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五井先生の文

イエスのように、神に直結していた人にとっては、神が在るも無いも、自分自身が神を現わしていることを、事実として知っているのですから、神の存在を否定したり、自分勝手な想念で、神の外に自分というものがあるように思ったりしている人びとをみると、哀れでもあり、嘆かわしくもあったのでしょう。

すべての人びとが一日も早く、神の存在を信じ、神によって肉体身として生かされているという真理を知って、神のみ名を崇めるように願う思いは烈しいものがあったのです。

「御国の来らんことを。御意の天のごとく、地にも行はれんことを」という祈り言でも、神の真意がこの世に顕われるために自己がここに存在するのである、という使命観に燃えて説き明かし、説きつづけていたのです。神の御国である実在の世界、神界ではこの地上界のように、根みや妬みや争いもなく、恐怖も怠惰も、病気も貧乏も、不完全と名のつく状態は全くないのであります。旧約イザヤ書にあるように、獅子と羊とが仲良く遊び、四季の花の咲き競い、気候も温度も全く調和した状態の中に、神々や神の子たちは生命いきいきと生きているのです。

そういう大調和した相が、真実の御国であって、イエスの時代のような、もっとも今日でもそうですが、強い国が弱い国をしいたげ、悪人が善人を抑えつけて生きている、というような、そんな国の状態は、真実の御国ではなかったのです。イエスの心の中にある御国は実在界そのものであって、現象世界の汚れに充ちた不完全な領土的国ではなかったのです。

そうした完全円満な御国が来らんことを、そして、神のみ心そのままが、天の状態のようにこの地上界に行われてゆくように、イエスの願いはそのまま祈り言となって弟子たちに説法されてゆくのであります。

私が常に説いております"世界人類が平和でありますように"の一行は、この主の祈りを、最も今日的にわかりやすく、老人にも幼児にも唱えられるように説いたものです。

この主の祈りは、前半は、ひたすら、神のみ心そのものである、大調和世界がこの世に顕現されるように、という祈りです。これは今日的に要約すれば、世界人類が平和でありますように、であり、日本(祖国)が平和でありますように、ということになるのです。

「我らの日用の糧を今日もあたへ給へ」という所は平和の祈りの"私達の天命を完うさせ給え"の中に含まれてしまいます。

説法をつづけられた、イエスの髪も髭も定めし土ほこりにまみれて長く伸びていたでありましょう。身につけた衣は、あかにまみれて汚れていたでありましょう。しかし、イエスの眼は青空のように澄み切り、顔は白光のように輝いていたのであります。

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