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愛する覚悟

ご覧いただきありがとうございます。
のりこです。


今日は長年温めてきた、ずっと考え続けてきた、『愛』がテーマのお話です。


きっと10年後ぐらいに書いた方が良さそうな感じがするのですが、私の中での愛のおしゃべりが頭の中でいっぱいになってきてしまったので、外に出してみることにしました。


すごい長くなりそうだけど、どうぞお付き合いください。





***





誰かを愛するなんて、強くないとできない。



当時21歳の私は、人を愛することがどういうことか、全然わかっていなかった。



本当の意味で自分を大切にしたいのなら、誰も愛さなければいいのではと思ったりする。




誰かを愛するとは、自分の一部を誰かに明け渡すということ。

自分の犠牲を払うということ。

失う悲しみを受け入れるということ。






私の目の前に現れた見るにも耐えない現実が、私にたくさんのことを教えてくれました。



人を愛するとはどういうことかということを。





***




ある日突然、私のそばにいた人が消えた。


どこか遠くに行ってしまったのだ。



その人を救う方法はあった。


でもものすごく弱くて未熟だった私は、目の前に突き付けられた現実にうろたえてしまっていました。



出来る限りのことはやってみた。


怖さと不安でいっぱいで、今にも押しつぶされそうだった。



周りには大丈夫と笑顔で答えながらも、あまりの辛さに耐えられず、泣き叫ぶ日が続きました。




そんな現実に疲弊し、干からびてしまった私。



私のエネルギーのタンクは空っぽになってしまっていました。




自分の無力さを憎んだ。

どうしてもっと頑張れないのかと、すでにヨタヨタになっている自分に鞭を打った。



他人の幸せが喜べなくなってしまったことに気づいたとき、私にはもう無理なのだと、やっと理解することができました。




当時私の話を親身になって聞いてくださっていた方が、言った一言。


「自分を大事にしなさい」



今まで私がやることなすことに何も口出ししなかったその方が、ボロボロになってしまった私を見て、言ってくれたこの言葉を、今でもすごく覚えています。



私は一生懸命相手に尽くして、愛を与えていたつもりでしたが、全然できていなかった。


だって、自分がボロボロだったから。

ちっとも満たされていなかったから。

自分というこの尊い存在を置き去りにしてしまっていたから。




でも当時の私にとって、自分を生きるために、人を見捨てるようなことをするのは、罪悪感でいっぱいで、本当に辛かった。


ちゃんとお別れを言うことさえ、出来なかった。



仕方なく逃げるようにそこから立ち去って、私は強くなると誓ったのでした。





***




自分の愛のタンクを溢れさせること。


それがずっとずっと私の課題でした。



自分を痛めつけるのが好きだった当時の私は、自分の愛し方がよくわからなかった。


だって不安だったから。

私が何かしていなければ、周りに誰もいなくなってしまうような気がして。

他人よりも自分を優先することが、何よりも難しかった。



自分が何をしたら喜ぶのか、ご機嫌になるのか。

考えたこともなかった。



他人の期待や要望に応えるばっかりで、どこか“いい人”を演じているのが、心地良かったのかもしれません。




***




そんな迷走状態だった時期が長く続きました。


今考えてみれば、ちゃんと進んでいたんだと思う。


でもその時の私には、止まっているようにしか感じなくて、いつまで経っても満たされない心を嘆いていたりしました。



長年置き去りにしていたことにはやっぱりそれなりに時間がかかるもので、自分と向き合うたびに道のりの長さばかりが気になって、何度も諦めたくなっていました。




それでも時折思い出すあの日のこと。


もう二度と、自分の大切な人の手を自分から離すことはしたくない。



そのためには強くならなきゃいけなった。

ちょっとくらいあげても、全然減らないぐらいの愛を、自分の中から生み出す必要があった。



でもちょっとやそっとでは、そこにはたどり着けなかったのよね。






***





自分が欲しかったものを、大好きなあなたへ。



人生の流れとは不思議なもので、いつも予期せぬ方向へ、でも確実に良い方向に向かっていく。




私の目の前に現れたのは、昔の私をコピーしたかのような人。


私には、枯れていて荒れた土地を必死に隠そうとして、本当はギリギリなのに、家にはお水潤沢にありますよってやたらとアピールして、みんなにどうぞどうぞって配っているような感じに見えました。



