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境界を越えるバス/旧国境編1/野島・夕照橋界隈

武蔵/相模旧国境編その1
2022年5月初版公開
2022/08/15地図画像追加

※本文中のデータ・画像などは、特記無き限り2022年4月時点のものです。
また、画像は、特記無き限り、著者が撮影したものです。

境界を越えるバスシリーズ第2弾は、武蔵と相模の旧国境で一番海に近い所、をお届けします。現在は横浜・横須賀の市境になっている場所ですが、河川ではないので『橋』はなく、分水嶺ではあるものの尾根が低いので『峠』でもありません。

今回記事での調査範囲概略図(ベース白地図は freemap.jp より)。
駅や橋の位置が多少(かなり?)アバウトなのはご容赦を。
金沢八景駅前の案内板の画像(の一部)です。
今回取材した界隈の主に世小浜市金沢区側の詳細が載っています。

場所の概要

 武蔵・相模国境が海に突き当たる付近は、現在では横浜市金沢区六浦地区と横須賀市追浜地区の境になっている分水嶺をほぼなぞっている。海岸沿いのこの地点には国境の目印となる明確な構造物は無い。河川ではないので橋がないのは当然だが、分水嶺も末端部である上、切り開かれて宅地になっているため、峠・隧道・切通の類になっていない。

横浜市=旧武蔵国側からみた、旧国境。
横須賀市=相模国側からみた旧国境。

 タイトル画像にも使った夕照(ゆうしょう)橋は、すぐ近くにいかにも国境の橋っぽい雰囲気を出して架かっているが、江戸時代の段階で両岸とも武蔵国久良岐郡であり、旧国境どころか郡境ですらない。現代では両岸とも横浜市金沢区である。ちなみに、夕照橋が跨いでいるのは平潟湾で、入り江=海であり、川の河口部ではない。
 この地点を通る路線バスは"文15"系統のみで、追浜車庫と京浜急行本線金沢文庫駅を結ぶ路線である。京浜急行バス追浜営業所が担当。平日7往復/土休日7.5往復の運転。運行時間帯は、出入庫系統にしてはばらけているが、朝の車庫行/夜の駅行は無い。追浜車庫へ出入庫する回送もそこそこ通る。

バスの最後尾あたりが市境=旧国境。
同じく、バスの最後尾、ではなく、先頭のあたりが、旧国境。

 路線を担当する京浜急行バスのサイト https://www.keikyu-bus.co.jp

旧国境周辺の道路とバスのルート

 平潟湾沿いに旧国境を越える道は、横浜市道/横須賀市道である。往復2車線で両側に歩道がある普通の道である。アスファルト舗装された路面をよく見ると、継ぎ目の位置で両市の管理区分が割と正確に判る。市境を示すロードサイン・道路標識の類は建っていない。

市境=旧国境の真上。
正面の路地も含めて、舗装の継ぎ目?が、多分、境界。

 横浜市側に数十m行った地点に、夕照橋南西詰がT字路にて突き当たる交差点がある。夕照橋を渡らずに直進すると百mほどで平潟(ひらかた)橋東詰の三叉路があり、ここを斜め右に進んで平潟橋を越えると金沢八景駅まで一直線である。ちなみに旧国境から平潟橋までは緩いカーブになっており、交差点の形状もあって、夕照橋と平潟橋は90度異なる方向に架かっている。いずれの橋も渡らずに直進する道は、このエリアでは武蔵国南端に水域を持つ侍従川沿いとなる。関東学院大の前を通って、国道16号線横須賀街道の内川橋に至る。

横浜・横須賀市境=武蔵・相模国境の概略図。
黄線が"文15"系統の走行ルート。
交差点側から見た夕照橋。
夕照橋側から見た南西詰交差点。
関東学院大前付近の侍従川。
平潟橋越に野島が見える。

 交通量は横須賀市方面と夕照橋方向とを行き来する流れがかなり多く、大型車もそこそこ混ざっている。野島の中には平潟湾沿いにバイパス路ができていて、野島を抜ける帰帆(きはん)橋へ直結している。バイパス路と帰帆橋は2000年以降の完成と思われる。メインの流れは橋を渡ると右折し、海岸沿いに八景島方面に行き、国道359号線もしくは首都高速湾岸線の端点から横浜・東京方面を目指すようである。路線バスの"文15"系統も野島を抜けるまではこのルートを走るが、帰帆橋を渡った後、直進して平潟湾北岸の道を西進する。その先、国道16号線の旧道へと右折するポイントで、金沢文庫・追浜方面からの系統のメインルートに合流。金沢区総合庁舎の辺りで国道の旧道から外れて再び独自ルートとなり、すぐに国道16号線の現道へ出て、そのまま北行して金沢文庫駅に至る。

