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禅語を味わう...006:薫風南より来たり 殿閣微凉を生ず...


  薫風南より来たり 殿閣微凉を生ず...

      薫風自南來 殿閣生微涼

(くんぷうみなみよりきたり でんかくびりょうをしょうず)


風薫る5月、至る所、翠滴る新緑の候、一年で最も美しい季節となりました。
さて、この句は唐の時代、第十七代皇帝文宗(ぶんそう)帝が、「人は皆炎熱に苦しむも、我は夏日の長きを愛す」と詠んだのに対して、家臣であり優れた詩人・書家でもあった柳公権(りゅうこうけん)が唱和して付けた句です。
後に、大詩人蘇東坡(そとうば)がさらに句を加えて一篇の詩となしたことによって、いっそう有名になります。この辺りの経緯は、大変面白いのですが、ここでは触れません。禅では、そうした細々したことにはお構いなしに、単刀直入に、この句に向き合うことができるのです。

汗ばむような初夏の一日、涼しいはずの御殿にいても、蒸し暑く、鬱陶しくて仕方がありません。
するとそこに、そよそよと微かな風が、南向きの入り口から入ってくるではありませんか...
五月の風は、特別です。ただ、風が吹いて涼しさを感じるだけではありません。「薫風」と言われているように、この季節ならではの芳しさを運んでくるのです。
五月の風は、豊かな香りを運んできてくれます。青々とした草木の香り、馥郁とした花の香り、キリッとしまった渓流の水の香り、水気を含んでしっとりとした池の香り、ひんやりと乾いた木陰の香り...香りと言えば、「匂い」ばかりに気を取られがちですが、温度や湿度の違いも風の貌となります。その風がどこからやって来て、その場所がどのような様子であったのかをわたしたちに語りかけてくれるのです。
森羅万象のすべてが生き生きといのちの輝きを謳歌しているかのような新緑の香りが鼻を撲つと、そのとたん、どんよりと澱んでけだるかった身の回りが、一瞬にして、スッと浄められ、新鮮な気力が湧いてくるような勢いに充ち満ちてくるのです。

四季折々の美しさが素晴らしい日本に暮らしていても、「何もしなくても快適な季節」というのは僅かな日数しかありません。それと同じように、傍から見ればどんなに順風満帆に見えるような暮らしをしていても、本当に快適で、安心して満足いく人生を送っている瞬間というのは、人生の中で見れば、ほんの僅かな時間しかありません。
しかし、蒸し暑い初夏の一日、ほんの僅かなそよ風が一吹きするだけで、鬱々とした一日が一変します。そしてそれは、蒸し暑さが解消されてしまうような冷風などではないのです。ほんの、取るに足らない微風。ひょっとすると、吹いていることすら気がつかれないで終わってしまうようなそよ風...
しかし、それに気がつくことができれば、そのそよぎを、まるごと全身で受け止めることができれば、自分の世界は一変します。それは、人工的に、力ずくで、人と自然とをねじ伏せ、蒸し暑いのが当然な初夏の一日に、上に一枚余計に羽織らなくてはならないような冷風を無理矢理吹かせるのとは、根本的に違う事柄です。
蒸し暑い時だからこそ、そよそよと秘やかに、親密に吹いてくるこの微風に心のダイヤルを向けるように、自分の欲望、自分の一方的な願望を叶えようと躍起となるのではなく、そこかしこに私たちを優しく包み込んでいてくれる様々なもの...四季の移ろい、人の思いやり、大地の恵みに、もう一度心を寄せてみてはいかがでしょうか...
力ずくの冷風は、身体の火照りをおさめてくれるかもしれませんが、私たちが自分で見つける微風は、私たちの心にまで爽やかさと、潤いをもたらしてくれるのです。

禅語には、こんな素晴らしい言葉があります。これなどは、「薫風南より來たり、殿閣微涼を生ず」と、好一対です。

微風幽松を吹く、近く聴けば声、いよいよ好し...

「近く」というのは、距離ではありません。人と人とが「近しい」「親しい」と言う場合に近い感覚です。近しい人、親密な人、大事な人のことであれば、ちょっとした仕草、ちょっとした声の調子で、すぐに相手の気持ちがわかります。相手の心の動きが、自分のことのように感じられるのです。
微かな風が、松の木立の間を通り抜けていきます...そよそよそよ...お昼寝の時でしょうか、心地よい風と、心地よい音です。子守歌のように、そよそよそよ...聴くともなしに聴いていると、なんだかひそひそと話しかけてくれているような心持ちがしてきます。「近く聴けば、声、いよいよ良し」...そよそよそよ...
汗ばむような5月の昼時、ふと気がつくと、どこからか草の香りを乗せたそよ風が流れてきます。そよそよそよ...ああ、いい気持ちだ...

写真:工藤 憲二 氏

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