すごく懐かしかった。

その時の私は、やっと少しはタンクにお水が入り始めたぐらいだったので、溢れちゃってるからどうぞの段階には程遠かったんだけど、この人にあげたいって思った。



だからちょっとずつだけど、愛を配ってみたの。


なかなか届かなくて、イライラもしたし、こっちが疲れてしまう時もあったけど、でも枯れて荒れた土地が急に数日で潤うのは難しいから、そんなもんだと思って、根気強くやってみた。



欲しい欲しいばっかりだった私は、その人を通して少しずつ与える練習をしていったのでした。




でもやっぱり難しくて。

私の愛のタンクが満タンじゃなかったから。

私が欲しいものもいっぱいあったし、求めたくもなるし。



唯一違ったのは、対して何も返ってこなくても、自分が与えたものの方が多い気がしても、「もうあげたくない」とはならなかった。



おそらくこの人が受け取れてこなかったであろうものをプレゼントして、本来の力を取り戻すことができたら、単純に私の喜びでもあるなと思った。




でもその与える練習タイムは、急に強制終了させられることになる。


まだ途中だったのに!!

意味不明な現実に怒りと悲しみが込みあげたとき、ふと思い出したのはあの時のボロボロだった私のこと。



何でまた突然消えてしまうんだろう。

私のやったことが間違っていたのか。

何か悪いことでもしてしまったのか。


理由を考えたところで、何も始まらない。



今までずっと与えてきたお水が、全部無駄だったのではないかと思うくらい、また元通りの枯れている荒れた土地になってしまったように見えて、私の力不足を疑わずにはいられなかった。



自分が配った愛がちゃんと届くかなんてわからない。

受け取ってもらえてるかなんてわからない。



それでもあなたは誰かを愛せる?

いつかは失うかもしれない現実を受け入れられる?



