give &takeについて〜疲労感か充実感か〜
最近、盲目に与えることが良い訳ではないよな、と感じることがありました。
一般的に与えるほうが受けるものが多い、とか、与えればこそ受け取る循環が大切と言われています。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。
新約聖書 ルカの福音書 6章 38節
と聖書にも書いてあります。
古典的な真理なのでしょう。
私の母方の祖母が熱心なクリスチャンでしたので、行動でも言動でも「与える人」だった影響を母、私と無意識に受けてきた、と感じます。
祖母、意志を持って与える人
↓
母、とにかく与えるべき
↓
私、与えなければならない
世代が降りるに従って、自分の意志で自発的に、というより自動思考で反射的に人のお世話にまわり、本来の与える豊かさとは別の与える、に変わっていたのではないか、と感じます。
母は、とにかく周りの人のいうことを即座に聞き、お世話をする。
NOは一切言わず、自分のことは後回し。
祖母は何というか、もっと堂々とした自分が主軸の与えるだったのに対し、母は他人が主軸の他人ペースに合わせる与え方。
表面的にはいい人ですが、自己犠牲的なので私への愚痴が、母が若い頃は日常的でした。
自分軸があって人のお世話をして与えるのと、他人軸で恐れから動いて与えているのは、似ていて非なるものです。
その母の姿に違和感を感じながら愚痴を聞いていたのは私くらいで、父や祖父母など周囲の大人からの評判はすこぶる良いので、余計に子供の私はその何かが違う、という思いをどこに向けて良いか分からず、私の内側は混沌としていました。
私がダメな子なんだ。
私がもっとちゃんとお母さんを助けて、いい子にならなきゃいけない。
とさらに母の愚痴を一生懸命聞いたり、自分が本当に感じていることを抑圧していい子をしていたので、思春期から私は病んだんだな、と今は感じます。
が、本来、
人に言われたらすぐやるのではなく、自分の頭で一旦考え、本当にそのお世話がその人にとって必要か?
また自分がそれを今したいか?
と判断してから動くことが、どちらにとっても良い、大人の境界線を引けたやり方です。
が、そのような未熟な母の動きは、私の中に無意識に刻まれ、私も夫に言われたら自動反応ですぐそれを優先してする、他人から頼まれたらそれをまずやる、とやってしまうことが、仕事で急いでいたり忙しないときほどあります。
自分軸で動いていないとき疲労感がとてもあり、なんだか搾取されているような気持ちになってきてはじめて、あっ、またやってた!!と気づきます。
自動反応で動いてはいますが、身体は違和感をちゃんと察知していて、やたらに身体のあちこちが痛い、疲れる、なんだかやる気がでない、などサインを懸命に出してくれます。
このブログのように、誰からも頼まれてもいないのに自分初でやりたくてやり、それがさらに誰かのヒントになれば嬉しい、みたいな動きとは全く違います。
自分発は、自然にやれているので疲労感どころか充実感、豊かな気持ちがあり豊かに循環します。
この豊かな気持ち、充実感という体感が伴う与える、を積極的にやっていき、疲労感を感じそうな与えるをする前に、即座に軌道修正していきたい、と思うこの頃でした。
この私の気づきが誰かの気づきにもなり、豊かさからくるgive、与える人がどんどん増えていく素敵な世界になるよう願います。
お読みいただきありがとうございます。
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