正面奥に見えるのが、帰帆橋。
左側が野島で、真ん中の水路は野島運河。
高架橋は「金沢シーサイドライン」で、その右側に八景島方面への道があります。

 横須賀市側の市道は、数百mに亘って平潟湾沿いに南下した後、湾が逆J字型に屈曲する場所で90度だけ一緒に曲がった後、夏島の埋め立て地内部方面へ進む。この道を進めば追浜車庫方面への最短ルートになるのだが、"文15"系統はそちらには向かわない。入江が屈曲する手前でほぼ直進する形で鷹取川沿いの道に入り、住宅街の中を抜けていく。古い地図によると、このルートは明治期以前の海岸線を辿っているようである。追浜駅まで数百mまで近づくが、駅へは寄らず、夏島方面に真っ直ぐ東へ延びる道に入って車庫へ向かう。

夕照橋横須賀市=相模国側の概略図。
茶線が"文15"系統のルート。
平潟湾が屈曲しているポイント。
正面が野島で、右端が夏島界隈の埋め立て地。
左手に向かうと夕照橋が架かる。

 なお、ちょうど市境となる地点に、市境に沿って内陸側に入る道もある。路地というには少し広い道で、大型車以外はこちらへ入り込む車もかなり居る。この道には横浜市側の路地との接続は無く、最終的には横須賀市側に向かっている。更に進むと"文15"系統が走る道につながり、追浜駅方面への最短ルートとなっている。

市境=旧国境の路地から見た市道。
正面のカーブミラーの辺りが境界。

バス路線の歴史など

 "文15"系統は、単に出入庫を目的とした系統のように見えるが、前節で触れたように、金沢文庫駅と追浜車庫を結ぶ最短ルートを走っているわけではない。こまめに官庁街や住宅街を経由するなど、この系統しか走らない独自区間がある。金沢八景駅から追浜車庫への回送便は、同じ地点で横浜・横須賀の市境を越えるが、市境の部分以外ではルートが重ならない場所の方が多い。これについては後述する。
 "文15"系統は、2002(平成14)年に金沢文庫・金沢八景地区の路線が再編される以前は、金沢八景駅発着の"八9"系統として野島経由で追浜駅を結んでいたようである。原型となる路線は1957(昭和32)年には開設されていた模様で、変遷の詳細は未調査であるが、野島地区と京急本線の金沢八景駅・追浜駅を結ぶ役割が主だったと考えられる。1989(平成元)年に金沢シーサイドラインが開業、野島近隣にある野島公園駅から金沢八景駅が1駅で結ばれたことから、暫く様子を見た後、京急本線への連絡駅を金沢文庫駅へ変更して"文15"系統となったのでは、と推測される。
 なお、夕照橋に隣接する平潟橋南詰の三叉路までは、金沢八景駅からの路線バス"八8"系統が通っている。駅から平潟湾沿いに真っ直ぐにやってきて、平潟橋を渡ると交差点を鋭角に右折、関東学院大の前を通って内川橋で国道16号線に出て金沢八景駅に戻る循環線である。時計回りの1方向運転で、休校日運休となる通学系統である。大学だけでなく、高校や中学校、小学校も併設されているためか、登校日は運転時間帯も長く本数も多い。
 平潟橋南詰と夕照橋南詰の間の約百mは、営業するバス路線の設定はなく、金沢八景駅と追浜車庫の間を走る回送のみが経由するようである。この回送路線は、金沢八景駅から上述した"八8"系統と同じルートで平潟湾の南岸の道から平潟橋を渡って、最短経路でこの市境を目指しているようである。横須賀市側も夏島の埋め立て地の中を最短ルートで車庫を目指しているようである(が詳細は未調査である)。

旧国境のその先(歴史編)

 旧国境は夕照橋の袂で平潟湾に落ち、ここで終点となる。旧国境線をまっすぐに伸ばした対岸に位置する野島は、冒頭で述べたように丸ごと武蔵国久良岐郡野島村であった。江戸時代の時点では、野島は現代の平潟町・洲崎町側と繋がっている半島状になった陸繋島であり、夏島は小さな島であった。現在日産追浜工場などがある夏島の埋め立て地の界隈は海で、野島の南東側には、干潮時には海面より上になる干潟が拡がっていた。この干潟において沿岸漁業がおこなわれており、しいて言うならば、この干潟の縁までが武蔵国久良岐郡であったということもできる。

野島界隈の1906(明治39)年測図の地図。
野島の干潟が夏島方面に大きく広がっているのが判ります。
この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二 氏)
により作成しました。着色された文字や線は筆者が加筆。