そんな誰かを愛する上でのダークサイドを、まざまざと見せつけられたかのようでした。





***





人は受け取ったことのある愛の表現方法しか知らない。


私は愛でもって突き放すこと、相手が自分の力で這い上がるのを信じて見守ることも愛の表現方法だということを、なかなか受け入れられませんでした。


私にとってはなぜかそれは、否定や拒絶などの恐怖心を煽られるようなことで、せっかく存在している愛に長らく気づけなかった。



私にとっての愛って、やわらかくて、どこかあたたかくてやさしいみたいな勝手なイメージがあったし、そういう愛が欲しかった。


だから、受け取りたくなかったんだと思うし、そういう愛もあるのだと、色々な種類の愛に触れたことがなかったのかもしれない。


そして、私はきっと「相手の力を信じる」ということがごっそり抜け落ちてしまっていました。


どこか被害者のように自分を思っていた頃の傷ついた心をぎゅっと握りしめて、お節介になっていたんだと思う。




心配したりする方が、どちらかというと楽な気がするのは私だけだろうか。

心配も愛の表現方法の一つだとは思うけど、ときにそれは相手を縛り、本当はあるはずの相手の力を奪う。



見守るって、信じるって、自分の大切な人が辛い思いをすることを受け入れないといけなくなる。

それって、自分がその痛みに耐えられなければ、強くなければできないこと。



誰も愛さなければ、引き受けずに済んだその痛み。

それでも、自分の心を痛めてまでも、不安と戦わなきゃいけなくなったとしても、その人の力を信じることが出来たなら、それは「愛している」状態なのだろうと思う。




***





与える人の周りに寄ってたかる奪う人。



与えはじめると、どこか都合の良い人が集まってきたりすることがある。


昔の私のように物乞いみたいになっている人は、自分が人から奪いたいと思っていることにすら気づかずにいたりする。


私もそういう時期があったから、そういう人が悪い人だとは思わないし、その人自身は生きるのに必死なのだと思う。



でもやっぱり奪う人の近くにいると、自分が破滅に向かうような、軽い恐怖を感じたりすることがある。

最近は、「なんか気持ち悪い」みたいな感覚がして、私の中にある危険を知らせる信号が光ったりする。



ここでもやっぱりちゃんと境界線を引いて、愛でもって突き放すことは、相手のためにも自分のためにも必要になってくる。



でもどこまで与えて、どこからはきっぱり線を引くのかが、すごくすごく難しかった。



一回エサをあげると、毎日来るようになってしまう野良猫のように、人を当てにして、一切自分の力でどうにかしようという気持ちは全くない。


人を頼るのは大事だけど、全体重で寄りかかるのは、人間関係を破滅に向かわせる。



だから私は、奪う人には近づかないことに決めました。

それは愛を出し惜しみするわけではなく、私自身を愛するために。




私も人間だから、選り好みをしてしまうのは自然だろうと思ってる。


自分の大切な人たちがたくさんいたとして、体一つしかない自分ができることは限られる。


嫌でも優先順位をつけなきゃいけないときもある。


「上司は公平に部下を評価するべきである」は素敵に聞こえるけど、出来ないほうが自然なのではと私は思ってる。



綺麗ごとはやめて、いい人もやめて、自分の心に正直に従う。



そうすることで自分のエネルギーは守られる。

本当に愛したい人を愛せる。

自分の一番そばにいる人を大切にできる。




自分をちゃんと愛せていない人の中に、本当は大切にしたい人に当たってしまったり、ストレスをぶちまけてしまう人がいたりする。


あなたの大切な人は、ゴミ箱なのですか?

と、私は聞いてみたくなる。





***





甘えると甘えられる



甘えるって「あなたの存在が必要だよ」っていうメッセージとも言えると思う。

たとえ自分がどんなにちっぽけでも、力がたくさんなかったもしても、いくつになっても、「誰かの役に立ちたい」っていう気持ちが湧いてくる人は多いような気がする。


なんていうか、“生きてる”感じがするよね。

自分のやったことの何かが、誰かを煌めかせているっていう事実がさ。




私は誰かに何かをやってあげることは多かったけど、甘える、頼るってちょっと苦手な分野だった。

何でも自分でやろうとしちゃってたのよね。

苦手なことくらい、無理しないでお願いしちゃえばいいのにね。



甘えるとか頼るとかって、そこにはものすごく強固な信頼関係があるんだと思っています。


私はなかなか人を信じられなかったために、自分で全部背負おうとして、結局キャパオーバーになって潰れるみたいなことを、しばらく何年も繰り返していました。


だから甘え上手な人って本当に尊敬する。




そんな私の考えを変えたのは、勇気を出してお願いって言ったときに、「役に立てて良かった」って言葉をもらったとき。



何かを手伝ってもらって、助かったのは私だけど、甘えることで相手の存在を認めることができるって素敵なことだって思ったの。

もらっちゃって申し訳ないみたいな、そんな利害関係ではないんだって気づいたのね。



自分の子供に迷惑かけないようにしないと!って頑張る親御さんは多い気がするけど、やり過ぎない程度に甘えることって、「あなたの存在がこの世界に必要なんだよ。」っていうメッセージとともに、愛を配ってることになるんじゃないかと私は思う。





***




愛する人の意思を尊重する



自由っていい。

何も縛りがなくて、好きなものを選択できるから。

そこには不必要な我慢もないし、不快感や違和感もない。



それでも誰かを本気で好きになったり、守るべき存在ができたりすると、誰でもちょっとお節介になったり、過度に心配してしまったり、意味不明なルールを押しつけてしまったりすることがあると思う。



本当は好きなように生きてほしい。

でもそれを許してしまったら、、

自分がものすごく不安になってしまうかもしれない。

痛みを引き受けなきゃいけないかもしれない。

愛する人を失ってしまうかもしれない。



そんな個人的な感情や、自分のことばかりが気になって、少しねじれたり、曲がった愛の表現をしてしまう人は少なくない。




私も自分が愛する人が急に目の前からいなくなってしまったことがあるので、その時の痛みや喪失感を思い出して、歪んだ感情になったり、相手が嫌がるような行動をしてしまったことは多々ある。

