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龍神考(21) ー春日信仰にみる天孫降臨ー

天孫降臨を暗示する「春日」と「申」

 雷神武甕槌命(たけみかづちのみこと)の春日の御蓋山浮雲峰御降臨に始まる春日大社の信仰の原風景には、猿田彦神(さるたひこのかみ)を「春雷の神」として敬仰する信仰があったことが見えてきました。

 それは、猿沢池の西の采女(うねめ)神社の辺りや猿沢池に浮かべた舟から御蓋山に鎮まる「春雷の神」猿田彦神を拝み祀る信仰だったと思われます。

 さらに「春雷の神」を祀る背景には、御蓋山の奥の春日山から昇る春の日の出や朝陽、つまり「春日」を拝む信仰もあったこともごく自然に想像されます。これが「春日」の地名の由来ではないでしょうか?

 春分の日は全国各地の神社で春季皇霊祭が行なわれることから「春日」は太陽神天照大御神の御孫=天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)の降臨「春雷」は天孫を雷雲の中からお出迎えし、雷光=「申」で降臨の道筋を示した猿田彦神の随行の喩えと考えることもできます。

 しかし天孫が春雷の神のご案内で実際に降臨される前段階で、降臨先の地ならしが必要であり、それを完遂されたのが武甕槌命というやはり雷神だったのです。

 すると昔は旧暦二月申の日(現在は3月13日)に行なわれる勅祭「春日祭」の別名が「申祭(さるまつり)」であることの背景に、「春日」(天孫邇邇芸命)と「申」=「雷」(武甕槌命と猿田彦神)の組み合わせ、すなわち天孫降臨神話が意識されていることが見えてきます。

「春日」と「申」の組み合わせによる天孫降臨とは、自然と人との関わりという点からすれば、稲作を始める前の土地の状態を整える上での神助とも解釈できます。
 それは春日祭=申祭の直後の3月15日に御田植祭と御田植神事が行なわれる点にも窺えることを指摘して前回は締めくくりました。

 この点に一つ付け加えるべきことがありました。
 管見では、春日大社の祭典は御本社(大宮)で行なわれた後、引き続き若宮神社でも行なわれるようですが、春日祭=申祭の直後の御田植神事は大宮と若宮に加え、榎本神社(地主神=猿田彦神)の前でも行なわれます。
 これも、春日祭=申祭には天孫を猿田彦神がご案内された天孫降臨が意識され、その天孫降臨は自然崇拝の観点からは稲作への神助とも考えられていたことを暗示しているようです。

猿田彦神の天孫降臨の道案内を連想させる蛇行する落雷(2019年8月8日19時半過ぎ、福岡平野)


 それでは今回も春日信仰の原風景を自然崇拝の観点から見ていきましょう。


武甕槌命の御蓋山御降臨の季節

 春日祭がかつて行なわれていた旧暦二月とは現代の新暦感覚でいつ頃に当たるのかを把握するため、ウィキペディアで「2月(旧暦)」を見ると、新暦2月下旬から4月上旬に相当します。ということは立春(2月4日頃)〜立夏(5月5日頃)の春雷の季節の約3分の2を占めます。この季節には春分の日もあります。

 また立夏の前の穀雨(4月22日頃)から立夏の間は春日大社の神紋であり、藤原氏の姓にも籠められたフジの花期です。
 春雷(猿田彦神)の季節の終盤にフジが咲くという季節の移ろいも、猿田彦神の鎮まる場所に藤原氏の氏神の一柱で雷神の武甕槌命が降臨される、という御由緒に反映されているようです。

二十四節気の「穀雨」を連想させる、滴り落ちるように咲くフジの花(2021年4月20日夕刻、福岡県内)


 また春雷の季節である立春から立夏まで二十四節気は、立春→雨水→啓蟄→春分→清明→穀雨→立夏と移り変わりますが、この間に「雨」が付く節気が二つもあります。
 しかも雨水と穀雨以外に「雨」がつく節気はありません。雨は年間を通して降るにもかかわらず…
 つまり春雷の季節は同時に雨にも強い意識が向けられていたことになりますが、稲作開始前の土地の状態を整える上で春雷と春雨が重視されたことが窺えます。

