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禅語を味わう...005:澗水松風悉く説法

     澗水松風悉く説法

      澗水松風悉説法
(かんすいしょうふう ことごとく せっぽう)


はや、四月も終わりとなりました。
咲き競うような春の花も一段落。景色は一面、華やぎを抑えて、しっとりと柔らかい新緑の装いです。さて、今回の禅語です。

澗水松風悉く説法

「澗水」は、渓川を流れる水のせせらぎのこと。
「松風」は、松の枝を吹き抜ける風のことです。
この禅語は、こうした渓川のせせらぎ、松をわたる風が、そのままお説法...私たちに教えを説いてくれる法話なのだ、というのです。

私たちに生きるための知恵、いのちをまっとうするための指針を与えてくれるのは、何も釈尊や達磨さんのような人ばかりではありません。
私たち自身の側に、ちゃんとした準備さえあれば、大切なことを教えてくれるものは身の回りにいくらでもあるのです。
優れた人がいくら懇切に教えを説いてくれても、それを受け入れる側に、素直さと謙虚さ、知識や決意、覚悟といった準備ができていなければ、たとえどれほど素晴らしい教えであっても、やはり耳に入ることはできません。
反対に、日頃の努力と心がけが稔り、自分自身の中に機が熟し、教えを受け入れることができるだけの準備が整っていれば、きっかけとなるものは、いくらでもあるのです。

唐の霊雲志勤(れいうんしごん)禅師は、三十年の長きにわたって一心に坐禅修行を続け、それでも悟りを得ることができませんでした。
或る時、行脚に出掛け、遙かに人里を望見したといいます。
季節は春...桃の花が今を盛りと咲き競っています。
咲き誇る桃の花を見て、「忽然として悟道す」、突如としてそれまでの疑問や不安がいっぺんに消え去り、禅の奥義に導かれたといいます。
そして、この喜びを、偈を作って師である潙山霊祐(いさんれいゆう)禅師に示します、

三十年来剣客を尋ね、幾回か葉落ち又枝を抽く、
桃華を一見してより後、直に如今(いま)に至るまで更に疑がわじ...

潙山禅師は、「縁より入る者は、永く退失(たいしつ)せじ。汝、善く護持すべし...」と答えたといいます。
機縁にふれて悟りの世界に入った者は、その境地を失うことがない。お前さん、その境地を油断することなく大切に護りなされ...と、悟りに至ったことを認め、その後のさらなる修行を励ましたというのです。

この問答は、「霊雲見桃(れいうんけんとう)」の物語として禅の世界ではよく知られています。
峡東に住む者として、この物語は、わたしには特別な思いを抱かせてくれます。
春になると、この峡東地方は一面の桃の花...
山から見下ろすと、盆地の一帯は桃色一色に染まり「桃源郷」と呼ぶに相応しい景色となります。
長い年月にわたる血の滲むような修行の果てに、それでも悟りを開くことができなかった一人の修行僧が、ふと里の桃の花を見て悟りを開く...
「三十年来剣客を尋ね...」と霊雲禅師は歌っています。
三十年の間、命懸けの修行を重ね、諸方の老師方に剣を呈示するように真剣勝負を繰返し、それでも目的を果たすことができない...何度も秋を迎え、木の葉が落ちるのを虚しく眺め、春になって枝が伸びていくのを、指を咥えながら無念の思いでただ見つめる。
何もできないまま、ただ時ばかりが無慈悲に過ぎ去っていく、その口惜しい思いが、「桃花を一目見てから、直に今に至るまで更に疑わじず...」と、桃の花を見たその瞬間に雲散霧消し、こころの迷いや苦しみがガラリとなくなった、というのです。その喜びは、いかばかりのものだったでしょうか。
この瞬間の、この歓びを求めて、古くから大勢の修行僧が大変な犠牲を払い、艱難辛苦を乗り越えてきたのです。

道元禅師にも、有名な歌があります。

峰の色 谷の響きも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と...

「水鳥樹林(すいちょうじゅりん)念仏念法の如し...」という言葉があります。
渓川の水も、鳥の啼き声も、木々を揺さぶる風の音も、すべてがありとしあるものの、ありのままの姿です。ありのままの姿とは、飾ることなく、いのちを輝かせている姿のそのまま...
生き物は、渓川の水を飲み、植物の実を啄み、大地に巣を構えて生き抜いていきます。一滴の水、一吹きの風、ひとかけらの土塊、ちっぽけな石ころ一つですら、何らかの形で誰かのいのちを支え、この世界の全体としての営みに、深く関わっています。
いのちあるものも、いのちなきものも、お互い深く絡み合いながら動き、働いています。それがそのまま、念仏、念法...貴い存在(仏)、貴く不思議な働き(法)...人間が口でその名を唱え、讃えなくとも、世界は、そのままのありのままで光り輝いているのです。

渓川のせせらぎと、松の枝をわたる松風...
どっしりとした石を探しだして、それを坐禅石として、一人静かに坐る...
余計なことは全部放り投げ、こころをひたすら自分の呼吸に凝らし、出息入息、息の出入りに身心を委ね、ゆったり伸びやかに坐る...
いつしか、自分の身体が渓川の流れ、吹き抜ける風と一つになる。
全身全霊で、世界の、いのちの営みを感じる時、雄大な天地自然の、溢れるような恵みの中で生かされていることに気が付き、感謝の思いとともに、はじめて天地自然の説法が私たちの耳に聞こえ、心に響いてくるのです。

(写真:工藤憲二氏)

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