自分の中にある恐怖や不安が、本当はストレートに愛したいはずの人を苦しめてしまうことがあるのだと思う。




自分の中にそんな辛い思い出が蘇るとき、いつも思い出す話があって。

それは、ある自衛隊の奥さんの言葉。

本当にそばにいてほしい時に、夫は私のそばにはいません。
それでも、危険を犯してでも多くの人を救っている、そんな仕事をしている夫を誇りに思います。



もう頭の中で何回も繰り返しているから、一字一句合っていないとは思うんだけど、、

この言葉には、本当はこうして欲しいっていう願望と、でもこれでいいんだってぎゅっとしまいこんだ寂しさと、自分の好きなように、やりたいことを自由にやって欲しいっていう見守る愛と、彼への尊敬の念が詰まっているように、私には聞こえました。


そしてここには、奥さんの計り知れない強さが滲み出てる。




なんて強いんだろうって思った。

人を愛するってこういうことなんだと思った。




自分の愛する人のたった一部分だけ欲しいなら、月1で会うお友達程度のほうがいいだろう。

パートナーとして、愛する人の1番そばにいたいって思ったなら、その人の全部を受け止める覚悟がいる。

それがそう簡単にできないことは、痛いくらいわかる。



それでもなぜか、人は誰かを愛してやまないのだ。

そこにキラキラ光る、感動と喜びを握りしめて。




***




失う痛み



何かを得た瞬間に、それをいつかは失うことになる。

おそらく当たり前なのだろうとは思うのだけれど、得たものに対して想い入れがあればあるほど、大事なものほど、失うことは恐怖以外の何者でもない。


そんな絶対くるであろう未来を恐れて、敢えて何も持たないようにしている人はたくさんいると思う。




どうしたものか、人間は今自分がすでに持っているものに気づきにくい。

“不足”にばかり目がいって、せっかくの恩恵を無視してしまうこともある。

だから失ったとき、それがどれだけ大事だったのかが、初めてわかるようになるんだと思う。



喪失感を強く感じるなら、あなたの体の多くの部分が、そこにはあったということ。

祖父を亡くして、抜け殻になってしまった祖母を見て、残された側に一体何の意味があるのだろうってずっと考えていました。

祖母にとっては、生きる意味のような存在だった祖父が、もうそこにはいない。

無気力になるのも当然だろうなって思う。



年齢を重ねると、それに伴って肉体も老いていくものですが、体のあちこちが痛くなったり、介護が必要になったりするのって、そういった喪失感や寂しさや孤独感、未来への不安などがそうさせているんじゃないかと思ったりする。

