12/22・12/23 日記

12月22日

・今日も今日とてブレスオブザワイルド。操作が体に馴染んできたのと、ワープや馬など移動手段が増えてきて快適になってきた。

しかしゲーム実況者は本当にすごい。行き先に迷うたび「これ生放送とかしてなくて良かった〜」みたいに(配信することはおそらく生涯ないのに)思ってしまう。自分だったら、視聴者が退屈だと思っていることに耐えられなくて、すぐにコメントで正解を聞いてしまうだろうな。


また、彼女の操作が下手すぎてつい口出ししてしまう。典型的な指示厨みたいになった。

自分が操作に慣れ始める前には、なんでそうなるのか周りには理解できないクソプレイングなど、いくつもの試行錯誤があって上達しているはずなのに、初心者のプレイングに寛容な心を持つことは難しい。きっと、試行錯誤中は必死なので、絶望的に下手な自分を忘れてしまっているのだと思う。



12月23日

バイトから帰って食器を洗いながらワイヤレスイヤホンで中田敦彦の動画を聞いていた。中田のユーチューブが流行ったのは3年くらい前だったと思うけど、当時は内容に間違いが多いとの噂を小耳にはさんだし、某メンタリストの動画を見て意識を高く持ってる人みたいな違和感があったので、なんとなく避けていた。

あの時ほどの熱はほとぼり冷めたところだが、今あらためて見てみると、とても面白い。特に文学・芸術系が気に入っていてよく聞いている。

この動画がなかったらおそらく読んでなかったであろう『グレートギャツビー』を買ってきて、中田が解説してくれているなら安心して読める、というモチベーションで読破することができた。1章読み終わるごとに、その章の解説を聞いてみたら、内容は同じでも微妙にニュアンスの違う読み方をしていたり、時代背景を説明してくれるのでより深い読みができたと思う。

『三四郎』は時代の移り変わりとともに新しい価値観を持ったヒロインが登場するという点が、時代が違えど「東京ラブストーリー」と相似の関係であると説明し、東京ラブストーリー的なドラマ風演出をはさみながら解説するので、古くさいと思っていた漱石の描いた世界観がより身近に感じられたりした。



ところで、表層的な知識を集めることが教養だと履き違えている最近の傾向をファスト教養として批判されているみたいだ。

おそらくこのテーマをベースに作られた、「中田敦彦やひろゆきの動画を見ている人へ」みたいな煽動的なサムネイルの切り抜き動画がTL流れてきたので見てみたら

「○○さんみたいにたくさん知識をつけるためにはどうすればいいでしょうか。」

という視聴者からの質問に対して、その人は冷笑的に

「根っこがちゃんとしてないのに葉っぱに手を出しても定着するわけないでしょう。」

と答えていた。これはファスト教養コンテンツに群がる人へ向けて、バカにするような態度を取ることで目を覚ませというメッセージを送っているのだろう。


これには概ね同意だし、大学時代に自分も根本を学ぶことから逃げて、やみくもに興味のあることに手を出して迷走していたことがあるので、これは自分のことだと軽くショックを受けた。

この画像、"効いた"


しかし、しばらくして冷静に考えると、葉っぱと戯れることがむしろ大事じゃないのかという思いが強くなっていった。

先ほど書いたように、自分もユーチューブでお手軽に学べるコンテンツから興味を持って著作を手に取るきっかけになったことは多いし、多少間違えたことを発信してあっても、いままで学びに見向きもしなかった人との接点は確実につくれていると思う。

問題なのは、延々に断片的な知識をかき集めているだけの状態なのであって、本格的な体系にアプローチする前に、徹底的に断片的な知識を楽しむということもあり得るのではないか。

根っこの部分に深く潜るために、まず葉っぱで遊ぶという捉え方もありだと思うようになった。つまり、自分が今手を出しているのは葉っぱでしかないという自覚を持って、その葉っぱで遊びながら、どの根っこをどこまで学ぶのかの射程を意識することが大事だと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?