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禅語を味わう...010:流水寒山の路 深雲古寺の鐘


流水寒山の路 深雲(じんうん)古寺の鐘

      (流水寒山路 深雲古寺鐘)

武田信玄公生誕五〇〇年の記念の年、本年令和3年は、7月の半ばに関東甲信越地方の梅雨明けの宣言が出されました(7月16日)。
時期はほぼ例年通りですが、梅雨入りが若干遅めで、今年は例年よりも期間は短かったといいます。梅雨が明けると、猛暑の夏も本番...
今回は、深山幽谷を歌う禅の名句を味わいます。この句の出典は、もともとは冬にものされたものだとされていますが、清々しい幽境を歌うものであり、初夏のシーズンにも好んで茶席などにも掛けられます。
作者は、ここ恵林寺の住職も務めた絶海中津(ぜっかいちゅうしん)禅師(1334-1405年)です。

渓川の流れにしたがって寒山の山路を歩いて行くと、深い雲に鎖された山のいずこからか、古寺の鐘の音が、微かに聞こえてきます...

読むだけで身も心も清められるような、幽遠で、しかも澄み切った調べの名句です。
作者の蕉堅道人(しょうけんどうにん)絶海中津禅師は、土佐の国高岡郡津野を支配していた豪族津野氏に生を受けています。
後にその詩文の格調の高さから、同じく夢窓門下の神足にして五山文学の双璧と讃えられるようになる空華道人(くうげどうにん)義堂周信(ぎどうしゅうしん)禅師(1325-1388年)も、同じく土佐の高岡郡津野の出身ですから、同郷の先輩後輩にあたります。義堂周信禅師の方が十歳近く年上なのですが、この二人は同門の優れた修業の上での兄弟(ひんでい)として互いに尊敬し合い、生涯の道友として生きました。義堂周信禅師が遷化(せんげ:僧侶の逝去)した時、その葬儀を司り、偈を捧げたのは絶海禅師でした。


絶海禅師は貞和4年/正平3年(1348年)に上洛して天龍寺に入り、最晩年の夢窓国師に入門、国師が遷化するまでその側に仕えたと言われています。その後、応安元年/正平23年(1368年)2月には明に渡り、杭州の中天竺寺に赴いて圓悟下八世、詩文で鳴らした全室(ぜんしつ)季潭宗泐(きたんそうろく)禅師(1318-1380年)に師事します。
絶海の名は、この季潭禅師から授けられています。
絶海禅師はまた、霊隠寺(りんにんじ)にも錫を飛ばし、用貞輔良(ようていほりょう)禅師(1316-1371年)からも教えを受けています。
洪武4年(1371年)、季潭禅師が五山の第一である径山の興聖萬壽禅寺の住持になるにあたっては、招かれて首座を務めています。
洪武9年(1376年)には、一緒に入明を果たした道友の汝霖良佐(じょりんりょうさ)禅師とともに、明の太祖である洪武帝(朱元璋)から謁見を許され、問法に答え、故国日本についての問答の上で漢詩の遣り取りまで行っています。
この時の絶海禅師の応対ぶりは、太祖洪武帝の意に適い、その愛顧を受けて、後に典物までうけて帰国の途につくことになります。
こうして、十年にわたる歳月、異郷の地で修行を重ね、洪武11年(1378年)に日本に帰国。
帰国後は天龍寺の性海霊見(しょうかいれいけん)禅師(1315-1396年)のもとに身を寄せて首座を務め、康暦2年/天授6年(1380年)には、建仁寺にいた義堂周信禅師と再開をはたしています。
そしてこの年、絶海禅師は恵林寺の住持の任につきます。
この時には、その高徳を慕う修行僧が膝下に集まり「英衲(えいのう)鱗(うろこ)と萃(あつ)まりて容(い)るるところなきに至った」、優れた修行僧たちが魚の鱗のようにひしめき合い、道場が人で溢れんばかりであった、と伝えられています。
その後禅師は、京都の等持寺、相国寺、南禅寺に歴住し、室町幕府における禅宗寺院の監督庁である鹿苑僧録(ろくおんそうろく)にも任じられ、時代を代表する禅僧として活躍します。
絶海禅師は、特に足利三代将軍義満の帰依が篤く、時に諫言を行い、その結果として至徳元年/元中元年(1384年)6月には、勘気に触れて摂津、続いて有馬に退隠したりしながらも、義満の思慕の念は篤く、許されて再び呼び出され、その後も縦横の活躍をしました。
応永12年、齢70で示寂。後小松天皇から仏智広照(ぶっちこうしょう)国師、称光天皇から浄印翊聖(じょういんよくしょう)国師と諡(おくりな)されています。

