新潟・福島県境=上野・下野・常陸と越後・陸奥国境を越えるバス路線は、ほとんど存在しない。群馬・長野県境=上野・信濃国境となる志賀高原の渋峠付近にて境界を越える路線より東側には、福島県から栃木県へバス停1つ分だけ越えて終点となる路線が存在するだけなのである。この辺りになると「境界を掠めるバス」「境界を極めるバス」として扱うことも考えらるが、バス路線がない=公共交通機関では到達が極めて難しいで現地取材も困難を極めそうでなので、どうするかはたどり着きそうになるまで保留しておく。

東京都内/武蔵国内の境界=河川や分水嶺

 スピンオフ企画?として、都県境どころか郡境ですらなくなってしまっているが、物理的な境界は非常に明瞭である、更に上流側の多摩川を越えるバスは余裕ができたら調査してみたい。が、運転本数が非常に僅少である路線が散見される。一番極端な例では、週1便片道のみ運行なんて路線もある。これまでの記事でも、運転本数僅少路線は、独立した記事にはせず地点の紹介写真だけで留めていたので、進めるとすればその方針になる。
 上流端は、とりあえず、東京都内の範疇である奥多摩湖(小河内ダム)辺りまでと考えている。ちなみに、多摩川水系は、その先、山梨県=甲斐国に大きく食い込んでいる。北都留郡小菅村・丹波山村全域のみならず、甲州市=旧塩山市の一部領域までが多摩川水系となる。季節運行ではあるが、甲州市のコミュニティバスに多摩川水系と富士川水系の分水嶺となる柳沢峠を越える路線がある。明治初期には柳沢峠を挟んで神金村という1つの自治体になっていた模様。
 戦国時代以前の国境であったかもしれないと推定される鶴見川・境川分水嶺を越えるバスも調査してみたいという気持ちはある。しかし、町田市中心部付近にて、分水嶺が思いっきり市街地のど真ん中を縦断している。地名で追うと原町田と本町田の境界となるので、トレース自体は比較的容易なのだが、市街地ということでバス路線が多岐に入り組んでいて、個々の路線を追うと収集つかなくなりそうである。もっとも、この尾根筋が町田市と八王子市の境界となり、境川と多摩川の分水嶺となって以降はかなり明瞭な尾根筋が残っている。都県境編(境川編)の記事の中で触れ、必要に応じて番外編を設けるという形にしていこうと思う。

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