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禅語を味わう...011:一葉落ちて天下の秋を知る

一葉落ちて天下の秋を知る

一葉落知天下秋

(いちようおちて てんかの あきをしる)


八月も終わりに近づき、朝夕の涼しさが秋の気配を感じさせるようになりました。
日中の酷暑はまだまだ厳しいですが、恵林寺の境内でも、桜をはじめ早くも樹木の紅葉が始まっています。
さて、今回の禅語は、

一葉落ちて天下の秋を知る...

いまの季節にぴったりの言葉です。
この語、もともとは「梧桐(あおぎり:青桐)」の葉が一枚、ハラリと舞い落ちる姿を見ての句だといいます。「梧桐」の葉は他のどの木よりも早く落葉するというのです。
まだまだ暑い日が続く残暑の厳しいさなか、ヒラリヒラリと一枚の木の葉が音もなく落ちてきます。誰にも気が付かれないような、ささやかな出来事ですが、実は天下に先駆けて秋の訪れを告げる一番乗りです。
ああ、落葉が始まったなぁ...もう秋だなぁ...
気が付けば、沸き立つような入道雲が浮かぶ青空にも、どこか秋の空独特の翳りが宿っています。どこまでも青く透き通り、澄み切った青空。
しかし、カラッと晴れ渡った強い陽射しのもと、夏の青空が湛えるような輝きは消え、いのちを謳歌するように見えた木々の緑は、むしろ穏やかで落ち着いた優しさに変わっています。

私たちは、どうしても日常生活の忙しさに振り回され、いつしか季節の移り変わりをゆっくりと味わう心の余裕を無くしてしまいがちです。
毎日毎日厳しい残暑にさらされて、お互いの一日の挨拶も「暑いですねぇ...」「本当に暑いですね...」から始まります。
しかし、いくら厳しい残暑が続こうとも、静かに、そして着実に季節は移りかわっていくのです。
そして、忙しさに取り紛れて、そんなあたりまえのことすら忘れている私たちでも、たった一枚の木の葉が舞い落ちる姿に触れたその時、はっきりと秋の到来に気が付かされることがあるのです。
するとその瞬間、蒸し暑いばかりだと思っていた街の空気の中に、どことなく乾いた秋の風を感じるようになるから不思議なものです。
緑に輝く木々の木の葉にも、晴れ渡る青空にも、降り注ぐ陽の光にも、秋の気配が...アキアカネが飛び交い、ツクツクボウシが鳴き、夜の虫の集(すだ)く声も、もう秋の感じです。

   たった一枚の葉っぱ...

道端に落ちていても、誰にも見向きもされないような、取るに足らないちっぽけな存在です。しかし、その一枚の葉っぱが落ちるその中に、「天下の秋」が集約されています。そのことに気が付いた瞬間、私たちは、いつの間にか自分がまるごと秋のまっただ中に、そっと静か立っていることに気が付くのです。
この一枚の木の葉は、いわば魔法のように、私たちの回りの世界を一瞬にして秋に変えてしまいます。というよりも、本当のことを言えば、私たちの回りの世界は少しずつ確実に秋を迎えていたのです。ただ、私たちがそのことに気が付かないでいただけなのです。
この一枚の木の葉は、私たちを目覚めさせ、そのことに気が付かせてくれるのです。
そして、大切なことは、この一枚の木の葉を通じて、全身で、まるごと「知る」というところです。
「天下の秋を知る」と言いますが、これを「禅語」として受け止め、自分のものにするのであれば、この語は「秋の彼岸も終わり、日本中どこでも秋になりました」などという気の抜けたことを言っているのではありません。そしてまた、どんな樹木よりも早く落葉する「梧桐」の葉を見て、天下の人に先駆けて秋の訪れに気が付いた、そんな感慨ともまた違うのです。
切っ掛けは、一枚の木の葉...
しかし、秋を感じ、受け止めるのは、全身まるごとです。
ハッと気づき、心が震えるような何ものかがなくては、本物ではないのです。
「知る」ということは、本当はそうした経験でなくてはなりません。
「知る」ことによって私たち自身が変わる。そしてそうなってはじめて初めて、禅の世界でいう観る、聴く、触れる、嗅ぐ、味わう...禅的な経験をする、と言うことができるのです。

天下...世界中まるごと一杯、山も川も、草も石ころも、あらゆるところに秋が満ちあふれている。
天下の秋...皆さんは、この言葉に釣り合うだけの、天地一杯のまるごとの秋を経験しましたか...?
え、何ですって、秋はまだ先触れだけで、本当の秋本番は、まだまだ先ですって。
そんなことを言っているようでは、いつまで経っても「天下の秋」に気が付くことはできません。
目の前の一枚の木の葉の中に「天下の秋」を看てとったならば、今ここが「天下の秋」、辺り一面、どこもかしこも、「天下の秋」でないところなどありません。

古代ギリシアには「哲学は驚き(タウマゼイン)とともに始まる」という言葉があります。しかし、この「驚き」をただの「好奇心」の延長のように受け止めるならば、それはあまりにも浅薄なことです。なぜならば、「驚き」とともに始まった哲学は、二千年以上の時間をかけて、いまだにその問いを離れることができないのですから...
驚愕あるいは戦慄と言っても良い、それだけ巨大な驚き...
ヨーロッパの精神世界を二千年以上にわたって呪縛し続けるような、根本的で根源的な驚き...
なぜ、ヨーロッパはそれほどまでに哲学の問いに呪縛されたのか。
このことがわからないかぎり「哲学の始原(始まり)」としての「驚き」が一体どのようなものであったのか決して理解できないのです。
本当の「体験」、本物の「経験」とは、常にこうした「衝撃」あるいは「驚き」をともなうものなのです。ですから、「一葉落ちて、天下の秋を知る」、この句は、簡単なようで、その実、私たちの心の深さを試すような怖さを含んでいます。
私たちは、一枚の木の葉に集約されている「天下の秋」を、一体どこまで味わい尽くすことができているのでしょうか。

一枚の木の葉が、目の前でハラリッと落ちてきます。
この一枚の木の葉に、本当のヨーロッパの哲人、本物の思想家であれば、二千年以上の思想の呪縛の根源を見いだして、恐れ戦くことでしょう...言ってみればこの驚き、戦きがヨーロッパの人たちにとっての「天下の秋」の経験...根本経験です。たとえばゲーテのような詩人はそれを「根源現象」と呼びました。
それでは、私たちは、どうか?
私たちは、自然の素晴らしさに向き合って感動し、心を揺さぶられることはあっても、決してそのことによって精神的に呪縛されたりはしません。
むしろ、小さな葉っぱの一枚一枚にも、天地一杯の自然の営みが息づいていることに歓びを見いだすのです。
すべてに先駆けて秋の到来を告げるこの木の葉は、来るべき収穫の先触れ、実りの秋の先駆です。
少しずつ色づいていく山々の木々を眺めながら、思い切り深呼吸をして、爽やかな秋風を身体一杯に巡らせ、天地一枚の秋を一滴残さず、まるごと飲み干し、味わいたいものです。

写真:工藤 憲二 氏

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