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禅語を味わう...009:南村北村雨一犁 新婦は姑に餉し翁は児に哺す

南村北村(なんそんほくそん)雨一犁(いちり) 

新婦(しんぷ)は姑(こ)に餉(しょう)し翁(おう)は児(じ)に哺(ほ)す...

    (南村北村雨一犁 新婦餉姑翁哺児)


梅雨の真っ盛り、しとしとと長雨の続く昨今でございます。
夏至も過ぎましたので、この長雨が終わり、梅雨が明けると、もうすぐそこまで夏が近づいてきております。
さて、標題の言葉、北宋の詩人黄庭堅(黄山谷)が出典です。
一見したところ難しい言葉が並んでいますが、実は、どこにでもあるのんびりとした風景を詠んだ名句です。

南村北村雨一犁(なんそんほくそん あめいちり)

「犁(り:れい)」というのは「鋤犁(じょれい)」つまり農具の「すき」のことです。
「雨一犁(あめいちり)」というのは、雨が降り、鋤(すき)で一かきするぐらいの深さまで、湿り気が大地に浸透している様子です。

雨が静かに、しとしとと降っています。
村の南も、北も、見わたすかぎりの雨模様。この具合では、忙しい時期ではあるけれども、今日は野良仕事はお休みです。けれども、この雨のおかげで、畑にもしっかりと水がしみこみ、もうすぐやってくる夏の猛暑に備えて、作物たちはぐんぐんと根を張り、力強く育ってきてくれるでしょう。まさしく、恵みの雨です。
しっかりと大地の養分を吸った畑の野菜たちは、お日様が顔を覗かせるのを、今か今かと待ち構えています。

新婦は姑(しゅうとめ)に餉(かれい)し
翁(おきな)は児(じ)に哺(ほ)す

農家では、若いお嫁さんが、おしゅうとめさんのためのご飯の準備に余念がありません。忙しそうに台所で立ち働いています。
その横では、お爺さんが、まだ幼い孫を膝に抱きかかえて、ご飯を食べさせています。
トントントントン...包丁のリズミカルな音。幼児がむずかる音。優しくあやす、お爺さんの声。
かまどでは、ぱちぱちと薪が燃え、わらやねの上に突き出た煙突からは、うっすらと一筋の煙が立ち上っています。
静かな農村の、人の温もりと心地よい賑わしさのある風景です。どこにでもある、ありふれた日常の暮らし。
そしてそこに、天地の恵みは、静かに音もなく降る雨となって、人とその暮らしを優しく包み込んでいます。人間はその恵みの中で、当たり前のことを当たり前にやって生きています。
天地の恵みに感謝し、お父さんお母さんを大切にし、お年寄りをいたわり、幼い子どもを慈し。自分にできることは何でもやり、家族全員が、お互いに心を配り、助け合う。当たり前の、ありふれた世界。どこにでもある暮らし。
しかしながら、これ以上の世界はどこにもありません。
天地の恵みと、人の温もり...私たちが生きていく上で、これ以上のものが、一体あるでしょうか?
何も特別なことができなくても良いのです。当たり前のことが、当たり前にできて、そしてその当たり前のことの尊さに気がつき、感謝の気持ちを忘れない。そんな単純で、誰もができるはずのことができなくなってしまうから、無理をしなくてはならない。
自分の欲望、自分の都合に自分自身が引きずり回されて、人間にとって一番大切なもの、一番尊いものに対して、不感症になってしまっているのです。

禅の修行は、何か特別な技術を身につけたり、深遠な思想を習得するわけではありません。この、「あたりまえ」があたりまえにできなくなってしまった病を治すために、ただ、心に溜まった余計な思いを全部吐き出し、捨てさせる。
一度は心を空っぽにしなければ、天地の恵みにも、家族の有り難さにも、人の温もりの尊さにも気がつくことができません。
余計なものを全部、綺麗さっぱり捨て去ってしまい、身も心も、空っぽにしてしまったとき、あたりまえのことの素晴らしさがわかります。そして、そのあたりまえのことが、自分には十二分に与えられているのだ、ということも...
だから、むしろ自分の方から、「あたりまえ」を「あたりまえにできる」ように働いていかなくてはならないのです。修行とは、最終的にはそういうところに行き着きます。
一生懸命努力して、生きていくための知恵と技量を身につけていく、この「足し算」の「修業」がはじめにあり、身についたものを、何の苦もなく、意識することもなく、あたりまえのように、無心にあるがままに行う、「引き算」の「修行」があります。
「足し算」の「修業」は、確かに多くのものをもたらしてはくれるけれど、いつしか自分が積み上げたものにとらわれ、引き摺り回されるようになる。だから、窮屈にならないように、自分が作り出し、積み上げたものに押し潰されないように、「引き算」の「修行」をする。「あたりまえ」とは、この「足し算」と「引き算」の精妙な調和のうちに成り立つものです。それは「足し算」を学び、「引き算」へと学びを進めること、「修業」から「修行」への脱皮だと言っても良い。
京都、栂尾の明恵上人は、この「あたりまえ」を、

「阿留辺幾夜宇和(あるべきようは)」

と呼びました。人間の行うすべてのことは、この「あるべきようは」の七文字でおさまるのだ、と。
年寄りには年寄りの「あるべきようは」。若者には若者の、子どもには子どもの、お母さんにはお母さんの、お父さんにはお父さんの、「あるべきようは」がある。私たちも、何事においても、「あるべきようは」といきたいものです

写真:工藤 憲二 氏

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