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武田不動尊...歴史資料から見る(2):『甲陽軍鑑』品第八

恵林寺の寺宝、『武田不動三尊像』については、有名なものではありながら、これまでは、製作年代、作者、製作の経緯など、わからないことが沢山ありました。
これはひとえに、この不動尊像が「武田信玄公のお姿を仏師が対面で写し取った等身大の像」であり、「信玄公が自らの髪を焼いて顔料に混ぜ、自らの手でこの像に塗り込んだ」、という伝承により、恵林寺における別格の寺宝であり、秘仏として大切に扱われてきたという経緯によります。

この度、令和3年2月15日、山梨県立博物館での特別展『生誕500年記念 武田信玄の生涯展』出品のための調査修復の過程において、像内に墨書された銘文から製作年と作者が判明し、さまざまな議論に対しての取り敢えずの決着はつきました。
以後は、はっきりとわかった製作年月と作者を手掛かりに、この像がどのような経緯によって製作され、製作後はどのような扱いを受けていたのか、ということの研究を重ねていくことによって、未だ謎の多いこの時代に、さまざまな方向からの光が当たっていくことになるかと思われます。

さて、この「武田不動尊像」については、前回、明治期に「国宝認定」のために提出された文書を検討しましたが、今回は時代を遡り、歴史的な文献として名高い『甲陽軍鑑』を採り上げることとします。
『甲陽軍鑑』については、その史実的な精確さについてなどさまざまな議論がありますが、注意深く読み込んで行く必要はあるにしても、第一級の史料であることは間違いありません。
「武田不動尊」の成立をめぐる事情についても、『甲陽軍鑑』は多くの示唆を与えてくれます。

ここでも、まず初めに漢字仮名交じり文(一部漢文)の原文を読みやすく整えながらの読み下し文を作り、簡単な語注を付し、最後に現代語訳を試みました。

『甲陽軍鑑』品第八


①読み下し文

其の午(うま)の歳六月、信玄公思(おぼ)し召し立ち、広さ一間に少し小さく鏡を鋳させ、御影(ごえい)を木像にあらわし、見くらべて御本躰にちがわぬように作らせ、御ぐしの毛を焼いて御髪(おぐし)を彩色給えば、座像の不動明王に毛頭違わせ給わず。各(おのおの)にとわせ給えば、摠(そう)じて御法躰(ごほったい)ましましてより、不動の尊躰に少しもたがわせ給わずと申せば、「此こに於いて」信玄公宣(のたま)わく、我四方の国々を押掠(おうりょう)して、竪横へ東道五十里・六十里宛(ずつ)とりつめざるはなし。此の比(ごろ)日本において弓取多しといえども、北条氏康・上杉輝虎・織田信長・徳川家康此の四人に超えたる弓取無し。此の人々の居城(いしろ)近く、某(それがし)働き乗りつめ取るといえども、我が持ち分の城を一ッ責められたる事、今日までは之れ無し...(中略)
此の外我れ十六歳より当年まで三十五年の間、近国他国へ威をふるい、今五十歳までに御旗・楯無しも照覧あれ、郡(こおり)のことは申すに及ばず、我が持ち分の屋敷を一どとしてとられたる事を覚えず。況(いわ)んや甲州へ一日二日路(じ)の間へ来たらんと思う人、異国の事は知らず、吾が朝には覚えず。此(かく)の如く仕つめ候間、明日にも我死したらば、諸国の敵安堵して我が持ち分を責めば、数年に分国を取り尽くされ、終に此の国へ乱入、彼のにくき信玄が像なりとて、手足を打ちもがれても詮なし。幸い不動明王に似奉るこそ自然の仕合なれ、火烟を出して剣を持せ、左には縛(ばく)の縄(なわ)尤(もっとも)なりとて、不動の尊躰に御影をなされおき給うは、定めて不動ならば、人もあしう仕まじきとの義ならん...

(注)其の午の歳:元亀元年(1570年)。
   御法躰:仏法を執り行う身体、法の体を担う僧侶の身体、僧形。
   御旗・楯無し:武田家先祖伝来の「日の丸の旗」と「楯無しの鎧」。

