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*禅語を味わう...030:火に入って眞金色轉た鮮かなり...

入火眞金色轉鮮ひにいってしんきんうたたあざやかなり


酷暑の毎日が続きますが、7月もいよいよ終わりにさしかかりました。
季節は二十四節気にじゅうしせっきで言う「大暑」、夏の盛りです。それでも、もう少しで暦は「立秋」...秋の訪れも眼の前です。

さて、今回の禅語です。

火に入ってしん金色うたあざやかなり...


「真金」...混ざり物のない本物の金は、火の中に入っても、色褪いろあせるどころか、ますます鮮やかに光り輝くきます。
冶金細工やきんざいく」の映像をご覧になったことのある方も多いかと思いますが、金属を高温で溶かすと、色鮮やかに輝きます。この語は、「冶金やきん」の様子を念頭に置いている語なのでしょう。

金を炎の中に入れるのは、「精錬せいれん」するためです。何千度もの高温の坩堝りつぼの中に金を投げ込み、溶かし、不純物をとばしてしまう。
もちろん、これは「禅語」として採り上げていますから、「金の精錬」にたくして、「修行」の世界が語られているのです。
金を高温にさらし、不純物を抜き去ることによって、純粋な金に鍛え上げるように、修行僧たちを、何年もかけて、朝から晩まで、晩から朝まで、厳しく徹底して指導し、余計なもの...煩悩・妄想を抜き去り、しっかりとした一人前の僧侶に鍛え上げる。
大切なことは、修行が「精錬」にたとえられていることです。

修行僧を鍛え上げることも、大きく見れば「人作り」の一つ。つまり、教育です。
しかし、「教育」という場合、普通の意味での教育は、「足し算」の発想です。生きていく上で必要な、さまざまな知識・技能を教え、社会のルールを教え、共同体で生きていくための作法を教え、常識を身につけさせる...局面と内容こそ変われども、知識と経験を得させていく、「足し算」の世界です。
しかし、「精錬」というのはその正反対。
もとの金属に混じっている不純物を抜き去ること。余計なものを取り去る、完全な「引き算」の世界です。「修行」も、それと同じ。

禅の修行は一言で言えば「捨てる修行」です。
知識を積み上げるわけでなく、技能を身につけるわけでもありません。
「捨てる修行」、「引き算」の修行は、禅の修行道場である「僧堂そうどう」においては、入門した瞬間から、あらゆる場面で、徹底して行われます。
禅寺に入門すれば、その時から個室などは当然ありませんし、所有物も最低限のものになってしまいます。新聞、雑誌もなければ、ラジオもテレビもない暮らし...要するに、まず初めにモノを捨てる。
入門したときから、名前もただ一音になります。
自分の師匠のお寺で出家をして、弟子にしていただいて、「周賢しゅうけん」という名前をいただいて道場に行けば、その瞬間から「古川」も「周賢」もなくなって、ただの「ケン」。
多くは、最後の一音二音になるのですが、漢字一文字の音だけ残して後は綺麗さっぱり捨ててしまう。自分で自分を名乗る時には、「ケンソ」と語尾に小さく「ソ」を付けはしますが、それだけ。
修行僧どうしは、「ケンサン」「コッサン」「ゲンサン」と、お互いの名前を呼び合うカタカナの音は知っていますが、漢字でどう書くかなど、はっきりとは知らないことは珍しくありません。道場の中で、誰のことを呼んでいるのかさえわかれば、背景など必要ないのです。だから、削ってしまう。

