見出し画像

精神療法を行なうにあたって科学的であるということはどういうことか

若い精神科医のひとたちが、精神療法について迷うのは、「これって科学じゃないのでは・・・」という疑いを持つことも一因かも知れませんね。それはある意味で当たり前のことだと思います。それは、精神療法というのは精神医療の一つの実践の形ですが、それ自体としては科学そのものではありえないという事実があるからです。そう言ってしまうと身も蓋も無いようですが、それはひとつの技術であり生活に関与する実践であるということから必然的に導かれる結論であって、何も悲観する必要はないとわたしは思います。

逆に、科学的でない実践とは何かと考えてみてもいいかもしれません。たとえば、自然科学において確実であると想定される知識と明白に矛盾するような主張に基づく実践があったとしたら、その場合には「科学的ではない」と言われても仕方ないですね。たとえば、物理法則に反するような主張や、あるいは生物学的にみて不可能な主張を根拠として行われる実践は非科学的であり非難されても仕方ないでしょう。

では、ただ単に効果研究でよい結果が確認できていない治療はどうでしょうか。これは簡単ではありませんね。既存の知識と矛盾せず、大きな害がないことが確かめられている場合、また他によりよい手段が知られていない場合には、実際にそういう治療が行われることはあります。たとえば、「ちちんぷいぷい、痛いの痛いのトンで行け」と唱えることが、二重盲検無作為化比較試験に通過しているということはなさそうですが、他に適当な手段がなければ非倫理的とまでは言えないでしょう。それは冗談としても、自閉症の療育技法や成人の精神疾患に対する精神療法の多くは、かならずしも厳密で再現性の高いエビデンスを持っているとはいえない現実があります。

だからといって、厳密で質の高いエビデンスが無いようなことは何もしないという立場に立つと、実際の臨床場面でできることは極めて乏しくなってしまいます。それに、仮にエビデンスのある治療法があったとしても、患者さんの状態や素質・環境などはみな違うので、いつもそれがそのまま適用できるとは限りません。どうしても何とか工夫して、原法には無いことを加えたり、無理な部分を回避したりと言うことがありえます。そうすると、そのやりかたに対して原法に対するエビデンスをそのまま流用していいかどうか疑問が生じてもおかしくありません。

少し話が変わりますが、精神神経学雑誌124巻第6号に加藤敏先生の『ヤスパースにおける「高次の了解」と治療的視点』という論文が掲載されています。そのなかで、了解と感情移入の区別についての重要な指摘とともに、加藤敏先生はヤスパースの「実存的交流」について触れておられます。「実存的交流」などというと、またばかに哲学的・思弁的な話だなと思うひともあるかもしれませんが、実地臨床の即物的な場面に落としたレベルで、わたしなりに表現させていただくと、これは「人間と人間が同じ部屋にいて話しをしているときに、お互いに自分が”伝達を意図した情報”以外のものを提示しあわずにいることは不可能である」というような状況になります。実際に治療者は、自分の表現をリアルタイムにすべて管理し把握することはできません。かりに治療的意図はきちんと表現できたとしても、それ以外の全ては意図しない自動的または偶発的な表出となるほかありません。ですから、全体として起こっていることは、「人間が人間に対して何か影響を与えた(お互いに)」としか言いようがないのです。

そうなると、実際の臨床場面は科学どころではありません。お互いに処理しきれない莫大な量の情報のやりとりであり、そこからごく僅かな情報が意識の水準にまで到達し、さらにその一部だけが言語的に表現可能になるにすぎません。このような複雑な状況を、何か明白なわかりきったものとして考えようとすることは危険ですらあります。なにか特定の治療技法の悪口を言う意図はありませんが、たとえば、「こう来たらこう」みたいなタイプの護身術の動画を見て、いざというときに本当にそれができると思い込んでいたら危険だということは直感的にわかると思います。いざというときに、うまい具合にむこうが「こう来る」確率はとても低いからです。あまりにもマニュアル化・定型化した治療技術には、それとおなじ問題があるのです。

だからといって、「鍛錬によって治療的人格を形成せよ」などと言ったらまた非科学的といわれてしまいます。まあたしかに、治療的人格などというものを科学的に定義することは不可能ですから、それももっともです。そうなると、結局のところ精神療法において科学的であろうとすることは、「少なくとも科学的に確実と思われる知識と矛盾しない範囲で、かつ与えられた時間を含めたリソースの限界のなかで、人間として人間に対してできる限りのことをする」というあまり見栄えのしない話になってしまいそうです。

それでも、ひとりの精神科医として、精神療法には未来に向けてまだまだ豊かな可能性が広がっていると考えています。科学をあまりにも狭く考えすぎる癖さえ改めれば、たとえば森田療法や臨床動作法あるいはデイケアなどでの集団精神療法ないし集団作業療法といった実践の中から優れた科学研究が出てくる可能性は充分にありうると思います。特に、臨床動作法のような身体性に直接働きかける治療の可能性はまだ充分汲み尽くされていません。こうした治療の場面で起こっていることは、非常に複雑ではありますが決して神秘的・非合理なものではありません。若い精神科医の方々が、勇気を出してこれらの治療技法に挑戦し、また、それだけにとどまらずそれを科学することを志していただけたらと願っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?