真実の在りかが分かったような気がする

「ひとがひとり死んだのに、勉強させてもらっただなんて、自分はどんだけの人間なんだよ」

現役でバリバリ看護師をやっている友達が私ともう一人の友人に宛てた長文のLINEには仕事で起こった出来事の全容が順序立てて記されていた。医療の現場で働く彼女は毎日重めの責任をおんぶしながら働いている。

私はそれが重くて荷物を降ろしてしまった。看護師を辞めてしまった。しまったと言ったけれど、いや、おんぶする事で背中にその重みを感じることができたからその重さを認識し、降ろすことができた。つまりは「仕事」ということはどういうことなのかを知ることができたという私の結論はさておいて。

今こうやってパソコンに向かっている私の横で働いているカフェの店員さん。流れてくる外国人歌手の声。壁が綺麗な緑色に塗られている、この色のチョイスは素敵だな。今お店の外を大きなミキサー車が通った。

働く、働く。みんな働いている。

みんな毎日楽しいのかな、楽しいんだろうな、楽しくない人もいるだろうな。傍から見ただけじゃその人の幸福がどんな形をしているかなんてわかりゃしない。

友人として私は、看護師が天職であると思っている、彼女のこと。天職って「①天から命ぜられた職。その人の天性に最も合った職業。」と広辞苑に書いてあったけど、うんきっとそうだと、天職なんだと思う。でも神様から辞令を出された訳でもなければ、天職を一生続けたところで天から表彰状が降ってくる訳でもないから自分で天職だなと感じていてもその中身に、その毎日にやりがいとそして困難を乗り越える為の力のような何かがなければ仕事なんてやってらんない。だって日々だから。生活だから。

彼女は自分の看護師としての判断が命に直結することを再確認し怖くなったのだと言った。彼女にかけられる言葉はありきたりなものしか浮かばないのが悔しいけれど、その努力を労って次の患者さんに生かすしかもう方法ないねと言った。そしたら彼女は「勉強だなんて、自分はどんだけの人間なんだよ」と言った。そう。そんなの人間の権利の中にない。でも神様じゃないから全能じゃないから仕方ない、たかだか人間、上も下もない。でも人間だから助けたかったんだろうな。

そんな人間を試すかのように神様は大地震と津波を日本に持ってよこした。

神様、そりゃないよ、そんな悪いことしたかね日本人が。と近年の災害の報道をみて思う。

たとえば広島の原爆の日を忘れないように、たとえば3.11を忘れないように。被害に遭われた方のひとつひとつの命を無駄にしないために。この大災害の悲しみを少しでも浄化するにはそれしか方法がないのは分かっている。だってどんなに嘆いてももう故人は故人であって、戻ってこないから。

けれど何かが引っかかる、腑に落ちない。

自分はどんだけの人間なのか。

私が他人様が亡くなったことを糧にしていいのだろうか。

なんか違う。勉強させてもらうなんておこがましい。


自分の中にその意味とかを見つけるしか方法はないのだろうと

思っている。

戦う相手は周りじゃない、人じゃない、自分の中身。

比較とか、悲しい出来事があったから、とかじゃなく。

ちゃんと毎日の意味を感じて、ちゃんと自分自身と戦って。

難しいことだけどそうしなければって思ってる。

それこそが供養になるのだと信じて、とか言ってみる。


#エッセイ #コラム

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