さて、こうした「捨てる修行」、「引き算」の修行は、最終的には、わたしたち一人一人の心に向かっていかなくてはなりません。修行は、あくまでも自分自身のこと。自分自身のことであるならば、自分の心をどうにかしなければ、修行にはならないのです。
ここは、とても大切なところです。
いくら所有物を減らしても、日常から多くのモノを取り去っても、あれがない、これがない、足りない、足りない...ばかりでは、捨てていることになりません。引き算になっていないどころか、かえって不満と欲望に火がついて、執着が増しているだけのことなのです。それでは、捨てる意味がありません。
大切なことは、ただ「捨てる」、ただ「引き算」をするというのではなく、「捨てる生き方」「引き算をする考え方」を自分のものにすることです。
モノを捨て、生活を引き算で整えることは、修行の現場においては、そういう「捨てる生き方」、「引き算する考え方」を、当たり前のこととして、ごく自然に自分の身に引き受け、意識しなくともそのように考え、感じられるようになることを目的としています。
つまり、捨てること、引き算することは、あくまでも、ただの「手段」。
「目的」は、この「姿勢」...余計なものを捨て、引き算からものを考える姿勢を身に付けることです。
だから、誤解してはいけないのですが、禅の修行は、「清貧せいひん」に暮らすことが目的ではないのです。捨てる生き方の姿勢が、しっかりと修行を通して身につくならば、もちろん、自然に「清貧」な暮らしにはなっていくはずです。しかし、外から見ていくら「清貧」に暮らしていても、ないないづくしでやせ我慢、無理を重ねて不満が蓄積ちくせきされていくのであれば、まったく駄目なのです。「手段」と「目的」...修行の世界では、本末を転倒してしまってはいけないのです。

修行を「精錬」としてみるとき、もう一つ大切なことは、「精錬」というのは、何も足さない、何も加えない、ということです。
むしろ、足すこと、加えることは、しばしば迷いと苦しみの原因となってしまいます。要するに、もともとのもの、そのままのものが、一番尊いのだ、ということです。
もちろん、「何も足さない」「何も加えない」とはいっても、私たちが、現に今あるそのままで良いのだ、ということにはなりません。
わたしたちの日常は、それこそ迷いの坩堝るつぼです。つまらないことに腹を立て、どうでも良いことで人と争い、悩み、迷い、苦しむ...だから、修行をする。しかし、修行とは、先ほどから何度も繰り返しているように、「足し算」ではありません。
わたしたちは意識しないうちに、何事にせよ、足し算になって行くもの、大きくなり、増えていくもの、豊かになって行くものを「よいもの」とする習慣に染まってしまってはいないか...
人間には欲望があり、心の働きには執着が具わっている。だから、欲望と執着を取り去ってしまうことはできない。素直に欲望と執着を受け入れて生きることが大切だ...そんな風にも考えられます。しかし、それは本当に正しいことなのだろうか、良いことなのだろうか?
このことは、わたしたちは真剣に、ていねいに、繰り返し自分自身に問い返してみた方が良いでしょう。

よく、「努力を積み重ねる」と言いますが、努力がすなわち「積み重ねる」もの、足し算のものであるかどうかということは、実は単純には言えないのです。
「欲望」と「執着」は、確かに生存本能に深く食い込んでいます。わたしたちの生命に、ごく自然に具わっているものを、無理に無くしてしまおうとすることは、不自然なことです。しかしながら、わたしたちは、しばしば、自分の欲望と執着に振り回され、身動きができなくなり、いつの間にか自分の欲望、自分の執着に引きずり回されてしまっています。だから、知らず知らずのうちに自分で積み重ねてしまった余計なもの、迷いと悩みの原因、欲望と執着のかたまりを自分で削り取り、削ぎ落とし、取り払うことで、心の自由を取り戻す必要があるのではないか...それが、「精錬」としての修行です。