さて、この句の出典となっているもとの詩を作られた絶海中津禅師のことはこれぐらいにして、この句そのものに入りましょう。
この句は、絶海禅師の漢詩集『蕉堅藁(しょうけんこう)』の最初におさめられている作品ですが、もともとは五言律詩で、標題は『真寂竹庵(しんじゃくちくあん)和尚に呈す』です。
既に見たように、絶海禅師は33歳の時に入明を果たしていますが、この詩は洪武6年(1373年)、禅師が38歳の時のものです。
絶海禅師が真寂寺に隠棲しておられた 竹庵清遠懐渭(せいおんかいい)禅師のもとを訪ねたときに、この清遠禅師に対して呈されたものです。

長く仰止(ぎょうし)するに堪えず、
渚上(しょじょう)高踪(こうしょう)に寄す。
流水寒山の路、
深雲古寺の鐘。
香花(こうげ)法會(ほうえ)を嚴(おごそか)にし、
氷雪(ひょうせつ)禪容(ぜんよう)を老いしめん。
重ねて真藥(しんやく)に霑(うるお)うを獲(え)て、
多生(たしょう)此(ここ)に逢うを慶(よろこ)ばん。

まだまだ海を越えて海外に出ることが大変な難事業で、命懸けの危険と隣り合わせだった時代...苦労して明に渡り、かねてから、このお方にはどうしてもお目に掛かりたい、とひたすらに念願していたのでしょう。その思いは、この名詩の全体からひしひしと伝わってきます。
絶海禅師が相見することを請い願っていたこの清遠懐渭禅師は、その文才を持ってならした人です。おそらくはその作品を通じて、はるかに仰ぎ見る思いで敬慕の念を抱いていたのでしょう、優れた詩情をもっていた絶海禅師が面会を心から願ったのも頷けることです。

さて、もとの詩は、「長く仰止(ぎょうし)するに堪えず...」と始まっています。
「長い間、お目に掛かりたいと、こらえにこらえて、ずっと和尚さまのことを仰ぎ見る思いでおりました...」というのです。
そして「渚上(しょじょう)高踪(こうしょう)に寄す...」、船旅の渚の上から、あなたの高邁な境地(高踪)に寄せて詩を差し上げます、と熱烈な言葉が続きます。
ここでの船旅は、時間は経過していますが、おそらくは絶海禅師の入明の航海を指すのでしょう。絶海禅師は入明後、諸方に行脚し、季潭禅師のもとで修業を続けているのですが、かねてからその詩文を通じて優れた境涯を感じ、清遠禅師に対しても私淑の念を抱いていたものと思われます。
広大な中国の国土を考えるならば、いくら訪問の志を立てたとしても簡単にはいきません。入明以後も、いつか必ずお目に掛かろうと念じていたことと思われます。長い間の念願であった禅師への相見がいよいよかなう、という溢れんばかりの喜びが、この冒頭に満ち満ちています。
ですから、今回の禅語、「流水寒山の路 深雲古寺の鐘」というのは、まさにもう少しで念願がかなう...という、長く遠い旅路の、その行脚の道行きの到達点を目前にして発せられた言葉なのです。
清らかで幽邃(ゆうすい)な境地を詠いながら、その言葉の後ろに溢れる激しいパッションを抜きには、この句は語ることができないのです。