②現代語訳

その年、元亀元年(1570年)の6月、信玄公は思い立って広さ一間(約180センチ)四方より少し小さい鏡を鋳させて、自身のお姿を木像に表し、見くらべても本人と違わないほどに造らせ、自身の髪の毛を焼いて木像の髪を彩色されると、座像の不動明王とまったく異ならない様子であった。一人一人に聞いてみても、僧形でありますから不動明王の御姿と少しも違いませんと誰もがお答えしました。
ここで信玄公が仰るには、われらは四方の国々に攻め込んで、東西南北と東国道を50里、60里(1里はおよそ550~650メートル)と、ことごとく占領したのである。この頃日本において、侍大将は大勢いるとはいっても、北条氏康・上杉輝虎・織田信長・徳川家康、この四人を超えるような武将はいない。こうした者たちの居城の近くまで乗り込んでいって攻め取ることはあっても、われらが持っている城を一つとして攻め取られることは、今日まで無いのだ...
この他にもわたしは、16歳から今までの35年の間、近国、他国へと威力を揮い、五十歳となった今、武田家伝来の御旗と楯無しの鎧にかけても御照覧いただこう、支配する地域のことは言うに及ばず、われらが持つ屋敷ですら、一度として取られた覚えがないのだ。ましてや、この甲州へ1、2日の旅程でやって来られると思うようなところの人であれば、他所の国ならいざ知らず、われらの支配下ではこのようなことは起きてはいない。
このようにやり通してきたことだが、明日にでもわたしが死んだならば、諸国の敵はみな安堵してわれらが領土を攻めて来るであろうから、数年のうちに支配している領国を取り尽くされ、最後にはこの甲斐国に乱入され、あの憎き信玄の像だと打ち壊して手足をもがれてしまっても仕方がない。幸いなことに、わたしが不動明王のお姿に似ているということこそが自然のめぐり合わせであろう、火焔を出して右手には剣を持たせ、左手には縛(ばく)の縄(なわ)を持たせるのが相応しい、と不動明王の尊い形に自身のお姿をお造りになったのは、不動尊の姿であれば、きっと人も酷い扱いをしないであろうという意図でありましょう...


*この『甲陽軍鑑』における記述で目立つことは、まず「武田不動尊像」の製作が元亀元年(1570年)とされていることです。これは、この度の調査により、この像の製作が明確に元亀3年(1573年)であることが判明しましたので、それほど大きな時間的なズレはないにしても、精確ではないということになります。

*次に、はるかに重要なことは、「御ぐしの毛を焼いて御髪を彩色給えば」とあるように、信玄公が自身の毛を焼いて塗り込んだのは、寺伝に言われるような「胸部」ではなく、頭部の髪の毛の部分である、という点です。

*そしてもう一つ重要なことは、この像を造るときに信玄公は、はじめに「一間四方」つまり畳二畳ほど広さの大きな鏡を鋳造させ、それに自らの姿を写し、そこから自身の木像を造らせている、というところです。
このような巨大な鏡を鋳造し、「見くらべても本体に違わぬほど」姿が綺麗に写るように磨き上げる、ということは現実的には難しいことだと思われます。鋳物ですから重量も相当なものとなり、歪みなく平らに仕上げることはほぼ不可能ですし、そのうえで金属の巨大な板に顔が綺麗に写る程度まで細かく磨き上げていくというのです。
しかもその上で、そこに写る自身の姿を木像にあらわすというのは、仏師が信玄公の姿を直接写すのではなく、鏡に映る姿を見ながら木像に彫ったということになりますが、寺伝にもあるように、直接仏師を対面に坐らせて姿を彫らせるというのではなく、なぜわざわざ鏡を造らせるようなことをしたのか...このあたりは、どう考えても現実的とは思えません。
むしろ、鏡というのは神的・呪術的な意味を持つものであり、信玄公の姿を肉眼ではなく鏡の霊力を通して映し出すならば、そこにこの世のものならぬ聖なる本体としての不動明王が映し出された、ということ、つまり、生身の信玄公が神的な存在である不動明王と特別な関係にある、ということを強調するための説明であると思われます。
そう解釈するならば、「武田不動尊像」とは、信玄公の神的な本体を可視化した特別な存在だということになってきます。このことが、この尊像の価値を高め、特別なものとしての意味を付与してきたのではないかと推測されます。

*この『甲陽軍鑑』の記述では、不動尊像の製作者についての言及はありません。寺伝に言われるように、京都から仏師を呼んで、陣中で作らせた、といったことも書かれてはいません。これは、今も推測したように、『甲陽軍鑑』が信玄公の存在に神的な意味づけを与えようとしていることによるとも考えられます。つまり人間ならぬ神的な鏡を通して信玄公の本体が不動明王である、と言いたいのではないか、ということです。

*前回ご紹介した笛川老師の『無孔篴』にあった寺伝には、信玄公が自分の姿は不動明王に似ている、と言ったとされていました。この『甲陽軍鑑』でも、信玄公と不動明王は姿がそっくりだ、とされています。これは、信玄公の存在の神格化という側面はあるにせよ、じっさいに信玄公の風貌、佇まいが不動明王を想像させるものであったと考えることも可能です。

*最後に、この『甲陽軍鑑』では、信玄公が自身の没後に甲斐国は周囲の敵によってしまう可能性に言及しています。そしてその時、信玄公の生身の姿であればその木像は手荒な扱いを受けるであろうけれども、不動明王の姿であれば、そこまでのことはされないであろう、ということが述べられています。

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