さて、「精錬」されるべき「不純物」とは、わたしたちの迷いと苦しみの原因となるものです。
もちろん、人間は、生きている限りは悩み、迷い、苦しむ生き物です。しかし、わたしたちは、悩まなくてもよい時に悩み、迷わなくてもよいところで迷い、苦しまなくてもよいことに苦しんでいます。修行を「精錬」として見るならば、この「余計なもの」は、本来はなくてもよい「不純物」です。そして、この「精錬」されるべき「不純物」、本来は無くてもよいはずの余計な苦しみをもたらすもの、それは何か...
仏教の言葉でそれを一言で言えば、「我見我慢がけんがまん」です。
「我見我慢」とは、「俺が俺が」という心です。自分に対する執着、我が身可愛さなどなど、説明するための表現はさまざまですが、いずれにしても自分の欲望と自分自身に対する執着がその正体です。だから、「精錬」するべきはやはり「自分自身」。自分自身に対する執着なのです。余計な執着を精錬して飛ばしてしまう。不要な執着を取り去ってしまう。
一方には、何も足さず、何も加えない、執着に染まらない自分、本来の自己自身がいます。
そしてもう一方には、俺が俺が、とどこまでも執着し、もっともっとと、欲望を肥大させながら、自分勝手に足し、加えていく自分がいます。一言で「自己」「自分」といっても、その実はまったく違うものなのですが、こうしたさまざまな自分が同居しているのが、わたしたち人間なのです。

火に入って眞金色うたた鮮かなり...


さて、「真金」とは、もちろん、修行に志すわたしたち自身の、こころざしのことです。そして、わたしたちが修行に志し、自分自身の中にある「我見我慢」を精錬し、余計なもの、本当に自分自身として生きていくのには不要なもの、邪魔になるものを「不純物」として削ぎ落としてしまおうと、本当に思うのであれば、火の中に、つまり厳しい修行の世界に入って、徹底的に自分自身を鍛えていかなくてはなりません。
自分自身に対する執着、「我見我慢」の根強さ、強靱さは、それほどのものなのです。そして、この厳しい精錬の道を支えるのは、ただ、自分自身に対する「ギリギリのところの信頼」です。「ギリギリのところの信頼」というのは、地位も、名誉も、財力も、容姿も、能力も、一切関係ない世界のことがらです。

「何も足さない」ということは、すがるものが「何も無い」、ということです。それは、頼るべきものを全部捨ててしまったところです。
「自分は~が得意だから」、「自分は~には自信があるから」、といったものは、すべて足し算。足し算のものは、ただ足しただけのものだから、いざという時には、役に立ちません。
だから本当に大切なものは、それこそ本当に素っ裸になって、頼るべきものが全部なくなってしまった自分に対しての信頼です。「~だから優れている」「~だから頑張れる」といった、「~だから」が一切奪われてしまったとき、それでも自分自身の足で前に進む「信頼」なのです。
いや、そんな風に自分が頼るべきものが無くなってしまったら、そんな自分に信頼なんかできません、と人は言うかもしれません。
しかし、そもそも人間は、素っ裸で何も持たずに生まれてくるではないですか。目も見えない、力も無い、周りの人に扶けてもらわなければ何もできない、か弱い存在です。それでも、大きな声で、おぎゃーっ! おぎゃーっ! と叫び、全身で生きようとするではないですか。
「信頼」という時、物事がうまく行くための「信頼」を指すのだとするならば、自分の人生を思いのままにできる人しか「信頼」を抱くことはできなくなってしまいます。しかし、そもそもうまく行くことが保証されているようなものを信じるなんて、誰だってできることではないですか。そんなものを「信頼」と呼んでも意味がありません。
「信頼」という時、わたしたちが真に必要とするものは、自分ではどうにならなくて、それでも前に進んでいかなければならない時に、心に抱くものではないですか? わたしたちはそれを「覚悟」と呼んだりもします。

余計な自負、余計な執着、余計な自信...すべてを捨ててしまったとき、初めて「眞金」が現れる...それは精錬の炎の中で一層輝きを増す純粋な金のように、身を削がれるような修行の中からこそ立ち現れてくる本物の信頼、根拠も理由も頼るべきよるべも必要のない、純粋な「信」なのです。この「真」がなければ、ほんものの「覚悟」などできようはずもありません。
わたしたちも、めいめいのこころの奥底にある「真金」を、しっかりとわがものにしていきたいものです。

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