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恵林寺焼き討ち事件...資料から見る(5):『常山紀談』(巻之五)

恵林寺焼き討ち事件、今回も、よく知られている資料を採り上げます。

『常山紀談』は、備前岡山藩主池田氏に仕えた儒学者、湯浅常山によって書かれたものです。原形とも言うべき「自序」は元文四年(1739年)に書かれたものの、師である太宰春台の意見を入れながら改稿を繰返し、完成されたのは明和七年(1770年)とされています。著者の常山は、天明元年(1781年)に七十四歳で逝去していますが、この『常山紀談』の初刊は死後二〇年後だといいます。
本文は全二十五巻に拾遺四巻。『雨夜燈』一巻が付されています。

著者の湯浅常山は、荻生徂徠下の服部南郭に入門、古学派に属し、太宰春台に教えを受けています。常山は雅号で諱は元禎。字は之祥(士祥)、通称は新兵衛。その学風は、徂徠学派の学統を受け継いでおり、実証を重んずるスタイルとされますが、「1つの善言を聞き、1つの善行を見るごとに必ず感極まって泣いた。そしてその見聞きした善行・善言は決して忘れなかった」と言われるように、激しい情熱を持った人であり、文章の雰囲気は説話集・逸話集のような印象を与えるものとなっている。史実としては受け取ることができないものが多いとされていますが、その時代に語られていた内容を今に伝える貴重な資料です。

いつものように、はじめに原文の漢字仮名交じり文を示し、簡単な語注、そして現代語訳を試訳としてつけてみます。


信忠慧林寺を焼かるゝ事

①原文読み下し文

勝頼亡びて後、武田家尊崇しける慧林寺に、前(さきの)将軍義昭公の使大和淡路守・三井寺の上福院・佐々木承禎三人をかくし置きたる聞えありければ、「早く出すべき」と信忠下知せらるゝ事三度に及べども出さず。信忠怒つて「累世の旦越(だんのつ)勝頼をば少しの間も境内に留めず、其の遺骨をだに取り斂(おさ)めずして、詮(せん)なき者をかくしたる」とて津田次郎信治・長谷川与次郎等をして寺を取り巻いて探さるゝに、三人はとく逃げ去りぬ。僧徒皆山門の楼に上りて籠りたるを、其の下に焼草を積みて火をかけたれば、快川を始めとして、坐して合掌して焚死す。その余をめきさけんで焼死にけるは、宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山等児童に至りて八十四人なり。
また禅僧の語り伝へしには、快川、濃州にありし時、信長招待すれども肯(うけが)はず。今川の家に行きて今川家を輔佐したりければ、信長憎まれしに、杭州に往きて慧林寺の住持たり。信玄の死を深くかくしければ、信長愈(いよいよ)怒りて、さまざまに聞かせられしに、快川の方より泄(もら)さゞれば、信長怒りにたえかねられしが、武田の亡びし故遂に焚殺されしとなり。又其の時楼下に槍先を揃へてあまさじとしたりしに、快川弟子の南華に、「法の絶えなん事口惜(くちお)し。とても逃るべきにあらねども、楼より飛びて死に候へ」と云ひしかば、南華飛びたりしに、群(むらが)りたる士卒の鎗ぶすまを作りたる者ども鎗を伏せたりしかば、南華助かる事を得て、後豊後月渓寺(ぶんごげっけいじ)にありといへり。つゞいて飛びたる者十六人ありといへども、其の名伝はらずとかや。


(注)累世の旦越:代々の檀家、檀越。  宝泉寺:正しくは法泉寺。
   杭州:甲州。  
   南華:南化玄興の誤りであるが、当時南化は京都にあり、実は別人
   との取り違え。「豊後の月桂寺にあり」とあるので、この人は山門
   から飛び降り、後に臼杵の月桂寺に住した湖南宗嶽のこと。

  

②現代語試訳

勝頼が亡びて後、武田家が尊崇してきた恵林寺に、前室町将軍足利義昭公の使、大和淡路守・三井寺の上福院・佐々木承禎ら三人を匿われていると密告があったので、「早急に差し出せ」と信忠が三度にわたって命じたものの、差し出すことはなかった。信忠は怒つて「代々の檀那である勝頼を僅かの時間でさえも境内で匿わず、遺骨を取り収めることすらせず、どうでも良い者を匿っている」ということで、津田次郎信治・長谷川与次郎等に命じて寺を取り囲んで探索をしたものの、この三人は既に逃げ去った後であった。
僧侶や修行者たちが皆、山門の楼に上って立て籠るのを、その下に焼草を積んで火をかけたので、快川国師を始めとし、坐して合掌して焚死した。その他に、呻き叫んで焼け死んだのは、法泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山等と、児童に至るまで、全部で八十四人であった...

また、ある禅僧が語り伝えるところによれば、快川国師が濃州におられた時、信長が招待をしてもお受けにならなかった。そして今川家に行って今川家を輔佐したので、信長は憎んでいたのであるが、甲州に往って恵林寺の住職になった。信玄の死を深く秘密にしたので、信長はますます怒って、さまざまな方法で探ったものの、快川国師の方からは秘密を漏らすことがなかったので、信長は怒りを抑えることができず、武田一族が亡びたので、とうとう焼き殺してしまったとのことである。またこの時に、山門の下で逃がすことがないようにと鎗の先を揃えていたものの、快川国師は弟子である南化に、「仏法がこのようなことで絶えてしまうのは残念だ。逃れることはとても無理であろうけれど、山門の楼から決死で飛び降りなさい」と言ったので飛び降りたところ、集まって槍ぶすまを作っていた兵士たちが鎗を伏せたので南化は助かり、後に豊後の月渓寺に住したという。南化に続いて飛び降りた者は十六人いたというけれども、その名は伝わってはいないとのことである...


*『常山紀談』のこの部分で重要なことは、恵林寺焼き討ちの理由として、「大切な檀越である勝頼の遺骨を収めもしないのに、関係のない者(大和淡路守・三井寺の上福院・佐々木承禎ら)を匿っている」とされている点である。ここは、『甲乱記』と記述が真っ向から対立します。
以前に見た、焼き討ち当時の伝聞に比較的遡ることができると思われる資料『甲乱記』では、焼き討ちの理由として三カ条が挙げられ、その第一に、勝頼の遺骨を納めて供養したこと、という内容がありました。以前にも書きましたように、勝頼の最後とその後はわからないことが多いのですが、現時点では、勝頼の遺骨に関しては、この『常山紀談』の記述の方が正確であるかのように思われます。

*恵林寺焼き討ちの死者が、総勢八十四名となっています。

*ある禅僧からの伝聞として、快川国師が信長の招待を受けず、今川家に行き、さらに武田家と信長の意に反する動きをしていたこと。そして信玄の死を秘匿して漏らさなかったこと、このことが信長の怒りをかい、恵林寺の焼き討ちと快川国師以下の僧俗の焼殺に繋がった、という説明がなされています。

*山門から飛び降り、後に大分臼杵の月桂寺開山となった湖南宗嶽と南化玄興を取り違えていますが、快川国師が徒弟に飛び降りるように命じ、それを見て十数名が山門から飛び降りた、と記述されています。これは、ほぼ史実として確定されている事実に符合します。
また、そのさい、兵士たちが鎗を伏せたために生命をとりとめた、と記述がなされています。このあたりの記述は、事実を含んだ内容になっているかと思われます。


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