見出し画像

私のB面・ダークサイド(中級編)

もう太陽は射手座に入ってしまったのですが。もうちょっとB面として書いておきたいことがあるのです。火星射手座入り24日19時16分まではセーフってことにしてほしいけど、それすらも間に合わないきがするぞ。(追記:間に合いませんでした。)

とはいえ、色々とB面記事書いてきたせいで、タガが外れてきた感はある。ためらいなく出せると思える範囲が広がった。今から書こうとしていることも、もはや書きにくさはそこまでない。でも、やっぱり、きちんと表明はしておきたいところかもしれないので、書きます。あと、毒は出せるだけ出し切って余白つくりたい。(YTlive49のどこかでそんな話があった。)

中級編は「それを言って何になるの?」「わざわざ言う必要ある?」みたいなところです。ちょっとネガティブな話というか。これ言っちゃったら今後びみょーにならない? とか。

でも、それも「私はこうなんです」と、きちんと伝えることでもあるので。あと、同じように感じている人も、いるとは思うんです。だから、「あ、私だけじゃなかった」って思ってもらえる可能性があるなら、言ってみたいなと思う。

でも、本来であれば、わざわざ口にはしない(表には出さない)ものであるので、軽く聞き流してもらえるくらいが、私としてもありがたいなという気持ちもあります。

はい、前置きが長いですな。エクスキューズがな。予防線がな。

①Twitterが得意ではない

このタイミングで書くな感がすごい。昨日は物凄い大決心のもとツイートしてました。そしたら、すごくあたたかいなと思った。うれしいエネルギーの伝達がどんどん届く。だがまだしかしどのように使っていくか、決めかねていて、保留中。

Twitterに対しては、ものすごくいろんなことを考えてきたので、いくらでも書けることはあるのですが……うーん。

2020年の後半に作ったアカウント、うまく運用できなくて、半年くらいで消した。その反省を踏まえて色んなMYルールを定めつつ2021年から始めたアカウントも、結局うまくできなくて、2022年10月くらいに消した。

情報の伝達速度が速すぎて、たくさんの情報が入りすぎて、私にとっては、日常的に目に触れるものとするにはちょっとしんどい。

あと、短くまとめるのが得意ではない。140文字以下でなにかをつぶやくより、2000字くらいをサラッと書く方が、楽。(1ツイートのために15分も30分も書いては消してを繰り返してなにやってんだと落ち込む。)あとで編集できないのも困る。だから今、noteはとても居心地がいいなと思っている。

私はインターネットに1997年くらいに触れ始めて、2000年くらいに自分のホームページ立ち上げてた。本当にただの懐古厨のたわごとですが、当時のインターネッツの雰囲気がとても心地よかった。「いいね」「タイムライン」などといった概念がそもそも存在していなかったあの頃。活動がビジネスや数字と結びつくような仕組みもなかったから、ただただ「やりたい!」という純粋衝動のアウトプットにあふれてた。

比較して今をどうこう言うつもりもなくて。今のインターネットのあり方の恩恵も受けている。時代は進みゆくもの。わかっている。わかったうえで「あの頃のインターネット心地よくて好きだったな」と、私はそのように感じるのだ! と思っても、別にいいんじゃないか。

情報伝達速度の話でいえば、私は小学生のころ(インターネットがまだない時代)には、文通にはまっていて。全国各地7人くらいの子とやりとりしてた。手紙に書ける分量を、手紙でやりとりする速度で。そのくらいが、心地よい。

インターネットが開通してからも、基本は掲示板やメールでの長文のやりとり。チャットはテレホタイムだけのお楽しみ。こんな時代を通過してきたから、私はもう、今あるすべてがすごすぎると思うわけさ。かつてはここまで「リアルタイム」を共有できることなんて、なかったの。

昔は、その辺の人たちが、どんなことを思い浮かべてるかなんて、知り得なかったし、交換もしてなかったと思うの。つまり今は、たいへんな情報量が、日常的に、当たり前に、飛び交うようになっているってことだと思うの。

それは、私という個体にとっては、処理能力をはるかに超えるものである。事実としてそうなんだと、認識することはきっと悪くないはず。

オチも締めもないんですけど。「この悩みは30年前なら抱えることのなかった悩みなんだよな。」って思うと、ちょっと落ち着くこともあったりします。局所的なもの(時代的特殊性?)にすぎないんだよなと。

②飲み会が得意ではない

こんなこと書いたら今後飲み会があったときに「もしかしてイヤイヤここにいるんじゃないの…?」って思われそうで口に出しづらいんですが、参加してるならきっと楽しんでるんだと思いますので、おかまいなくです。(とか思ってるあたりが自意識過剰なんだよな…! まったく……!!)

