見出し画像

「春と修羅」(PCゲーム)論考

開かれた言葉としての「春と修羅」

https://store.steampowered.com/app/1352910/Haru_to_Shura/

 はじめに書いておくべき点として、この「春と修羅」は、おそらく多くの人がタイトルくらいは知っているであろう宮沢賢治の「春と修羅」の内容をゲームに落とし込んだ、といった作品ではありません。ましてや他の有名な賢治の童話などとも世界観は異なり、挿入される詩なども賢治のそれとは別のものです。
 ではなぜ、そんな内容で「春と修羅」なのでしょう。この点について、宮沢賢治の「春と修羅」が、どういった心的・時代背景で書かれた詩集であるか、やや込み入った解説が必要になります。(賢治は「詩」ではなく「心象スケッチ」であると述べていますが、本稿では便宜上「詩」で統一します)
 大正13年(1924)に自費出版された「春と修羅(第一集)」は、大正11年初頭のころから、22ヶ月の間に書かれた詩稿をまとめた詩集です。ここには、賢治の後半生において最も重大で、傷心の深かったであろう出来事について書かれた詩が収められています。それは「無声慟哭」と内題された一連の詩であり、そこに描かれた妹トシの死の以後、賢治は半年ほど詩作が途絶えたほどです。「無声慟哭」の書かれた日付が1922年11月27日で、次の「風林」は1923年6月3日となっています。その「風林」から連なる青森・北海道・樺太旅行中の心象を描いた作品にさえもトシの死が色濃く影を落とし続けている点も、賢治の喪失感の大きさを物語っています。
 とはいえ賢治はそれら「オホーツク挽歌」などの詩作を通じ、トシの死とともに行きてゆく心的境地を得たのでしょう。「春と修羅」終尾ちかくに収録されている「鎔岩流」は、以下のような詩句で結ばれています。

(あれがぼくのしゃつだ
 青いリンネルの農民シャツだ)

 北上山地の景色に野良着の柄を見たこの詩は、内に秘めた決意をあらわしたものでしょう。賢治はこの後、郡立稗貫農学校(花巻農業学校)での教職を三年半ほどで辞し、大正15年(昭和元年・1926年)4月からは川口町下根子桜(現・花巻市桜町)で独居自炊の生活を始めます。そして8月16日には「羅須地人協会」を設立し、農業指導と並行して「農民芸術概論」などを説き、農本主義的生活に身を投じてゆきます。
 当時、羅須地人協会のような農本主義的共同体構想が、ほとんど同時多発的に日本各地で勃興しています。たとえば第一次世界大戦の終結した大正7年(1918)9月には、武者小路実篤の「新しき村」、また橘孝三郎は大正5年(1916)頃から農業を始め、二年後にはそれが「兄弟村」と呼ばれるまでに発展します。
 その背景に共通するのはすさまじいまでの農村の窮乏であり、橘孝三郎は彼のもとに参じた青年のもたらした出納帳を見て愕然としたといいます。その青年の家は3ヘクタールほどの耕地を持つ平均的な中堅農家でしたが、家計の大部分を食費が占め、主な食生活は米と味噌汁と野菜だけ、食卓に魚が乗ることは年に2、3度しかなく、それより下の小作農はいったいどんなにひどい生活を送っているのか想像もつかない、というありさまでした。
 賢治にも「春と修羅」第二集の序文で、教師時代に接した生徒たちの境遇について、

みんながもってゐる着物の枚数や
毎食とれる蛋白質の量などを多少夥剰に計算したかの嫌ひがあります

 というふうに言及している一文があります。
 賢治が生きた大正から昭和初期というのは、旧来の財閥系に資本の偏った経済成長で格差が拡大し、多くの労働者や農民が困窮していた時代でした。戦後の高度経済成長期を経て、一度はかなり広汎に達成された「一億総中流」のあとに生きている私たちには想像しがたい絶対的貧困と、不平等が蔓延していたのです。