何かをやらなきゃと使命感に溢れるとき、本来の力以上のものが湧いてくるような気がするから。



一緒に旅立つことができたら、どんなにいいだろうかと思う。

そうさせないのは一体なぜなのか。

私にはよくわからない。



この肉体ベースで考えると、いつかは終わりがくる。

でもこの人生が終わっても、魂はそこにずっと存在し続けているから、終わりはない。

そう考えるなら、一人の人生の最後は、魂的にはただ一区切りついただけなのかもしれない。

“終わる”という感覚自体が、3次元よりなのかもしれない。

一旦の別れであって、これからまだまだ続きがある。



自分の愛する人を失うことを学ぶ時間が、しんどい感情を感じることが、次に繋がっていくのかもしれない。



自分の全てを失ったように感じた時、更地になってしまった土地に立ちすくんで、動けなくなる。

荒れ狂う感情の波が少し落ち着いた時、何もないと思っていた場所に微かな光が差し込んでいたことに気づく。



全部また一から創造するのは時間がかかるけど、たくさんあったときよりも、“あるもの”に目が向けられるようになっているのは確かです。


自分がどれだけ一人の人を愛していたのかを感じる時間は、裏を返せば、その人からの1番のプレゼントなのかもしれない。


そんな綺麗ごとを言ったところで、痛みが和らぐことはないだろうけどさ。




***




人はなぜ誰かを愛するのか。


こんなにもしんどいことをしてまで、何か得たいものがあるんだろうなって私は思っています。


昔の私と今の私を比べたら、かなり別人です。


そんな別人になれるほど、相当な“変わる力”が必要でした。

何かを変えるとき、いつも決まってネガティブなことが起きます。


嫌なことばかりです。

まるで、私の人生に大地震が何回もきたかのようです。


一生懸命作り上げてきたものが、全部壊されるような、そんな大きな破壊が起きるとき、そこにはかなりの大きなエネルギーが生まれます。


「火事場の馬鹿力」みたいなことが、肉体的な部分だけじゃなくて、自分という存在全てをまるごと生まれ変わらせるぐらいの力が、そこには働くんだと思います。


それは単なるお友達関係では為せない技なんだと思う。



そんなにインパクトのあることが起こらない限り、変わることがないナマケモノの私たちが、変化変容するための一つの方法が、『誰かを愛する』というプログラムにはある。


簡単にできそうで、実は難しい。

当たり前に誰でもやっていそうだけど、実は奥が深い。


そして極めつけは、誰も教えてくれないってこと。

ある程度のお勉強系は、十分すぎるほどの情報が世の中に溢れかえっているけど、『人の愛し方』ってどこにも書いてないような気がする。


恋愛のお悩み相談とか、占いとかはあるけど、それはなんていうか、『人を愛する』について語る時間にはならないしね。




そんなあやふやで正解のない、とても理不尽な課題に取り組む私たちが、どうしてそんなこと続けていられるのか。


そこには、言葉に出来ないほどの、キラキラがあるからなんだと思ってる。

お金では買えない。

努力も関係ない。

何をどうすればいいのかわからないけど、とにかく自分を見つめる。

相手を通して、自分の世界を見る。

ご褒美がもらえるかわからないけど、自分なりに頑張ってみる。



たった一瞬でも心が通じ合った時の、あの感動は何にも代えがたいんだと思う。




***





心が死んでしまったあなたへ



ここまで永遠と、「人を愛するって大変だけど、素敵なことがたくさんあるよね」みたいな内容を書いてきたのですが、、


これを読んでいる方の中に、人と関わるなんて、誰かを愛するなんて、もういいやってなっている方もいらっしゃると思います。



一人がいい。

そう言う人の中には、本当に一人の方が自分らしく在れる人と、あまりに痛すぎる心の傷が、その人の目の前にシャッターを下ろさせている場合もあります。



私は無理に何かを押し付けるのは好きじゃないから、好きなように生きたらいいと思うけど、、

もしあなたの心の中に、もう一度誰かの愛に触れたいと思うカケラがあるなら、それは誰かの愛でしか癒せないのだと思う。



自分の中にしまい込んだつもりでも、自分にあるものって他者を通して認識できる。

すでにある才能に気づけていなかった場合、自分の憧れの人とか、好きな人に感じる「ここが好き」は、あなたも持ってるよっていうメッセージなのと同じように。



ある日突然、あなたの目の前に、あなたが欲しかったものが急に現れて、ピカピカとアピールしてくるかもしれない。


その人に触れるたび、自分の嫌な部分とか、過去と向き合わなきゃいけなくなって、逃げたくなったりするんだろうけど、、

それでもあなたの中にあるほんの小さなカケラを握りしめている限り、そんな現実が続くのかなと私は思ってる。



諦めて、自分と向き合った瞬間に、きっと何かが変わるはず。

過去は過去ですでに完結したストーリーで、「忘れっぽいから、ちゃんとメモしておこう」みたいな、前に失敗したことあるから改善策を考えました、みたいなやり方は、『誰かを愛する』というプログラムにおいては全く役に立たないのだと思う。



