見出し画像

禅語を味わう...004:歩々清風起こる

 歩々清風起こる

  歩々清風起

(ほほ せいふう おこる)


桜花、桃花の季節が過ぎ、恵林寺も新緑が目に染みる季節となりました。
美しい緑に爽やかな風...
特に、早朝の庭を吹き抜ける清々しい風は、格別です。

禅の修行道場では、毎年3月の彼岸明けぐらいから、各道場に入門志願者が修行のために門を叩き始めます。
殆どの場合、お寺に生まれたいわゆる「らご」の皆さんでさえ、今日では、お寺の跡取りとして期待されて、出家得度は幼いうちに済ませているケースは多いのですが、それでも、日常の暮らしは普通の家庭とほぼ同じで、普段から衣を着る習慣を持たない場合が多く、入門しても最初の数ヶ月は衣姿が板に付かず、ぎこちなく危なっかしい印象を受けるものです。
それどころか、修行暮らしの流れが身についていないうちは、何をするにも先輩たちから怒鳴られ、叱られ、ひたすら狼狽えるばかりで、汗塗れになってオロオロと走り回る毎日です。

しかし、真剣に夢中になって精一杯努める姿には、何とも説明のしようのない輝きが宿ります。オタオタギクシャクする中にも、ベテランの修行僧にはない、何か心を打つ直向きさがあり、入門したばかりの修行僧のことを、臨済宗の修行道場では「新到(しんとう)」と呼ぶのですが、このやって来たばかりで右も左もわからない Newcomer だけが体現することのできる尊さがあり、わたしは新米雲水たちの後ろ姿が大好きで、一番美しい修行僧の姿だと思っています。

さて、今回の禅語は、そんな初々しい修行僧のことを思うにつけ、いつも頭に浮かぶ言葉のひとつです。とても有名な語ですから、皆さんもどこかで耳にしたこともあるかと思います。


歩々清風起こる

今回は「歩々清風起」という語を選びましたが、一番最後の「起」の字が三文字目、「歩々」の次に来て「歩々起清風」となって、「ほほ せいふうを おこす」としている場合も良く目にします。
意味としてはそれほど大きな違いはありません。
「歩々清風起」であれば、「清風が起こる」ということになり、「歩々起清風」であれば、「歩々」が「清風」を「起こす」ということになります。
敢えて言うならば、

「歩々清風起」...「清風が起こる」と見れば、歩いていると、無心に歩く足下から自然に爽やかな風が吹き始める、というニュアンスになり、

「歩々起清風」...「清風を起こす」と見れば、颯爽と歩くその足の運びが、清々しい風を運んでくる、という意味合いの語となってくるでしょう。
どちらにしても、大切なのは「歩々」というところです。
ここがしっかりとしていなくては「清風」が起こることもありませんし、「清風」を起こすこともできません。
しかし、ここで、

何だ、ただ歩くことじゃないか...そんな単純なこと...

と、そんな風に思う人もいるかも知れません。
「歩け」と言われたら、ただそのまま歩いてみせれば良いのですから、一体、歩くことの何が問題なのか。
誰もが毎日あたりまえにやっていることなのだから、いちいち何が言いたいのか、ということです。
もちろん、それはその通りです。たいていの人は、「歩く」ということに対して、日常、ああだこうだと意識することはまずないでしょう。ですから、「清風が起こる」だの「清風を起こす」だの、ごちゃごちゃとややこしい...そんな疑問が湧くのも当然かも知れません。

