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『それから』論4:無刀の妙術

代助は父の援助で生活しており、それを夏目漱石は高等遊民という。

何事にも優柔不断でありながらその態度を正当化しているのです。

しかしその優柔不断が三千代に誤解を与え代助自身の苦悩の原因になっていることを自覚するのです。

『それから』の第十四章では、代助は自ら次のように分析しています。

 「彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味してみて、そのあまりに、狡黠(ずる)くって、不真面目で、大抵は 虚偽を含んでいるのを知っている。」


その虚偽とは父からの結婚話にたいして真剣に考えず、その場かぎりの適当な返事ですましていたことです。

その行為は父から見れば優柔不断な態度に見えていたのです。

そんな代助の優柔不断な態度を代助自身は融通無碍、闊達自在で柔軟な態度と思っているのです。

優柔不断な態度を自慢こそすれ悪いとも欠点とも考えていなのです。

戦国時代の風習を引き継ぐ戦略結婚に同意しなかっただけだと考えているのです。

だから親がいくら説得しても反省しないのです。

代助が言うには、

人の言うままに従ったことはないが、

面と向かって露骨に意見を言って戦たり抵抗もしなかったといいます。

見る人によればその態度は策士とも優柔とも取れる行為でした。

時にはそのような非難を代助は聞くこともあったのです。

しかし代助はそれでも納得をしなかったのです。

それは融通のきく思考だと考えているからです。

この現状維持の態度でこれまで世の中を渡ってきたのです。

この態度は宮本武蔵の無念無相なのです。

自己の考えを態度に出さないからです。

また父を説得したり反対を露骨に表明せず、

父の話を呑み込んだまま帰ってくるのです。

無念無相は相手によって与える効果が違うのです。

無念無相は相手に都合の良いイリュージョンを起こさせることもあるのです。

代助と三千代の関係においては恋愛幻想に発展することがあるのです。

それゆえ三千代が代助の謝罪を遮ったのです。

何故三千代が代助の謝罪を遮ったのか不思議に思うかもしれません。

三千代は代助を苦しませている原因は三千代にあったというのです。

「『詫まるなんて』と三千代は声を顫(ふる)わしながら遮(さえぎ)った。『私が源因(もと)でそうなったのに、貴方に詫まらしちゃ済まないじゃありませんか』」

このような三千代の言葉は恋愛幻想から解放されて初めて可能なのです。

これが無刀の妙術なのです。

三千代の片思いだったのです。

 代助は、「『僕の存在には貴方が必要だ。』」と言いました。

三千代の兄の死以後の代助は、三千代によれば、「『あの時から、もう違っていらしったんですもの』」と、代助の気持ちの変化の時期を指摘します。

三千代の、「『余りだわ』、「『残酷だわ』」と云う声が手聞えたのです。

「『それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。』」のです。

「『余りだわ』」、と云う三千代の気持ちには、私を騙しておいて、と言う意味が込められていたのです。

そこで、大助は、はじめて罪と責任を自覚するのです。

しかし、大助は三千代に対して、三年前に、一度も愛の告白をしていないから、「『あの時も今も、少しも違っていやしない』」と言う思いがあったのです。

そこで「憮然」とした態度を取りました。

ただ大助の曖昧で、「優柔不断」な態度の禍による罪でした。

そこで、三千代から、「『残酷だわ』」と言う言葉が返ってきます。

そして、三千代の涙に、大助は、「『僕はこれで社会的に罪を犯したも同じ事です。』」と、三千代を結果的に騙した罪を懺悔するのです。

 ここで、「『あの時も今も、少しも違っていやしない』」と、言う大助の言葉の意味を、どのように解釈するかで、大助の「憮然」とした態度が理解出来なく成ります。

「『あの時も今も、少しも違っていやしない』」と言う意味を、三千代の立場から見れば、欺瞞と映るのです。

しかし、大助は一度も過去に愛の告白をしていないのです。

だから大助からすれば、あなたの誤解でしょうと、「憮然」としたのです。

しかし代助は三千代に対して少しの反対もせず、全てを受け入れたのです。

悪くないと思っていても謝ったのです。

すべて呑み込んでしまったのです。

それに対して三千代は自らの恋愛幻想を自覚したのです。

これが無刀の妙術なのです。


引用は青空文庫です。

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