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「女性」というカテゴリーを楽しむために。

女性の待遇について、これって世の中にずっとあったことなんだなあ、と自分が中年になった今、いや今頃気がついた、みたいなことがありました。

会社に若い女性が居る、というのがその職場においてレア、新鮮なことであったならば、そして従順(にみえる)で可愛らしい(生意気な、男勝りなとかではない)女性を、中年男性はまず歓迎し可愛がろうとします。

若い人を会社で育てていく、というのは会社の成長や存続のためにも重要なことです。


が、若い男性を育てていくのとはまた違う、なんだが様子がおかしいぞ、という違和感を、側にいる若くない女性ならば誰もが多分(笑)感じ取ります。


が、中年男性に、若い女性=可愛いい、可愛がりたい、という感情のバイアスがかかってしまっているとき、あれはおかしいよね?みたいな事象があっても、許容がやたらに広かったりします。


が、その同じことを例えば、中年女性が言ったりやったりしていれば、当然のごとく許容できず厳しい対応をしていたりします。

が、中年男性たちは、自分たちにその対応に違いがあることに自覚がありません。


そうは言っても、おかしな事象がたびたび起きたとき、かなり時差があってから、違和感を感じ、慌てて今までとは違う対応を男性がしたりします。

若い女性がそはいる

=嬉しい
=無意識に対応が優遇される
=何だかおかしい
=現実問題に気づいていく

中年男性は、若くて従順な(にみえる)女性を無意識に優遇してしまう、みたいなことが意外とあるんだなあ、と歳を経てから気づいていきました。

若い女性=ちやほやされる、

みたいなことが一般的にあるらしい、を知ってはいましたが、自分が若い頃、取り立ててちやほやされた覚えもなく(笑)、取り立ててそばで見ていた経験もなかった私は、世の中ってまだまだそういうことがあるんだ、とリアルに感じる機会が増えました。


若い女性=価値がある、

みたいなことが、幻のようなものであることは誰もがわかっているのだろうと感じていましたが、無意識か、意識的か、それを利用する、という生き方もあるのだ、ということをも。


それを否定したいわけでも、肯定したいわけでもありません。


が、男性とも対等にやれなければならない、女だから甘いって思われたらいけない、とどこかで肩肘張って緊張し、本来の私より強く見せようと生きていた自分の若い頃を思い返すと、もうちょっと緩んでいられたら、女性というカテゴリーをもっと楽に過ごせていたのだろうと思います。



例えば力仕事は男性にお願いする、頼る、などができるようになったのは、2.3年前くらいからで、それまでは、特に仕事の場においては、男性とも同じように動かなければ、と思い込んでいました。

以前職場で、木でできた一際重い椅子や机を1人で運んでいたとき、男性の上司から、

「そんな重い物は持たなくていいです。
一声かけてください!ぎっくり腰にでもなられたら困ります!」

と言われ、ふと顔を上げて周りを見渡せば、他の女性は軽いパイプ椅子や机を持っていて、

「そうだよ。そう言うのは男性陣に持ってもらえばいいんだから。」

と女性の先輩が軽やかに言ってくれたとき、いかに自分が視野狭窄で、一人前にやらなければ、と弱さを隠そうと恐れから動いていたか、に気づいたことがありました。

そういう私にとって、他人がちやほやされるのを許せる、自分がちやほやされる許せる、というのは、軽く緩んだ姿なのかもしれないとも感じます。



男性も癒されたいのねえ、とただ事実を受け入れて。


女性、という性を楽しみながら、周囲と調和していくことは、賢く軽やかな生き方なのだろう、と思います。


男性に対抗心を燃やすのでもなく、女性を武器にするのでもなく、職場などあらゆる場所で男性とも上手く付き合っていくのには、自分の癒しが何より不可欠なのだろう、と感じます。



女性を充分に楽しむためにも、


やはり、


私が癒されますように。


そして、みんなが癒されますように。


みんなが調和しながら豊かに過ごせますように、


と今日も祈ります。


お読みいただきありがとうございます。

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