あるいは、「いやいや、清風が起こる、と言うのだから、何気ない日常の動作も、ちゃんと訓練をしてしっかりと磨き上げていけば、美しく人に好印象を与える歩き方ができるようになるのだ、ということを言っているのではないか...」。そんな風に受け取る人もいるかも知れません。
これも、もちろん間違いではありません。
人の立ち居振る舞いは、自ずからその人の「人となり」をあらわしていくものです。ですから、あたりまえの日常の細かな動作を努めて整えていくということは、自分自身の心の有り様を整え、高めていくことになり、当然私たちもそう心がけ、努力をしていくことは、とても大切です。
しかし、「禅語」としての「歩々清風起こる」という言葉が言おうとしていることは、そうしたこととも、また少し違うのです。
初めに「歩々」というところが大切だ。ここが「しっかり」としていないと...
そう言いましたが、この「しっかり」というのは、単に「見て美しい」ということにはおさまりません。
「歩く」ということは、誰もが日常、あたりまえのようにやっているのですが、裏から言えばそれだけ大切で、なくてはならない動きだ、ということです。怪我などをして、歩くことが困難になった経験のある人であればすぐにわかることでしょうけれども、思い通りに、意識しないでさっさと歩くことができない状況というのは、とても不便で辛いものです。「歩く」こと一つで生活そのものが深刻に、劇的に変わってしまうものなのです。
しかも、ただ「歩く」と言いますが、ちょっと注意してみれば、あたりまえの日常の中でも、時と場合に応じて、私たちは実にさまざまな歩き方の「かたち」を持っています。

時間に余裕がなければ、足早にさっさと歩く...
妊婦さんやお年寄りの横を通り過ぎるときは、速度を緩めてそっと歩く...
いざ本番、という時にはしっかりと足を踏みしめて力強く歩く...
大切な会議が行われている部屋に入るときは、足音を忍ばせてそっと歩く...

大切なこと...それはまず何よりも、その時その時の場面場面にぴたりと合った歩き方ができることです。雑でなく、丁寧すぎず、速すぎず、遅すぎず。
その都度その都度とるべき「かたち」を、意識することなく、当たり前のように、ごく自然に何気なく取ることができること。
ここのところを、禅の世界では「無心」と言います。
「無心」と言えば、「何も考えない」こと、「心が空っぽ」の状態だと思われがちですが、そんなものではありません。
あれこれ役にも立たないことを考えて気を回しすぎ、当たり前の動作までぎこちなくなって失敗ばかり...そんなことではどうにもならないのですが、「心が空っぽ」で薄ぼんやりと、「ボケッと」しているようでも話になりませんし、何にも考えないで状況もわきまえず、傍若無人、周りの人に迷惑ばかり...そんなことでも駄目なのです。
「無心」というのは、ことさらに意識しなくても、ごく自然に、何気なく、当たり前のように振る舞っていながら、一つ一つの動作があるべき「かたち」を離れない...そういうところのことなのです。

   歩々清風起こる...

托鉢をしているときには、托鉢の歩き方の「かたち」...
掃き掃除をしているときには、掃き掃除の歩き方の「かたち」...
お師匠様の老師にお茶やお膳をお運びするときには、お運びをするときの歩き方の「かたち」...
「歩々清風起こる」という語は、よく道場の修行僧、「雲水」の立ち居振る舞いのこととして用いられます。じっさい、専門道場の修行僧の立ち居振る舞いは、とても鮮やかで、颯爽として、美しいのです。立っても、坐っても、走っても、何をしても、本当に美しい。
しかし、それは何も衣の力だけでそうなっているのでははないのです。毎日毎日、無駄を削ぎ落として、必要最低限のことだけを、基本的な動作として繰り返す。修行僧は、そうする中で、緩急を覚え、麁細(そさい:粗さと濃やかさ)を覚え、加減を覚え、あるべき「かたち」をしっかりとつかんでいくからなのです。
「歩々清風起こる」...無心に何気なくさっさと歩く...自然にあるべき「かたち」をとっているから、当たり前の動作までもが、爽やかな一陣の風が吹き抜けるように美しい...
人が動いて空気が動くのではないのです。無心な動作の流れが、目に見えない風のように、私たちの心の中の引っかかりを洗い清めてくれるのです。
禅の世界の「清風」は、心で感じるもの...それも、無心な心が生み出す一挙一動を、何のとらわれもない無心な流れとして感じ取るところに吹き抜けるのです。

歩々是れ道場

という言葉があります。
「清風」を起こすためには、ことさらに意識しなくとも、あるべき「かたち」がおのずから現れるところまで、訓練を積み重ねて行かなくてはなりません。
私たちも、無心に、自然に、流れるように、あるべき「かたち」を作り出していけるように、日常の一挙一動を自分の「道場」と心得て、毎日の精進を重ねて行きたいものです。
                      (写真:工藤憲二氏)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?