 ちなみに平潟湾は、夕照橋付近はほぼ現代と同じであるが、屈曲することなく外海(=江戸湾)に繋がっていた。奥行きは非常に深く、かつ、広く、明治初期の段階でも現代の金沢八景駅の南側では、国道16号線や京急本線よりも内側まで広がっていた。
 この当時、江戸湾出入口の警備にあたる浦賀奉行へと至る街道は浦賀道と呼ばれ、平潟湾を内陸側へ大きく迂回していた。これとは別に、洲崎方面から陸繋島の野島へ至り、平潟湾の入口を渡し船で越えた後に相模国三浦郡へ入るルートも存在した。この時点で、野島の部分は久良岐郡野島村、平潟湾を渡った武蔵国側は久良岐郡平分村で、国境の南側は三浦郡浦之郷村であった。

夕照橋上から見た、旧国境が海に落ちるポイント。
中央の白い建物の手前を旧国境が通っている。

 明治時代に入り、廃藩置県の際には、1871(明治4)年末の段階でいずれも神奈川県に属することになる。1889(明治22)年の町村制施行により、久良岐郡側は六浦荘村(野島は金沢村の一部)となった後、1936(昭和11)年に横浜市に編入されている。相模国側は三浦郡浦郷村となったが、1914(大正3)年に町制施行で田浦町となった後、1933(昭和8)年に横須賀市に編入された。
 この間の1884(明治17)年、横須賀に海軍鎮守府がおかれ、これ以降、軍港として急速に発展。夏島付近は軍用地として大規模に埋め立てられ、1916(大正5)年には横須賀海軍航空隊基地がおかれた。埋め立ての結果、野島まで横須賀市側と繋がってしまっている。平潟湾内から外にでられなくなったので、代わりに掘られた航路が現代まで残る野島運河である。野島の中には、航空機を格納する掩体壕も作られた。遺構は現存し、崩落が激しいため内部には入れないが、外から見学は可能である。

現代の野島運河。
右側が野島。左手の高架構造物は『野島公園』駅。
遠景に八景島シーパラダイスのジェットコースターが見える。
航空機を格納する掩体壕の遺構。
内部に入れないが、解説の案内板がある。

 渡し船があったところに橋がかけられたのも、この時期の1944(昭和19)年である。当初の橋の名称は徴用橋、後に八紘橋と呼ばれた。夕照橋と呼ばれるようになった時期は不明である。横浜・横須賀両市の市境は、元々陸地であった部分については明瞭であったが、かつての干潟であったり軍用地として埋め立てた部分については明確に定められなかったようである。
 夏島界隈の軍用地は、第二次世界大戦後に米軍に接収された後、1972(昭和37)年に返還され、跡地には日産自動車追浜工場などが建設される。この後、市境をどこにするかという問題が主に横浜市側から提起された。夏島側は横須賀市の陸地に隣接する形で埋め立てが進められたわけだが、その際に一続きになった上で横浜市側の陸地と切り離された野島をどうするのかという問題も発生したらしい。詳細は「野島夏島問題」で検索をかけると、参考資料への手掛かりが得られる。最終的に当時の神奈川県知事が仲裁に入って、野島は横浜市/夏島界隈の埋め立て地は横須賀市ということで決着がついたようである。

1966(昭和41)年測図の野島界隈の地図。
埋め立てがほとんど終わって、地形は現在と殆ど同じです。
この地図も、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二 氏)
により作成しました。

 ちなみに、横須賀市側と野島をつなげてしまった埋め立て地の部分には、船が通行できるよう野島水路として残された部分もあった。土砂の堆積により1966(昭和41)年に一度閉鎖された後、1994(平成6)年に水路として復活。この野島水路の右岸が横浜・横須賀の市境として確定し、現在に至っている。

現代の野島水路。この辺りで埋め立てによって野島と夏島界隈が陸続きになっていたらしい。
八景島から望んだ、真正面から見た野島水路。
水路として続いている辺りが、戦時中には航空機の運搬のため陸続きだったらしい。
現代では、平潟湾の入口として機能している。

 2000年代以降、夏島からこの野島水路の右岸を通り海上経由で八景島へと繋がる、国道357号線の延長工事が具現化しつつある。ただし、野島水路界隈の平潟湾には、葦が生える干潟がいくつもできていて主に鳥類を主体とした野生動物の生息域となっているため、この辺りの環境保護をどうするのかも課題として挙げられている。
 夏島の埋め立て地内には、工場への通勤手段としてバス路線が開設されている。平日の朝夕のみの運転であったり、工場敷地内に乗り入れる路線は一般乗客の利用が不可能であったりするが、新旧の地図を見比べてみて、旧国境線を越えるような路線は設定されていないようである(が、現地調査には行ってみたい)。

あとがき諸々

 この界隈の取材に行ったのは、2021/10/10(雨の画像)と2021/11/03(晴れの画像)。現地で十分すぎるぐらい写真を撮ってきたつもりだったが、文章を起こしてみると、欲しい画像が見当たらないといった箇所が多数… 次回以降の反省材料としたい。

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