もしかしたら、同じ結末になるかもしれないし、ならないかもしれない。


映画では、どんな終わり方なのかは大事な部分ではあると思いますが、人生においては、おそらく結末よりも過程が大事なんだと思う。


勝つとか負けるかよりも、どんな戦い方をしたのか、みたいな。

どんな道のりを歩いたか、みたいな。


人間やってると、どうしてもネガティブなものって避けたくなるけど、ネガティブもポジティブも両方しっかり感じることで、この世界は成り立ってる。


だからすごく残念なお知らせになってしまうけど、とにかく過程を楽しんで、どんな感情も諦めて感じるしかないんだと思う。


“感じる”ものが多ければ多いほど、人は変わるし、それだけ美しい景色を見られる可能性が高いってこと。




心が死んでしまったとき、世界から色がなくなったように感じる。

それなのに、無理やり絵具を持ってきて、色塗りする必要はないと思う。


流れに身を任せて、世界に色が戻った時、また旅を始めたらいいと思う。


だって誰かを愛さなければ、一人でいれば、自分をちゃんと大事にできるんだから、それはそれで素敵だと私は思ってる。




***





この世界を私の愛で満たす


なんかよくわかんないけど、最近はそんな壮大なテーマを掲げています。

だって、みんなの心が愛でいっぱいになったら、大体のことが解決する気がするんだよね。(楽観的。笑)


そのための“愛の学び”だったのかもと思わなくもない。



でも私がやりたいのは、ただ愛を配ることじゃない。

最初のほうに書いたように、ただ配るだけだと、物乞いの人たちをたくさん生み出してしまって、それだと私もしんどいからさ。



愛を循環させて、素敵なループの中に入ること。

それが、私が思う理想の世界です。


まあ出来るかわからないけど、とりあえず今日も私はこうして文章を書いています。


もし、私の文章から何か受け取れたものがあったら、ぜひあなたの大切な人に、あなたの一番そばにいてくれる人に、あなたからのプレゼントをしてほしい。

愛を配ってほしい。


私の周りには誰もいないもん。っていう方は、スーパーの店員さんでもいいし、道端ですれ違った見知らぬ人でもいい。

ありがとうって言うだけで、ちょっとにこってするだけで、あなたの世界は愛でいっぱいになっていくよ。



無理にとは言わない。

もしやりたかったらね。




***




私が愛する人たちへ



少しはましな人間になれたでしょうか?

愛を配れる人になりましたか?

私の感情ばかりを押し付けてはないでしょうか?

あなたが本当に生きたい人生を、見守ることができていますか?


ちゃんと愛を表現していますか?

あなたと一緒にいる私は、“本当の私”でしょうか?




たくさんもらったみんなからの愛を、やっと少し循環させられるようになりました。


自分の中から、ちゃんと愛が溢れてくるようになりました。


本当にありがとう。




***




あとがき


あんなにネタ集めしたはずだったのに、こんなもんか。

私がここまで書いてみて、思った感想です(笑)



やっぱりあと10年分くらいの人生経験が必要だったかなって思うけど、これが今私に書ける、全部です。


愛について、ずっと考えていた時、石井ゆかりさんの『愛する人に。』に出会いました。


私はこの本を読みながら、何度涙を流したかわかりません。


私は何かについて思いを馳せるとき、必ず誰かの考えに触れることにしています。


そうすると、私の頭の中で、たくさんのおしゃべりが始まります。

「私はこう思う」

「それって本当にそうだろうか?」


自問自答を繰り返し繰り返ししながら、何度も自分の過去を思い出して涙しながら、やっと出来上がった“私の答え”でした。



文章を書き始めると、どうしても正論っぽいというか、上からものを言っているように感じて、どうやったら私の人間ぽさが出るかなといつも試行錯誤するのですが、、


ここに書いてあることは、あくまでも綺麗ごとで、一人の人間である私が、この通りにできるかなんて、自信ないです。


わかっていてもできない。


それぐらい、感情って人生をややこしくさせて、引っ掻き回す天才だと思っています。


でも、最近はそれが、人間ぽくていいなって思ったりするんです。


自然と同じように、不確かで、いつも揺らいでいて。

そこがいいんだよね。

人間やる楽しみでもあるんだと思うんだよね。


だから、ちょっとの綺麗ごとを頭に入れて、今日も人間をやろうと思います。






私の愛の学びはまだまだ続く。。


のりこ


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