人里を遠く離れた深山の奥には、まさしく風狂孤高の『寒山詩』の世界そのものの、清浄幽邃の山路が続きます。そこには、澄み切った渓川がさらさらと音をたてて流れているのです。
そして仰ぎ見る寒山は真っ白な雲に覆われ、その姿を容易には現してはくれません。
ただ、雲に覆われた山のいずこからか、お寺の鐘の音が静かに響いてくるのです...
そこには相逢うことをこころから願っていた、あの清遠懐渭禅師がおられ、「香花法会を厳にし、氷雪禅容を老いしめん」、常に絶やすことなく香を焚き、仏華を荘厳して厳格如法に法会を執り行い、氷雪に曝される厳しい山中の修行に研ぎ澄まされた姿で待っておられるのです。

「寒山の路」は、清遠懐渭禅師のおられる真寂寺への、単なる旅行の道なのではありません。何千里もの距離を超え、遙か異境の地を通り過ぎ、生命の危険に曝されながら苦労して歩んできたこの路は、命懸けの「修業の道」そのもの、一生をかけての人生の道行きなのです。こう言ったら、大袈裟に過ぎるでしょうか?

わたしたちは人生において数え切れないほどの旅を経験します。
そして、旅にはさまざまな姿がある...
未知の場所に赴き、未知の経験をし、新たな人生の扉を開く準備をする旅...
疲れを癒やし、孤独に身も心も委ねて、自らの内面に降りていく内省の旅...
ウキウキと楽しい物見遊山の観光の旅...
使命を担い、目的を持って目指す仕事の旅...
祈りを捧げながら身と心を浄める、巡礼の旅...
旅はわたしたちの居場所を移すことではあるけれど、身体が移っても、こころはどうか。
旅を通じた気付きがあり、わたしたちのこころそのものに変貌がなければ、ただ目の前を景色が移りゆくだけのことになります。それをほんとうに旅と喚ぶことができるかどうか...目の前のスクリーンを映像が通り過ぎていくのとどれほど違うというのでしょうか。
Googleマップを調べ、旅先の名所情報をネットや雑誌で調べ、旅先に着くと写真で見たのと同じ景色が広がるのを見て、自分は確かにこの名所に来たのだ、と安心して、Instagramに写真をアップして去って行く...
どこまでいっても、見ているものはネットや雑誌から得られたイメージを心の中で確認しているばかり、そこにはほんとうの出会いは起きていません。ただ、意識の表面を映像が流れていくだけなのです。だから、どれほど旅をしても、自分自身は変わらない。情報化社会の巨大な情報空間のただ中で、脳の中を情報が流れて行くだけなのです。
自分の人生が変わってしまうような、ほんとうの出会いを求めて、自分の足で歩く。
未知のものを目指して、歩く。
不安にさらされながら、知らない世界の危険を冒して、歩く。
このような旅においては、旅と人生は一つのことです。
禅の修行僧のことを「雲水」と呼び、「行く雲の如く、流れる水の如く」行脚の旅に生きるから、そう呼ぶのだといいます。
人生の師に出会い、自分自身を変えるために、旅の空に生きる。それは、ほんとうの出会いを求め、自分を変えるための旅にある者を呼ぶ名前です。ただ、空間を移動し続ける姿を指すのではありません。
そして、この寒山の路がそこへと続いていく、深い深い雲の彼方...
わたしたちが一生かけてそこを目指していくその行き先、まだ見ぬ目的地、そこは真寂寺でもなければ、この地上のどこかにある特定の場所ではないのです。仏道を生きると誓った僧侶たちは、そこを「悟り」と呼び、禅僧たちは「本分の家郷」と呼ぶのです。

さて、一篇の名画を見るような、とても素晴らしい名句ですが、「禅語」としてこの句に向き合うときには、作者も、登場人物も、この句の出典も、背景も、経緯も、すべてをいったんは捨て去って、真っ向端的に向かわなくてはなりません。
真っ向端的にこの句に向かう?
例えば、禅の世界では、こんな風に問いかけられるかもしれません。

寒山の路は、どこにあるか?

