なぜ私は「容疑者Xの献身」で泣くのか

容疑者Xの献身。2008年の映画らしい。
始めて観たのは10年くらい前。それでも劇場ではなくて地上波放送されたときだったはずだ。
今回ガリレオシリーズ久々の映像化ということもあり、記念として本作品が地上波放送されていた。Twitterでも長い時間トレンドになっており、根強い人気の高さが伺える。
初見の新鮮な気持ちはあまり思い出せないが、世間の評価と大差なく、「泣ける」という印象を持っており、今回も「どうせ泣けるんだろうな」と思いながら視聴した次第である。
前回の視聴からかなり長い時間が経っていたこともあり、ほとんど初見のような新鮮な気持ちで観ることができた。そして案の定めちゃくちゃに泣いてしまった。隣で観ている妻が逆に笑うくらい泣いていた。正直彼女がいたからセーブした方であり、いなければしゃくりあげるくらい泣いていた。
「なんでそんなに泣いてるの」と笑う妻にすぐに答えられなかった私は「悲しくて」としか言えなかったが、冷静に考えると、確かになぜ私は「容疑者Xの献身」で泣くのだろうか。
言語化を試みる。
改めて、アマゾンプライムビデオで配信されている本作品を観て、特に胸がしめつけられたシーンを探してみた。

  • 花岡美里が声を殺して泣く

  • 石神が「典型的なストーカー」扱いされる

  • 石神が黙々とホームレスの処理をする

このあたりである。意外とラストの慟哭は私の琴線には触れない。
妻に対して言った「悲しくて」は単純な言葉であるが、その時の正直な気持ちから出た言葉であり、嘘はない。何が悲しいのか。
上で上げた場面は石神が理解されない場面だと考える。私は石神に感情移入し、彼が理解されないから悲しくなる。花岡美里が泣くのは私と同じである。
石神は花岡を愛していた。という風に描かれていたし、それはそれでいいと思うが、私は個人的にこの作品を男女の恋愛という視点から観たくないので、悲恋だから泣けてしまうという風には考えたくない。石神が花岡を女性として愛していたとしてそれは最後まで叶わないのであるが、それは私のポイントではない。最後の慟哭の前後で石神は湯川や花岡から理解を得られてしまっている。
また石神は罪を犯すという形で花岡を救うが、一般的な感覚で考えればこれはズレている。しかし大切な人を、そうした関わり方や救い方しかできない石神の不器用さがもどかしい。というかフィクションに登場する犯罪者に本当の意味で感情移入はできない。
この作品を批評的に読むと、「男が勝手に情を持って、隣人親子を窮地から救うため、自己犠牲で自己満足した。」である。この否定側の意見に事実と異なるところはないので私には効く。
献身とは自己犠牲の意である。自己犠牲は尊いもの、自己満足は気持ちが悪いという印象がある。けれどそれらは表裏一体のものである。私は石神の自己犠牲の部分を美しいと感じてしまうところがあり、他者理解が得られず(求めず)孤独に動く様に悲しくなってしまう。これは言葉の使い方と感性の問題であって万人が同じ感覚にはならない。


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