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精神科の診断面接は何をしているのか

一般の人から見て、精神科の診断というのは何を基準にしているのか不思議に見えることがあるようだ。医師によってやり方は違うかも知れないが、大体は「いま困っていること」それがいつ始まってどんな様子なのか、以前にはそういうことがなかったのか、小さいときにどんな風だったのか、いままで学校や職場でどんな風に過ごしてきたのか、自分ではそのことをどう思っているのかというようなことを聞かれるかも知れない。

そういう質問をして話を聞いているあいだに、精神科医は何を見ているのだろうか? もちろん話の内容を額面通り聞いてもいるのだが、同時にその人の話し方や質問への反応の仕方も見ている。そして、それらを総合して、その人の人生がいままでどんな様子だったのか、端的にどんな人なのか、何を目指していてどうなりたい人なのか、この人にとって「よくなった」状態とはどういうことなのかなどといったことを、質的なイメージの拡がりとして直感的に掴もうとしている。そして、その人の生活上の困難さの性質を、その人にとって有益と思われるような形で、対話の中で明確化していくのである。

ただ人の話を聞くだけなので誰にでもできそうだが、そこに専門性があるとされているのは、生活上の困難さの性質をとらえる時に、様々な精神医学的な理解の枠組みを利用しているからだ。たとえば、発達障害であれば幼少時から何らかの徴候ないし症状が存在しているだろうとか、日常生活ではこのような不都合を経験しているかも知れないというようなことを、予め予測しながら話を聞くのは、こうした精神医学的な理解の枠組みを利用しているからできることである。

こうして患者の生活上の困難さの性質を把握しつつ、次には診断を行うことになる。内科や外科であれば、血液検査や画像診断、生理検査などによって診断を行う場合もあるだろう。しかし、精神医学的診断は主として、上記のような生活の様子と、そこに表れる行動と思考の特定のパターンから診断を行う。もちろん場合によっては、脳波のような生理検査や、頭部MRI/CTのような画像検査が参考になることもあるし、いろいろな心理検査が補助的に用いられることも多いが、それらの検査のみで診断を行うことはできない。最も重要になるのは21世紀の今日でも、やはり精神医学的診断面接なのである。この辺が、一般の人にとって不思議な感じがする原因なのではないだろうか。

面接で診断するというと、主観的なのではないかという疑いが生じるのは理解できるが、たとえば皮膚科医は皮疹を眼で見て判断するし、循環器内科医はいまでも聴診器を下げていて、耳で聞いて判断することをやめてはいない。だから、面接で診断すること自体は、あまり不思議なこととは言えない。客観性という点から言えば、この人にどういう症状があるのかという水準の判断では、よく訓練された医師のあいだでそう大きな意見の食い違いはまず生じないので、そういう意味では面接による症状の把握という水準では医師の判断は比較的信頼性があり、多くの場合に再現性が保証できる。

しかし、診断名となると、医師による一致の程度は急に下がるかもしれない。そう言われると患者としては不安に思うかも知れないが、これは面接と診断に必要な、「精神医学的理解の枠組み」が一つとは限らないためであり、いまのところ仕方のないことでもあり、むしろ有益ですらあるのだ。

それが有益というのは、精神医学は発展しつつある科学なので、ひとつには時代によってバージョンアップがあって、必ずしも最新版が「最も安定したバージョン」であるとは限らないという理由にも依る。近代精神医学も、エミール・クレペリンや呉秀三のあたりから数えても約130年、フィリップ・ピネルからは230年ほどの歴史があり、とりわけこの数十年の概念の変化は著しいので、むしろベテランの医師ほど、いわゆる従来診断という多年の経験に基づいた枠組みで診断を考えることが多い。そしてさらに、この従来診断には、「理解の枠組み」のタイプに多様性があって、研修医の時に教わった教室によって、躁うつ病の範囲が広い枠組みがあったり、統合失調症の範囲が広い枠組みがあったりする。精神分析学的な枠組みで見る医師ならば、また違う見立て方があるし、依存症や人格障害の専門家はともすれば何でも依存症や人格障害の文脈に引きつけがちになるというわけである。しかし、これが治療上はむしろ有益に働くことがあるのは、診断は治療を導くためのものなので、多様な枠組みによる多様な治療戦略が存在することは、全体としては治療が成功する可能性を広げている面もあるからだ。Aの診断と、Bの診断があるときに、どちらか一方が必ず間違えていると判断することは必ずしも正しくない。治療という意味では、どちらも正しいこともあり得るし、どちらも間違っていると言える場合もあるだろう。

発達障害の場合で言えば、成人の知能に遅れのない発達障害という概念が一般の精神科医に普及したのは、ついこの10年あまりでしかない。だから、ベテランの医師が、あえて昔風の診断をして上手に治療ができるなら、それは患者の不利益にはならない。たとえば、自閉スペクトラム症のひとが「職場で失敗が多く、いつも上司に叱られているうちに、家にいても監視されているような気分になり、いつもびくびくしている。最近は休みの日にも何もやる気がしなくなってきて自宅に籠もってぼーっとしてばかりいる」というような場合、昔風の診断だと統合失調症と診断されてしまうかも知れないが、センスの良いベテランであれば、たとえ統合失調症と診断しても大量の抗精神病薬は使わずに、少量の抗精神病薬と環境調整で上手く状況を改善させるかも知れない。あるいは、神経症的な反応と捉えて精神療法を行って、それで症状が良くなるという場合もあるだろう。あるいは、うつ病と捉えた方が上手く治療できる医師だっているかもしれない。逆に、きちんと正しく発達障害の診断が出せても、「治療できないから、うつ病になってからまた来てください」と言われるぐらいであれば、間違った診断の方が役に立ったということになる。

もちろん、最新バージョンの精神医学には、DSMのような操作的診断基準があり、これを正しく運用すれば上記のような問題は起きないはずという意見もあるかも知れない。しかし、実際にはDSMの診断基準の項目はどれも抽象的なもので、該当するかどうかの判断は、上記のような医師個人が採用する「理解の枠組み」によって変化してしまう。そのため実際問題として、一般の精神科医の診断と、発達障害の専門家である医師の診断は、かなりの割合で一致しないことがある。ただし、みなさんの安心のために言っておくと、この不一致は、10年単位で考えると以前よりはだいぶ小さくはなってきてはいる。とはいえ、いま主流となっているDSM的な操作的診断基準に代表されるタイプの精神医学的理解の枠組みが臨床的に適切なものであって、それのみで治療上必要な病態理解を十分に得ることができるという考え方で本当に正しいのかどうか、そのような疑問は依然として残っている。

精神医学における理解の枠組みの多様性を無理に統一しようとすることは危険でもあるだろうし、また現実的でもない。求められていることは、枠組みを機械的に適用するのではなく、むしろその枠組みを豊かにする観点から「いまこの人に何が起きているのか」ということを複合的に捉えて、それを理解し記述していくことだろうと思われる。精神科医は日々の診断面接や治療面接の中で、そのようなことも目指しているのだ。

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