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禅語を味わう...012:吾が心秋月に似たり


吾心似秋月

(わがこころ しゅうげつににたり)


はや、9月も終わりになりました。
恵林寺でも、桜を始め、木の葉の色づきが目を惹くこの頃となりました。
今回の禅語は、名詩揃いの『寒山詩』の中でも、屈指の名句。禅の世界ではとても有名なものの一つです。
はじめに、もとの漢詩全体を見てみましょう。

吾心似秋月
碧潭清皎潔
無物堪比倫
教我如何説

吾が心 秋月に似たり
碧潭(へきたん)清うして皎潔
物の比倫(ひりん)に堪えたるは無し
我をして如何(いかん)が説かしめん

『寒山詩』の作者とされている寒山(かんざん)、拾得(じっとく)は、それぞれ襤褸(ぼろ)を纏(まと)い、巻物と箒を手にした姿でよく知られていますが、師であるとされる、虎を引き連れた豊干禅師(ぶかんぜんじ)とともに、天台山国清寺にあり、文殊・普賢の化身と慕われながら、正確な伝記も詳らかではなく、その風狂の生きざまは、多くの伝説を残しています。厳密に言うならば、『寒山詩』の作者は誰なのか、はっきりとしたことは言うことができません。その、『寒山詩』の詩人は、何の躊躇いもなく、真っ直ぐに歌い始めます...

吾が心 秋月に似たり...

自分自身に向き合い、心の奥底に見入るとき、その凛として澄み切った清らかさは、まるで秋の月のようだ...
これは、俗塵をはるかに離れた深山幽谷にあって、凄絶な枯高の道に生きる、その暮らしの中から溢れでるような珠玉の言葉です...

この詩が私たちのこころを惹きつけるのは、率直で単純な力強さです。
何の躊躇いもなく、自身の心を澄み切った秋の月のようだ、と歌う、そこには驕りも衒いもありません。誰かに向かって表現をしようという意欲さえもありません。心の有り様を秋の月に喩えるという比喩的な表現さえも、技巧や作為を感じさせるものではなく、素直に心の奥底から溢れ出る言葉の響きを伴って歌い出されています。

そもそも『寒山詩』は、木や竹や壁などに書かれていたとされ、それぞれの詩には表題もなく、内容も雑然としたもので、寒山のものとされる詩の他、拾得、豊干禅師、そして名も知れぬ修行者たちの詩が集められたものであろうと推測されているのです。
つまり、『寒山詩』は、今日のような意味での「作品性」が完全に欠落しているものなのです。これと近しいものを敢えて日本で捜すならば、「妙好人」と呼ばれる市井の念仏者たちの残した歌たちが、それに近いものだと言うべきでしょうか。
いずれにしても、この詩では、詩人の心は真っ直ぐ素直に自分自身の心に向かっていき、その心の有り様を歌います。それは、ある意味においては自分自身と向き合う内省的な歌であると言うことができるでしょう。
しかしながら、この詩には、自分自身の心に向き合ってはいながら、その正体を捉え、その内奥を穿ち掘り下げていこうという意志はありません。というよりも、そうした試みがすべて破綻し、徒労に終わるということを既に詩人は知っているのです。

物の比倫に堪えたるは無し
我をして如何が説かしめん

物に喩えようにも喩えようがない
どうしたら説明すことができるというのであろう...

この詩の転結二句では、心の有り様をとらえようにもとらえることができず、何か類似のものを持ち出してきて喩えようにも、喩える術もない...言葉を用いて説くことも出来ない、と歌っています。
つまりこの詩では、自らの心の有り様を「秋の月のように澄み切っている」、と歌い出す冒頭の卓越した比喩は、転結の二句によって、直ちに比喩としての力を奪われてしまっているのです。
己の心の有り様は、言葉によって表現することが出来ない...澄み切った秋の月のようだなどという譬喩では到底言い表せないというのであるならば、なぜ、詩人は敢えて「吾が心秋月に似たり...」と歌うのか。

『寒山詩』の詩人は、心の有り様を「表現」しようとしているのではないのです。詩人がしようとしているのは、「表現」を通じて誰かに理解を求め、思うところを共用しようというのでもなく、言葉に映しだすことによって、自分自身に対して明らかにしようというのでもありません。詩人は、物に喩えることなど出来ない、といいながら、