1対1でゆっくりじっくり話すほうが好きです。全員と話せるわけじゃないのになんで集まるんだろう…とか思ってしまう。話すタイミングのランダムさ加減がむずかしすぎるってのが一番のお困りポイント。失敗しては落ち込むので、わざわざダメージうけに行きたくないのです(笑)

そんな私だからこそ、オープンダイアログにハマったんだろうなと思います。話題の中心人物も話す順番も手順もハッキリしてて、ゆっくり落ち着いて話ができて、心の深い部分をわかちあえるような感覚になれるから。

こんな私なので、2020年以降は本当に楽になりましたね……。オンライン飲みのほうが断然好きです。自分のタイミングで退室しやすいし、そのまま布団にダイブできるとか最高じゃん。

(何を「やっぱリアルでないと!」と思うのかが、その人の価値観を表すような気がしてます。私は、演劇と、音楽ライブと、旅です。これらはオンラインやVRでは満たされない。)

③返信にものすごく時間がかかる

コメントの返信が、ものすごぉく長考タイプなんです。そのせいで相当人生損してる(機会損失してる)自覚もある。もっと瞬間的に、パッ! パッ! サラッ! サラッ! とやってしまえばいいと、わかってるんです。でも、いつもいつも、書いては消して、書いては消して、結局そっけない定型文みたいになる……もうやだ……。ブログの記事5000文字を書く方が楽だあぁぁ……。

④オタクについて

これもね、ホントにわざわざ言う必要ないと思うんですよ。言って何になる。だから「そんなふうに私は感じてるだけです。以上。」って感じのものではありますが。

私の学生時代もまだ、オタクは蔑まれる対象でした。だから、かつてのオタクって、隠れキリシタンみたいなもので、バレれば恐ろしいことになるとわかってなお、見たかったし、好きだったし、愛してたんですよ。

かつ、それは、集団のなかにいたくない自分の隠れ家みたいな場所だった。独りになるためのツールだった。休み時間に話しかけられたくないからずっと本読んでたのとおんなじ感じで。

今はそれが「人とつながる(共通の話題を得る)ためのツール」になってるんだな、と思う。つながるために手に取るものなんだなと。私にとっては、つながりたくないから手に取っていたものだったけれど。

(尾田栄一郎先生が何かで「漫画はクラスメイトと話すきっかけとしてあればいいと思う」とおっっしゃてたように記憶してるので、それでいいんだと思うのだけど。)

…ちょっと、主語を大きくし過ぎてるかな。今も昔ももしかしたらないのかな。私はそういうスタンスです、ってだけかも。その他想定される反駁が色々思い浮かぶわけですが、スルーして書き進めていきます。

⑤作品はひとりで楽しむものだと思っている

これも④と似たような話で。私、同時視聴とか、ゲーム配信とか、実況・共有文化が、全然わからないんです。アニメにしろ、ゲームにしろ、誰にも邪魔されずに、それに100%没頭して、作品と1対1で向き合ってたい。

特に、「その作品の初見」って、人生で1度きりしかない、唯一無二の体験なわけです。めちゃくちゃ大切な時間です。全身全霊で向き合いたいわけです。画面から一瞬たりとも目をそらしたくない。他のことに1秒たりとも意識向けたくない。

ゲームは、自分がやることに意味があるので。自分自身の体験こそが肝なので。時間がなくてできないなら、そのゲームとの縁はなかったってことだし、自分がクリアできないなら、それは生涯自分が経験し得ないストーリーです。RefindSelfのような比較を楽しむタイプのゲームですら、他の人のプレイ画面を見たいという気持ちは起こらないのだよなあ。あと、ネタバレされるの本当に嫌。わたしのたいせつなぼうけんをだいなしにしないで……

パーティーゲームとかほとんどやってこなかったし基本興味もわかないですね。ああ、なんかもうどんどんと自分の……なんていうんだろ、うまい言葉が見つからないけど、自分どないやねん感が、強くなりますな……。

⑥「他人に興味ないでしょ」「人の気持ちがわからないんだね」

今まで各所で言われてきたセリフTOP2~! 若かりし頃の私はそれを言われて深く傷ついて大泣きしながら帰路についたり、自分の欠落人間っぷりに愕然としてきましたけど、今はもう「ハイ、まあ確かにそんな面もありますが何か?」って感じになりましたね。

他人に興味のない人間もいるし、人の気持ちがわからない人間もいますわよ。それが何か問題でも??(や、問題が起きがちだからそのように指摘もされるんだろうが。そういう人間であること自体は別になにひとつ問題ございませんことよ?)