 賢治は大正6年から10年(1917~1921)にかけて、断続的にではあるものの東京に滞在し、大正バブルに沸く都市と、その裏で生活に困窮する多くの市民の姿は十分に認識していたはずです。一方で賢治は、先に挙げた橘孝三郎のような積極的なマルクス批判はしていないことから、当時興っていた(後進の地としての)東北振興論などもある程度肯定的に受け止めていたと思われます。そしてそれを踏まえた上で「みんなのほんとうの幸せ」を願い、己のミッションとして、はじめは農学校での教育、そして農業の発展を推進する羅須地人協会という方法論を選び取ったのでしょう。
 羅須地人協会も橘孝三郎の兄弟村も、その結末はそれぞれに悲しいものでした。しかしそれらが何を希求して興ったのか、「春と修羅」出版からまもなく100年を迎えようとする今、私たちはよく考えてみるべきなのかもしれません。


 もうひとつ、「春と修羅」というタイトルについても解説を加えておく必要があるでしょう。
 「修羅」は賢治の作品に頻出する言葉です。賢治の帰依していた法華経に従えば、やはり仏法を守護する護法善神の阿修羅となりますが、この阿修羅は多様な性質・寓話をまとった神であり、また修羅という語じたいは暴力的なニュアンスを含んでいます。賢治の「修羅」はそういった雑多さを内包しており、(研究者によってさまざまな解釈はあるようですが)思い通りにならない、自在でない状態、また途方もない目標に向かって進んでゆく、といった状況をあらわす言葉として用いられています。
 表題にもなっている「春と修羅」の詩では、

    まことのことばはうしなはれ
   雲はちぎれてそらをとぶ
  ああかがやきの四月の底を
 はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 というように、美しい景色とは相反して苦渋に満ちた自らの様子を「修羅」と呼んでいます。また、先に挙げた「無声慟哭」では、

(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)

 と今度は自身の在りようをあらわす隠喩ではなく、賢治をとりまく境遇について用いています。この場合の「修羅」は、生前は刊行されなかった「春と修羅 第二集」収蔵の、おそらくは農学校時代の教え子に寄せた詩「告別」における、

云はなかったが
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

 という詩句において説明されている「みち(羅須地人協会)」でしょう。この困難な希求もまた「修羅」ということです。
 賢治の「修羅」は、ここに挙げたよりももっと多様で複雑なものであると思いますが、本稿での引用はここまでに留めておきます。

 このように詩集「春と修羅」の紙背には、妹の死と向き合おうとする内的葛藤と、己のなすべきことに出会い、外の世界に歩み出てゆこうとする決意が隠れています。
 そして、このゲーム「春と修羅」はたしかに、そのような「春と修羅」性に倣った物語です。そこには苹果(りんご)や小岩井農場や人と森を優しく隔てるような林は出てきませんが、開かれた言葉としての「春と修羅」がたしかに存在します。

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 と賢治は序文に書いています。このように言葉が開かれているからこそ賢治の詩は(地質学や仏教の言葉が無遠慮に散りばめられていることを抜きにしてもなお)難解なのですが、私たちは世を隔てた言葉の受け手として、その開放性の上で、光でできたパイプオルガンを弾いてもよいはずです。賢治がそれに目くじらを立てることはないでしょう。


 最後に、冒頭で触れた「賢治のそれとは別の」詩について、すこし付言して本稿を終えたいと思います。
 作中にはガブリエーレ・ダンヌンツィオの「声曲(もののね)」が挿入されています。ダンヌンツィオは賢治と同時代の(ただし年齢はずいぶん上)の詩人ではありますが、これはあくまで作品世界に情緒的な彩りを添えるためのものであり、特別に関連があるわけでもありません。
 この詩は恋人と一緒に眠っている際の心情を官能的に描いたもののようなのですが、どうやら翻訳の過程でややニュアンスが変わってしまっているようです。日本語訳では

滴りの落つるを、はた落つるを

となっている部分は、イタリア語原文では

che dal mio cuore cade, lo stillante sangue (心から滴り落ちる血)

 という表現なのだそうです。滴り落ちるものが「心の血」であることを知っておくと、ずいぶん哀切に満ちた夜の情景が浮かんできませんか?
 この「声曲」の使われ方は絶妙で、作中の登場キャラクターがある人物を眺める際の想いがよく付託されたものだと思います。キャラクターの心情についてあまり直接的な説明をしない作品ですので、このあたりを心に留めておいてもらえると、より作品世界に同調しやすいのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?