 こうしてみてくると、稲魂とも考えられる天孫が降臨される際の春雷=猿田彦神の役割が、自然崇拝の観点から意味が今少し明らかになってくるようです。

 他方、天孫降臨のための地ならしをされた武甕槌命の御蓋山降臨は神護景雲二年(768)1月9日、春日大社の社殿ができて御鎮座になったのは同年11月9日。
 新暦では御蓋山御降臨は2月1日甲寅、春日大社御鎮座は12月22日己卯
*下記リンク先の『こよみのページ』の「新暦と旧暦の変換」を活用


 つまり武甕槌命は春雷(猿田彦神)の季節が始まる立春の直前に御蓋山にご降臨、冬至の頃に麓の御本社(大宮)に御鎮座になったことになります。

 ということは、前回指摘しました「承前の原則」にしたがって、先住の地主神=猿田彦神=春雷の季節に接続するようなタイミングで、雷神の武甕槌命は御蓋山に来臨された形になります。
 それでは、冬至の頃の大宮への御遷座にはどのような背景があるのでしょうか?


武甕槌命の大宮御遷座の季節

 武甕槌命の神話上の最大のご活躍は天孫降臨の地ならしのために、大国主命から天孫への国譲りを実現されたことです。
 これは自然崇拝の観点からすると、いつ頃の季節でしょうか?

 そのヒントになるのは、大国主命が鎮まる出雲大社に日本全国の神々が集合する神在祭(かみありさい)が行なわれる旧暦10月です。
 この月は出雲では神在月(かみありづき)ですが、他の地域では神々が不在のため神無月(かんなづき)と呼ばれます。
 新暦では年によって10月下旬から12月上旬に様々な祭典や神事が行なわれます。
 よって、旧暦10月が大国主命の神威が年間最大になる月とみることもできます。


 逆を言えば、この月が過ぎると、神々は出雲から去って全国各地にお戻りになります。そして大国主命の神威の波は最大に高まってはいますが、以後は落ち着いていくのでしょう。その時期が最も遅いのは12月上旬。

 それは日照時間が日に日に短くなり、謂わば、陰気が増大していく頃。そして、新暦12月22日頃に陰気が極まると、一転して陽気が復活して来ます。このことを「一陽来復」とも謂います。

 出雲国譲り神話は、自然崇拝の観点からは、大国主命の霊威が最高に達する神在祭が終わり、実は夏至以降すでに増加してきていた陰気がいよいよ極大となる冬至直前か冬至の出来事と推察できます。

 大国主命が国譲りの条件とした住処は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」とも呼ばれますが、「日隅」には日照時間が最も短い、あるいは太陽の南中高度が最も低い冬至の時期を連想させます。

 以上から、大国主命が太陽神の御孫に国を譲るという神話は、季節的には陰気が極まり、それから日照時間が増加に転じる冬至の喩えと解釈することができます。

 そう考えると、冬至の「一陽来復」に通じる出雲国譲りを実現させた武甕槌命が御蓋山の浮雲峰から中腹の御本社に御遷座になったのも、12月22日(旧暦では神護景雲二年11月9日)の冬至だったことに、神話との整合性が見られます。

 そうすると、春日大社には大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命の別名)と奇稲田姫(くしなだひめのみこと=素戔嗚命の妻)、素戔嗚命(すさのおのみこと=大国主命の父)を祀る水谷(みずや)神社が末社ではなく、摂社と位置付けられてあることにも意味がつながってくるのではないでしょうか?


 この意味についてのさらなる考察は三輪山信仰(大物主神=大国主命の和魂)とも関係してくると思いますので、また別の機会にします。


「申」の日と満月の重なり

 武甕槌命の御蓋山御降臨と御本社(大宮)への御遷座の日が、雷神というご性格とどう関係するのかにさらに見ていきましょう。

 興味深いことに御蓋山御降臨の旧暦1月9日甲寅の直後の申の日は旧暦1月15日大宮御遷座の旧暦11月9日己卯の直後の申の日は旧暦11月14日
 どちらも、直後の申の日は満月かその直前だったのです。しかも神護景雲二年(768)の干支は戊申

2023年3月3日庚申の月暈(但し月齢は11.11、福岡市東区和白丘の竜化池(りゅうげいけ)公園にて)