○○なら●●する/できるのがふつう、とか、そういうの一切ないんだわ! だって私は○○であるまえに、世界でたったひとりしかいない私という固有の存在だから!!

人間失格、って感じたこともあったけど、それは「人間であれば△△という機能(ex.人を思いやる気持ち)が備わっていて当然」といった前提ゆえに感じる劣等感・欠落感であって。そういう前提は一切ないってことでいいと思うんですわ。だってみんなひとりひとり固有の存在だから。わたしをたばねないで。

一方で、属性をあらわす言葉がうまれることで、つながれて知恵を出し合える……みたいな話を熊谷晋一郎さんがおっしゃってたように記憶してるんだけど、出てこないな……。あえて自分をなんらかのカテゴライズのなかに入れ込むことで、安心感や知識を得ていくことも、大事なことだなとは思う。

その話は出てこなかったけど、この話もすごくよかった。

そんな私が、他人に興味を持てるようになったきっかけが、ホロスコープです。この配置をもっている人って、どんな感覚をもって生きているんだろう? って、気になってしょうがない。それはもしかしたら、厳密にはその人に興味を持っているわけではないかもしれないけど、でも、そこで交わされるやりとりは、その人に興味持ってるときに成されるものと、同じようなもんじゃない? それなら別にいいんじゃない? だめ?

そんな私が、人の気持ちをたずねていけるようになったきっかけが、ナラティブ・アプローチです。これはあくまでも私個人の解釈ですが「相手の気持ちなんて、相手に聞いてみなければ、わかりようがないじゃない?」というのがベースにある対話手法な気がしてて。まずはそのスタンスに救われて。

で、かつて「相手に興味を持っていれば、自然と質問は浮かんでくるものでしょう?」って言われて、途方に暮れていたのですが。ナラティブ・アプローチは、『相手のことを知っていくためのアプローチ(質問)手法』が、体系化されています。だから、その手法を通じて、興味の持ち方もちょっとずつつかめてきた感じがあって。

「そんなの自然にできるもんでしょ?」って言われるのが、いちばん困りますよね。できないから困ってるんだっつーの。あげくのはてに「自然にできないとか人としておかしい」とか言ってくるの、勘弁してくれ。真面目でピュアな若かりし頃の私は、額面通りに受け取って心がコナゴナに粉砕されたぞ。今となっては慰謝料を請求したいくらいだぞ。

⑦雑に言葉をつかって、雑に自己卑下しがちな私たち

なんかどんどん話が逸れて行ってる気がするが、まあ思いついたのでそのまま行きましょう。

よく「自分はコミュ障だ」とか言ったりするじゃないですか。たとえば、A「自分コミュ障なんですよ」B「ああ、自分もです」C「ああー、自分もそうなんですよね、つらいっすよね」ABC「「「つらいっすよねー」」」みたいな会話がなされるとするじゃないですか。別にそれでその3人が共感しあえた気になって満足するならそれで別にかまわないんですが。

それを聞いた私は「あなたにとってコミュ障ってどういう状態のことを言うのですか? どういうシチュエーションで、どういう行動をとってしまったときに『ああ、自分はコミュ障だ』と感じるのですか?」と問いたくなってしまいます。

で、おそらくですが、これを問うたとき、A・B・Cさん、それぞれ違う回答がかえってくるんじゃないかなと思うんです。似通ったり、通ずるところはあっても。つまり、それぞれの発する『コミュ障』という言葉に含まれている意味内容は、三者三様なのです。同じ言葉を使いながら、別のことを指している。

「友達がいない/ほしい」っていう言葉もよく聞くんですが、これも「どういうときに、どういう行動をとってくれる存在を欲しているんですか?」って問いたくなってしまって……結構これも人それぞれ違うと思うんですよ。

だから、相手がなにかしらの言葉を用いた時に、その言葉を自分の感覚や枠組みで受け取るのではなく、相手がどういう事柄を表現したくてその言葉を用いたのか、きちんと確認しながら話をするって本当に大事だなとおもっていて……。

っていうのはもしかしたらみんなあたりまえにやってるかもしれないけど、私は、33歳になったときに人生で初めて、そういう話の聞き方をしてもらえたんです。そういう話の聞き方/聞かれ方があることを、その時初めて知ったんです。ナラティヴ・カウンセリングの現場だったんですが。もうめちゃめちゃ救われたし、ものすごくいろんなものが打開された……。


なんだか途中からテンションが変わってきて、なんだかよくわからないところに辿り着きましたが……ひとまず、こんなところにしておきます。もうこんな時間じゃないか!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?