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禅語を味わう...013:秋沈萬水家々月

秋は萬水に沈む家々の月
(あきは ばんすいに しずむ かかのつき)

はや十月も終わりにさしかかり、暦の上では、七十二候でいう霜降(そうこう)の初候「霜はじめて降る(霜始降)」と呼ばれる季節となりました。
季節は晩秋です。

今回の禅語は「秋は萬水(ばんすい)に沈む家々の月」です。
この語は禅語としては比較的よく知られているものです。もとの対句は、このようなものです。

春は千林に入る處々の花
秋は萬水に沈む家々の月

春は千林に入る處々の花...
春の到来とともに、山という山、林という林の中の花々が、一斉に色とりどりの花を咲かせます。「千林」というのですから、至る所、数えることができないほど沢山の木々が花を付け、美しさを競いあう様子、春の真っ盛りの景色です。

そして、「秋は萬水に沈む家々の月」...
月の美しい秋の夕べ、皎皎と白く輝く満月の光が、漆黒の闇の中に、家々の屋根をくっきりと浮かび上がらせています。
この静まりかえった夜中に、「萬水」、あらゆるところの水...川や湖、池はもちろんですが、家々の井戸、盥(たらい)、手水(ちょうず)、手桶、水溜まり...どのようなところにも月は宿ります。
月は、宿る相手を選びません。大きな湖にも、手桶の底に残った僅かの水にも、同じように宿り、同じように輝きます。
清らかな清流にも、泥の水溜まりにも、バケツの中にも、あるいは、おしゃれなバルコニーで酌み交わされる乾杯のグラスの中にも、変わることなく静かで澄んだ姿を映すのです。

「家々の月」ですから、どの家にも等しく月はやって来る。太郎さんの家には、太郎さんちの月が、次郎さんの家には次郎さんちの月が...
自分の家の手桶の水に映る真っ白なお月様...もちろん、手桶の水に映っているのは、夜空に輝く本物の月の写しでしかありません。そんなことは誰もが知っていることです。しかし、水面に映る美しい夜の月を見て、それを偽物だ...などと思う人はいません。
月の光には、どこか私たちの心を打つ清らかさがあります。観ているだけで心が清められ、ざわついた心が不思議と静められていくような力があるのです。
だから、ちっぽけな水たまりに映った光でも、その中に本物の清らかさ、うそ偽りのない本物の月の光を感じさせるのでしょう。
ですから、禅の世界でもお月様は「真如法身(しんにょほっしん)」つまり「悟りの世界」の姿、迷いや執着によって覆われ、歪められることのない「ありのまま」の姿、事物の本当の姿をあらわす言葉として用いられるのです。

そして、もう一つ見逃してはならないことは、この月の光が「萬水に沈む」と言われているところです。
月の光が水面に「映る」のではなく、水底に「沈む」のです。
清らかな月の光に触れるとき、私たちは自然に自分の心の中を見つめます。月の光には、私たちを自分の内面に向かわせ、内省的にする力があるようです。
「ルナティック(lunatic:狂気の)」という言葉がありますが、ヨーロッパでは、月の光のもつ精神的な作用は「狂気」と結びつけられました。
「月に憑かれたピエロ」というテーマは、絵画や音楽などでもお馴染みですが、青白い月の光に触発されて、いつしか狂気の世界へと引き摺り込まれる...そんなイメージでしょうか。
もちろん、そこまで行かなくても、秋の月を見つめながら物思いに耽る...そんな経験は誰にでもあるはずです。そんなとき私たちは、月を見ていながら、実は自分自身の心の中を覗き込んでいるのでしょう。月の光が水の底に静かに沈んでいくように...

大乗仏教では、私たちめいめい、全員の心の中に「仏心・仏性(仏の心・仏の性質)」が宿っていると教えます。
だらしがなかったり、情けなかったり、欲望や執着につきまとわれたり...
欠点だらけの私たちであっても、生まれつきもっている心は、お釈迦様や達磨さんと少しも変わらないのだ、と。
私たちは誰もが、本来そうした清らかな心を備えもっているのだ、と。
そうであれば、清らかな月の光を見つめるとき、私たちの心の底に眠っている「仏心」が目覚めるのだということが言えるかもしれません。
日常の雑事に取り紛れて、清らかさとはほど遠い、雑然とした状態になってしまっている私たちですが、それでも、心の底の底では、決して穢されることのない、天然自然の清らかな心がちゃんと生きていて、こちらを見なさい、こちらに気が付きなさい、あなたの心は本当はこうしたものなのですよ、と呼びかけているからなのだ...と。
そうしてみるならば、「家々の月」という言葉も、またもう一歩踏み込んで受け止めるべきものであるとわかります。
「家々の月」とは、私たち全員が本来備えている清らかな心「仏心・仏性」、めいめいの心の奥底にある本来の心のことにほかなりません。
そしてそれは、自分自身の心ですから、決して外から来るものではないのです。それぞれの家にある井戸の水であり、自分の家の井戸から自分の手で汲みだしてきた自分自身の水なのです。
そもそも、自分の手で水を汲みだしてこなければ、月など宿ることはないのですから...
私たちにとって大切なことは、まず何よりも自分の手で自分自身の水を汲み出してくること...そうすれば、必ずそこに月は宿るのです。

どこか遠くにある光が私の心に差し込んできて、私の心を照らす...最初の切っ掛けはそうかもしれません。しかし、光り輝く水底の月は、私自身の心の底が自分の中から輝いているのでなくてはなりません。
そのために、自分の手で水を汲み出す。
月が宿ってくれることを求めて、非力でも水を汲む。
両手で掬うだけの小さな一杯の水でも、泥混じりの水、綺麗とは言えない水でも良いのです。自分の手で汲み出して来て、それをちゃんと自分のものにしたならば、そこに宿る月は、いつしか必ず清らかに輝くのですから...

「秋は萬水に沈む家々の月」...月は水を選びません。どんな水であっても、必ず本物の光を放つ。そして、本物の光を放つからこそ、小さな水の中の小さな月も、やはり一つだけの本物の月なのです。
秋の美しい月を眺めながら、改めて自分自身の心の月を見つめてみたいものです。

写真:工藤 憲二 氏

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