 こうしてみると、春日大社の古絵図「春日宮曼荼羅」の多くに描かれる春日山の奥から昇りつつある月が満月であることにも、春日の地主神、春雷の猿田彦神への信仰思想を、「申の満月」の直前に御蓋山に御降臨、そして大宮に御遷座になった「申=雷の神」武甕槌命への信仰思想で継承、バージョンアップさせていく意識が窺えます。


「うねめ」と「うずめ」

 天孫降臨と関係する武甕槌命の御蓋山御降臨と大宮御遷座の日が、直後の「申」の日と満月の重なりを暗示していることは、旧暦8月15日、仲秋の名月に行なわれる采女祭に「春の日」と「秋の月」の対比の意識が窺えることも踏まえると、一層意味深長なものがあります。

 采女(うねめ)の言霊は、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)を連想させます。

 天宇受賣命は天手力男神(あめのたぢからおのかみ)とともに天岩戸開きに貢献されますが、天孫降臨にも随伴し、その途中で現れた猿田彦神の名を明らかにし、後に天照大御神=春日大社の比売神の命令で猿田彦神を海にお送りになります。

 そこでしかし、猿田彦神は漁の最中に貝に手を挟まれて海に沈み溺死されます。
 古事記では溺死される猿田彦神のことを以下のように記しています:
・海底に沈んだ時は底度久御魂(そこどくみたま)
・海水の粒が立ち昇る時は都夫多都御魂(つぶたつみたま)
海水の粒が泡が弾ける時は阿和佐久御魂(あわさくみたま)
 これは溺れる人の口から出てくる空気を念頭に置いた記述ではないでしょうか?

 そう考えると、猿田彦神についてやはり春日大社の神々と同じく「口」や「口」から出る呼気、息吹が意識されていると言うことができるでしょう。

福岡市東区三苫の海岸(2024年1月13日朝)、沖には龍女、豊玉毘賣命が鎮まる相島(あいのしま)


 こうして猿田彦神がお亡くなりなった後、天宇受賣命は猿田彦神の名を担って、猿女君(さるめのきみ)という氏族の祖となられます。

 天宇受賣命が猿田彦神の名を継がれたということは、猿田彦神の祭祀を担うことになったとも考えられます。

 その天宇受賣命と采女命の言霊が似ているということは、お互いに神格が近い、または共通性があることを暗示しています。

 この暗示は、采女神社のすぐ近くに、天宇受賣命とともに岩戸開きに貢献された天手力男神を祀る小祠があることにも窺えます。

 また采女祭の祭日、旧暦8月15日は新暦では9月の上旬半ばから下旬半ばです。最も遅い場合はちょうど二十四節気の秋分の始まりになります。

 この場合、天宇受賣命と重なるものがある采女命の例祭が終わると、二十四節気をさらに三分割した七十二候では秋分の初候「雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)」に入ります。改めてウィキペディアで調べると、その意味は「雷が鳴り響かなくなる」とあります。

 つまり采女祭は仲秋の名月という満月だけではなく、天宇受賣命に海へ送られた雷神にして春日の地主神猿田彦神が溺死してその声=雷鳴が止む時期秋分の初候「雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)」も念頭に置いた祭典、神事である可能性が窺えます。

 天孫降臨を稲作への神助とする観点から、天孫邇邇芸命を稲魂に喩えましたが、稲魂は春に降りて来て稲作を助け、それが終わると秋にお帰りになる、という信仰思想がありますので、春分の春季皇霊祭と秋分の秋季皇霊祭にもそういう意味合いがあるのでしょう。

 そして春の天孫降臨=稲魂降臨の道案内をされた猿田彦神=雷神も、稲魂がお帰りになる秋分には、雷の母体となる雲の発生源である海にお隠れになった

 こうしてみると、猿田彦神を「春雷の神」に限定するのは適切ではないかもしれませんが、上述のような自然のプロセスが神話や春日大社の信仰思想に反映されているように思われる次第です。

 以上からしても、雷神武甕槌命が比売神の祈りに応じて春日の御蓋山に御降臨の前から雷神猿田彦神が御鎮座であり、後に天宇受賣命≒采女命を祀ることになる場所から猿沢池を経て春日野・御蓋山に鎮まる猿田彦神を拝み祀るという、春日信仰の原風景がだんだん色濃く浮かび上がってきます。


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