碧潭 清うして皎潔

もはや喩えではなく、心が心として動くそのありのままを言葉に載せています。冒頭の一句は「似たり」と、言葉と心との連関を残していますが、この二句目は違います。澄み切った心の赴くままに、清らかで、しかも深みをたたえた目の前の碧潭を見遣るのです。この見遣ること、見えるものがそのまま心の有り様にほかなりません。ここでは、心を何かに喩えて表現する必用はないのです。詩人は、言葉を絶したものとしての、己の心の有り様を疑うことなくわがものにしているのです。
詩の中で自分が紡ぎ出す言葉が、心のあり方に的中していなくとも構わない。言葉と言葉によって示されるものとが忠実な対応関係になくとも構わない。なぜならば、己の心はどのようなものであるのか、詩人は既に知っていて、敢えて「知っている」という必用もないほどわがものとしているからです。詩人は、心の赴くままに、澄み切った秋の月を見上げ、その月の輝きを曇りなく映し出す眼前の水面に目を遣るのです。そして、興の赴くままに、その胸の裡から言葉が溢れてくるのです。

ここで、お前の心はどこにある、お前の心とは、どのようなものなのだ?
そう訊かれたならば、詩人は黙って月を眺め、水の上に視線を走らせることでしょう。そして、おお、今宵は一段と月が冴えておるワィ...と踵を返して粗末な庵の中に姿を消すことでしょう。
要するに、言葉に込められた「表現」を通じてその意図に迫る道も、自分自身の心を振り返り、見つめることによってその有り様をとらえようとする道も、『寒山詩』においては共に断ち切られているのです。私たちは詩人と共に、「吾が心秋月に似たり...」と歌い出すことが出来ない限り、『寒山詩』の世界に迫ることは出来ないのです。

禅の世界では、「月」は「真如法身」の象徴として用いられます。それは「悟りの心」であり「仏心・仏性」だと言い換えても良い。ですから、この詩は、己の心に向き合い、心の中に輝く「善きもの」を力強く歌いあげる詩だと言うことができるでしょう。
寒山詩の詩人は、自らの心を見遣る時、そこに一点の曇りも濁りも感じていません。

それでは、わたしたちは、どうか...

自分自身と向き合い、自分の心の奥底を覗き込むとき、そこに浮かび上がってくるものは、何か...それは、醜く歪んだおのれの姿ではないのか。わたしたちの心の奥底には、欲望や執着が、どす黒く蟠ってはいないか。
自分のことを自分であると意識する「自己意識」を、わたしたちの「自分自身」の基本的なあり方だと見なす、近代的な自我の考え方からすれば、わたしたちの心の奥底は、本質的に得体の知れない、不気味な存在に満ちたものに映ります。目を凝らして自分の心を見つめるならば、そこに横たわっているのは、欲望、執着、不安、絶望、狂気...
しかし、『寒山詩』はそうではありません。

碧潭 清うして皎潔

『寒山詩』は、わたしたちの心を「碧潭」、碧の水を深く湛える湖に喩えています。この碧に見える湖の水面を覗き込むならば、その湖底は、あくまでも清らかに澄んでいるのです。そして、その清らかに澄み切った湖の底を、秋の月のように皎皎と冴え渡る「吾が心」が、白く照り輝かせているのです。
心とは、本来はそうしたものなのだ。わたしたちの心の本当のあり方は、本来は、一点の曇りもなく澄みきったものなのだ。その透き通った有り様は、実は、秋の名月の比ではない。はるかに素晴らしいものなのだ。『寒山詩』は、そう高らかに歌うのです。

物の比倫に堪えたるは無し
我をして如何が説かしめん

わたしたちめいめいの心の本当の姿を、この世界の、どのような素晴らしいものに喩えようとしても、とても喩えることなどできない。それは比較を絶したものなのだ。
ああ、そのありさまを、何と言葉にすれば良いのだろうか。それは言葉にすらできないのだ...
これこそが『寒山詩』の、そして禅の根本的な考え方なのです。


                    写真:工藤 憲二 氏

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