ここで、こう答える人がいるかも知れません、
これは、絶海中津禅師が明に渡り、真寂寺の竹庵和尚を訪ねるときの途中の山道で、その景色が幽遠清浄だったので、『寒山詩』になぞらえて「寒山の路」と表現したのです...
こうした答えは、もちろん間違いではありませんが、禅語としては、やはり完全な的外れです。
「寒山の路」は修業の道です。それは絶海禅師に限らず、わたしたち誰もが、自分の足で歩んでいかなくてはならないものなのですから。
足の速い人、遅い人、真っ直ぐ目的に向かってまっしぐらに進む人、迷いながら、つまずきながら、回り道を重ねて進む人...
人の数だけ、歩き方があり、歩き方が違うその数だけ、また違った人生、違った修業の風景があるのです。そこには、優劣はありません。ただ、自分の足で歩いたかどうか、最後まで全力で歩ききったかどうか、それだけしかないのです。そして、ちゃんと自分で自分の人生を、自分の一生かけての修業を歩き通したかどうか、それを判断するのも、自分自身なのです。
自分の人生、ギリギリのところにきたら、他人が褒めようが、貶そうが、そんなものは人生の奥底には届きはしないのです。
ただ、自分自身は、ちゃんとわかっている...厳しくも、おそろしい世界なのです。
長い人生の中では、誰にも苦しみ、迷いはあるのです。自分の取った道筋が本当によかったのかどうか、それすらわからないこともたくさんあるのです。その「わからない」ことも含めて、ひたすら歩く。立ち止まったり、逃げ出したりも、ある。
しかし、自分でそれに気が付いたならば、やっぱり気を取り直してもとの路に戻り、ひたすら歩く。わたしたちにできることは、ただ、それだけしかないのです。
しかし、「それだけしかない」というのは、決して情けないことでも、無力なことでもないのです。こうした所を通り抜けていって初めて、深い雲の彼方から静かな鐘の音が聞こえてくるのですから...
修業にも、人生にも、近道はないのです。

禅の世界には、こんな物語が伝わっています(『景徳伝燈録』一八)。
或る修行僧が、玄沙師備禅師(835-908年)に尋ねます。

わたしは道場に入りたての新参者です。
どうか修業の道への入り口(入路)をお示しください。
玄沙禅師は尋ねます。
お前さんは、渓川の水の音(溪水聲)が聞こえるかな?
修行僧は答えます。
はい、聞こえます。
玄沙禅師は言います。
そこが、お前さんの入り口(入処)だ...

さて、先ほどの問い、

寒山の路は、どこにある?

この問いに対して、真っ向端的に答えようとするならば、「それは、ここにある。この路、わたしの路が、寒山の路だ、それ以外にはない」となるはずです。
しかし、こう真っ向端的に答えることができるためには、わたしたち自身が、本当に自分の足で、自分の寒山の路、自分の修業の道を歩き始めていなくてはなりません。それができないうちは、なにを言っても所詮は人ごとになってしまうのです。人ごとである限りは、流水も、寒山の路も、白雲に鎖された山の嶺も、古寺の鐘の音も、やっぱり遙か彼方なのです。
寒山の路を歩むことは、容易ではありません。
わたしたちの日常の暮らしは、清らかな渓川の流れとは似ても似つかぬものばかりです。しかし、悩んだり、迷ったり、苦しんだりしながらでも、自分の足で歩いているかぎり、それは必ず「寒山の路」に続いています。
わたしたちが、自分の歩みを諦めないかぎり...しっかりと顔を上げて、いまはまだ姿は見えないけれども、必ずこの路の先にあるはずの寒山を信じて、仰ぎ見、そこに向かって進んでいこうという心を無くさないかぎり、それは「寒山への路」であり続けるのです。
まだじっさいには会ったこともなかった清遠懐渭禅師のことを、「お目に掛かりたいと、こらえにこらえて仰ぎ見ておりました(長く仰止するに堪えず)...」と記す絶海禅師は、この「寒山の路」をしっかりと心の中に抱き続けた人です。
だから、念願かなって清遠懐渭禅師に相見したときの喜びを、「重ねて真薬に霑うことを獲て、多生 此の逢を慶ぶ」霊薬の力に与って何度も転生を繰り返し、何度も何度も生まれ変わり死に変わりしたその果てに、このお方とこうしてお会いできることの、何と嬉しいことよ」と言い表すのです。強く強く熱烈に求め続けたからこそ、得ることができたのです。
わたしたちも、心の奥底に高い志をもって、心折れることなく毎日の生活に取り組んでいきたいものです。


写真:工藤 憲二 氏


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