龍神考(20) ー春日信仰の原風景ー

春日信仰と「靈」の原義


 ここ数回考察してきた奈良の春日大社の信仰思想に、「霊」の旧字「靈」の成り立ち:「雨+口口口+巫」のイメージがありありと浮かび上がってきました。
 それは、太陽を祀る巫女=「日巫女」が雨乞いの祈りを「云う」ことで、太陽が海を温めて「云=雲」が起こり、降雨をもたらす本来の「靈能力」のことです。

「靈能力」が高まって太陽神と一心同体のレベルに至った「日巫女」が天照大御神だと私は考えますが、春日大社では御本社(大宮)の第4殿に祀られている比売神(ひめがみ)は天照大御神のことであると伝えられてきました。
 そこで春日大社の神々について次のように整理してみました:

比売神の「云う」祈りにより発生した「云=雲」=白鹿に乗った雷神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)が春日の御蓋山の浮雲峰に降臨され、降雨につながる…

②武甕槌命に随行の中臣時風(ときふう)・秀行(ひでつら)は中臣氏祖神で神職の神格化の天児屋根命(あめのこやねのみこと)の末裔、時風は風の要素を暗示

天児屋根命が天岩戸開きの祝詞を「云い」、天照大御神=比売神が岩戸をお開きになったのは、長期の曇天の雲に裂け目が生じ、太陽が現れてくる様子を暗示…

風神の経津主命(ふつぬしのみこと)は息吹で雲を動かすことで天気を操り、別名の斎主神(いわいぬしのかみ)は祝詞を「云う」神職の神格化を暗示…

天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)は夫婦神(天児屋根命と比売神)の間の御子で蛇体の水神夫婦神の「云う」祈りで立ち昇る「云=雲」から降った雨が御蓋山を経て表出した蛇行する小川を象徴…

祈りを「云う」ことで「云=雲」を呼ぶ巫女の力は、「雲」を呼ぶ「龍」の力に比定され、「雲+龍」→「雨+云+龍」→「雨+口口口+龍」=「龗(おかみ)」となり、巫女は「龍女」でもある…

 管見では各地の龍神信仰には女性性、特に母性が強く意識されてきた印象がありましたが、春日大社の社報『春日』第111号の特集記事「春日の龍神信仰」でも、八大龍王の三番目の沙加羅(しゃがら)龍王の第三王女、善女(ぜんにょ)龍王、つまり「龍の女神」が日本での龍神信仰の起点だったことを知りました。
 そこで今回は、この特集記事の最初の話題「能楽『春日龍神』」について見ていきましょう。


『春日龍神』に見える春日信仰の原風景

『春日龍神』のあらすじが暗示するもの

 まず能楽『春日龍神』のあらすじを以下に列記してみました。
・天竺(釈尊の故郷)への渡海を決意した春日信仰の篤い明恵(みょうえ)上人が春日社を参詣すると、神職の老人が現れて渡海中止を諫言
・春日明神は上人を厚く信頼、釈尊滅後は春日が仏法の聖地だからと神職は説明
・上人の渡海中止決断後、神職の正体は武甕槌命に随行の中臣時風・秀行と判明
・神職は御蓋山に釈尊の生涯を映写、釈尊の説法に春日神使の龍神と眷属らが参集
・明恵上人の渡海中止宣言を聞いた春日龍神は猿沢池に姿を消す

 この内容を踏まえ、今まで考察してきた春日大社の神々の関係性を振り返ると、次のように整理できます:
・春日御蓋山(武甕槌命本地仏=釈迦如来降臨の仏法の聖地)に釈尊の生涯が映る
・中臣時風・秀行の霊=老人の神職→中臣氏祖の天児屋根命=神職の神格化を暗示
・春日御蓋山の釈尊説法に集い、猿沢池に消えた春日龍神→龍女・日巫女・比売神

「老人の神職」は天児屋根命、「春日龍神」は「龍女や日巫女、比売神」を暗示する存在ならば、両者の組み合わせはこう理解できます:
「老人の神職」+「春日龍神」→天児屋根命+比売神の夫婦神の暗示

 ただし中臣時風の名は風神の経津主命も暗示し、経津主命は斎主神という神職の神格化の側面もありますので、先ほどの組み合わせはこう捉えることもできます:
「老人の神職」+「春日龍神」→経津主命+天児屋根命+比売神の暗示

 しかしそもそも経津主命と天児屋根命は、御蓋山に降臨された後の武甕槌命がお招きになった神々です。
 それでは武甕槌命はどうして春日の御蓋山に来臨されたのでしょうか?

