見出し画像

龍神考(6) ー鬼の目と八方睨みの龍ー

 古代中国で「あらゆる動物の祖」と考えられた龍の形象は、具体的には角=鹿、頭=駱駝、目=鬼、うなじ=蛇、腹=みずち、爪=鷹、掌=虎、耳=牛、鱗=魚、とする「九似」に基づいていました。
「龍神考(5)」では、一度に大量の水や塩水を飲むことができる一方、水なしでも数日間耐え得る駱駝が、水神でもある龍のイメージの形成に重要な役割を担っている可能性に気づきました。
 龍の目に採用された鬼は、実は人間であるとも考えました。人間は他の動物より脳が発達しており、目は脳の一部、つまり人間の特徴を示すものだからです。
 また「九似」の中で鬼だけは、角や牙、爪、肌の色を除けば、直立二足歩行の人間と同じ姿をしています。

鬼についての既存の説

 鬼とは何かについて諸説ありますが、ウィキペディアで「鬼」を調べると、中国の鬼は「死霊、死者の霊魂」で日本の幽霊に近く、「幽魂、幽霊、亡魂、亡霊が人間の形で現れたもの」とする中国文学者の駒田信二(1914〜1994)の説や、鬼は亡者に限らない化け物全般を指し、「鬼」の字が「由(大きな面)」と「人」からなるため、祭祀を司どる巫が降霊術の際に異形の面を被った姿の象形化とする中国史学や中国考古学が専門の貝塚茂樹(1904〜1987)の説などが見えます。

 鬼を死霊とする古代中国の考え方は、教養ある平安貴族にも取り入れられていたようです。ただこの考え方は6世紀後半に日本に入ってきたもので、日本の固有、古来の祖霊や地霊を意味する「オニ」と重なっていったとする、歌人で文芸評論家の馬場あき子氏の説が紹介されています。
 同氏はまた、「鬼」は1)民俗学上の鬼(祖霊、地霊)、2)山岳宗教・山伏系の鬼(天狗など)、3)仏教系の鬼(邪鬼、夜叉、羅刹)、4)人鬼系の鬼(盗賊や凶悪な者)、5)怨恨や憤怒が嵩じて変身した鬼、の五種に分類しています。

「おに」は「おぬ(隠ぬ)」が語源で、「姿が目に見えないもの、この世ならざるもの」との説や、さらに「おに」より古い同義語は「もの」=祟る怨霊であるとの説もあります。


鬼が苦手なヒイラギ

 ウィキペディアの記事で特に興味を抱いたものを列記しましたが、最も注目したのは「鬼の苦手なもの」は「臭いのきついもの」、「尖ったもの」とあり、代表例としてイワシを焼く時に出る大量の煙と臭いを嫌い、ヒイラギの葉のトゲで目を刺されるのを恐れる鬼の弱点です。二つ合わせて「柊鰯」と呼ばれます。
 嫌悪と恐怖では、より強く作用するのは恐怖の方だと思います。ということは、鬼にとって最も守るべき大切なものは目であると考えられます。
 節分で「鬼は外」と豆を撒くのは、豆は「魔目」に通じ、魔=鬼の目に投げて、魔=鬼を滅するため、とも云われますが、ここにも鬼の弱点は目であり、鬼は目を害されるのを恐れる、という信仰思想が窺われます。

 龍の目は鬼の目とする発想は、鬼とは人間であり、他の動物と比べた人間の最大の特徴は発達した脳であり、目は脳の一部である、ということによると考えてきましたが、今改めて鬼はヒイラギのトゲが目に刺さることや豆で目をやられることを最も恐れることを知ると、龍の目に鬼の目が選ばれたことがなおさら意味深長に思われます。
 尤も「柊鰯」や「豆=魔目」の考え方は日本独自のものかも知れませんが、鬼にとっての目の重要性を再度意識しておくことは大切だと感じます。

昨年11月下旬に花が咲いていた柊(ヒイラギ)

 鬼が祖霊や地霊、死霊その他のどれであっても、それらに共通するのは、「おぬ(隠)」が語源の鬼は人間の目から隠れ、または隠されているために「目に見えない」と同時に、人間や人間に近い姿で「目に見える」こともある点です。
 自分や他人の心の状態を「鬼」と呼ぶ場合でも、私たちは「鬼」のような自分や他人の表情として視覚化して想像するからです。

 前述の馬場あき子氏の分類による5)怨恨や憤怒が嵩じて変身した鬼という心の状態は、怨恨や憤怒に囚われることに始まり、次に執着が常態化し、さらには極端なレベルに達した状態だと思いますが、それは視野がどんどん狭くなっていく過程でもあり、同時に執着しているもの以外のものが見えなくなっていく過程とも言うことができるでしょう。

 自分が囚われたもの、執着したものが、実は小さなもの、些事でしかないことも往々にしてあります。それは前述のヒイラギの葉のトゲに喩えることもできます。
 トゲに心を奪われ、トゲばかり見ていると、目は無意識のうちにトゲに近づいていき、気付かないうちに危険な近さにまで迫り、何かの弾みでトゲで目を突いてしまう恐れも出てきます。
 そのような危険を予防できるような智慧は、平常心の人間だけでなく、心が鬼と化した人間も完全に失ってはおらず、そこに鬼が改心する目に見えない可能性を秘めている。これが、鬼はヒイラギのトゲが目に刺さるのを恐れるという信仰思想上の設定に繋がったのではないでしょうか?

ヒイラギには刺々しくない葉もある


鬼の目と八方睨みの龍

 心が鬼のような状態に陥らないためには、視野を広く保ち、自己を客観的に見つめ直すことが必要であることを「八方睨みの龍」は暗示しているように思います。
「八方睨みの龍」は拝観者がどの位置から見ても睨まれているように見える龍の絵のことで、京都にある臨済宗の天龍寺や妙心寺の絵が有名ですが、ネットで調べると他にも「八方睨みの龍」を飾るお寺や神社があるようです。

「八方睨みの龍」は私たちの誰にも目配りをしてくださっているありがたい神様という解釈もできますが、龍が視野狭窄で些事に執着しがちな鬼の目を持つという点を改めて思い起こせば、龍は八方を睨む努力をすることで視野が広がり、自己を客観視することができるようになり、そうすることは仏教を守護することにもなる、という発想も窺えます。

 これは、お釈迦様自身も自己を見つめる瞑想により悟りを開かれ、その時現れた蛇神が「龍王」として仏教に取り込まれたという、仏教の原点に通底する考え方だと思います。
 心が無意識のうちに些事に囚われ、視野狭窄が進行するにつれて執着が嵩じ、心が鬼の状態に陥りがちな私たちに、自己を見つめ直す仏教のヒントを与えるため、誰の心にもある龍をお手本として目で見えるように図像化されたのが「八方睨みの龍」ではないでしょうか?

 ずいぶん前に「八方睨みの龍」を拝観したことはありますが、当時は龍神信仰にあまり興味がなかったせいか、どこのお寺だったか覚えていません。
 その後神社やお寺を巡拝するうちに自然と龍神信仰に関心が強まってきて、今や社寺参拝中に日暈を目にすると、龍神様の目のように感じるようにもなりました。

「元伊勢」の一つとされる大阪府吹田市の吉志部(きしべ)神社参拝中に拝んだ日暈


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?