武甕槌命の春日来臨の背景

 思うに、雷神武甕槌命がお乗りの白鹿=雲は、昔から春日の地にいた春日龍神=「龍女・日巫女」に通じる存在の比売神の祈りで立ち昇った雲であり、その祈りに応えるべく、その雲に乗って、祈りの発信源である春日の御蓋山を目指して旅してこられたのではないでしょうか?
 前述のように、巫女の祈り=「巫+口口口」で「雨」が降ることが「靈」の原義であり、「巫」を「龍」に置き換えた「龗(おかみ)」も「靈」と同じく「れい」と読み、「雨+口口口」は「雨+云」=「雲」に置き換えられるからです。

奈良国立博物館のそばから垣間見える御蓋山山頂の浮雲峰(2022年4月21日17時過ぎ)



 春日龍神=「龍女・日巫女・比売神」が雷神の武甕槌命をお招きしたとすれば、その背景にはどんな信仰思想があったのでしょうか?

 このことを考えるには、春日大社の地主神とされる榎本神社の御祭神、猿田彦神(さるたひこのかみ)がヒントになると思います。

 天孫(天照大御神の御孫)の邇邇芸命(ににぎのみこと)が地上に降臨される際、途中でお迎えして道案内をされたのが猿田彦神で、上空の高天原(たかまのはら)と地上の葦原中國(あしはらのなかつくに)を照らす神として描写されます。

「猿」は「申」とも書き、「神」の「申」は雷光が走る様の象形文字で、「申す」(「云う」と同じく「口」から言葉を発する)の意味もあります。
 つまり猿田彦神も雷神であり、雲の中におられたはずです。
 そして、春日大社の大宮と若宮に加え、地主神の猿田彦神にも「雷」や「雲」、「口」への意識が共通していることが窺えます。

 雷神武甕槌命が春日に来臨されたのは、春日の先住の神が同じく雷神の猿田彦神だったからだと言うこともできるのです。

 日本の信仰の大きな特徴の一つは、御祭神にせよ、御由緒にせよ、仏との習合にせよ、従前の信仰思想を継承する「承前」の原則があり、それによって信仰思想がバージョンアップすることです。
 雷神の猿田彦神が信仰されていた春日の地で雷神の武甕槌命が信仰されるようになったのも、日本の信仰思想の「承前」の特徴に合致しています。

 春日の地主神、猿田彦神への信仰を原「春日信仰」とすると、そのバージョンアップに大きな役割を担ったのが比売神=「日巫女・龍女・春日龍神」と思われます。

 太陽神と一心同体の比売神(天照大御神)が「口」から祈りを「云い」、太陽が海を温めて立ち昇る「云=雲」に雷神の武甕槌命が現れ、その雷雲が、風の要素を持つ中臣時風と中臣秀行という「口」から祈りを「云う」神職をお供にし、前から雷神の猿田彦神がお祀りされていた春日の御蓋山に来臨された、と言うこともできます。

猿沢池と猿田彦神

 春日の地主神が猿田彦神だったことは、神仏習合思想に基づく『春日龍神』で、御蓋山に映写された釈迦如来(武甕槌命)の説法に参集した春日龍神が、明恵上人の渡海中止宣言を聞いた後に姿を消した場所が「猿沢池」だった点にも暗示されています。

 猿沢池のすぐ西に采女(うねめ)神社があります。
 采女神社は天皇の寵愛の衰えを嘆いて猿沢池に入水した采女(女官)が御祭神ですが、当初は社殿が東の猿沢池に向くように建てられていましたが、御祭神は入水した池を見るのは忍びなく、一夜にして社殿が池に背を向けて西向きになった、との伝説があります。

猿沢池とその西(右奥の赤い一角)の采女神社(2023年3月23日18時近く)


猿沢池を背を向けて立つ采女神社の社殿(2019年11月9日昼)


 ならば、池に背を向けた西向きの采女神社に正面から参拝すると、その先(東)に猿沢池、またそのずっと先に春日野、御蓋山、春日山を望むことになります。

采女神社を背にして望む猿沢池と少し雲がかかる御蓋山の浮雲峰(2023年3月23日17時過ぎ)


 春日大社創建以前はここから猿沢池を挟んで、または猿沢池に浮かべた舟から、御蓋山の猿田彦神を祀る、または遥拝する信仰があったのではないでしょうか?

 もっと言えば、猿田彦神という概念が生まれる前から采女神社の場所または猿沢池は、春日山からの春の日の出や朝陽を遥拝する自然崇拝の信仰があった可能性も推察できます。
参拝者→采女神社→猿沢池→春日野・御蓋山の猿田彦神→春日山の日の出・朝陽
 これが「春日」の地名の由来ではないでしょうか?:

2022年4月22日午後、春の快晴の下、采女神社を背にして望む猿沢池と春日山(その左側手前に御蓋山)


 この推察は、秋分やそれに近い旧暦8月15日の宵に采女神社での例祭と猿沢池に龍頭の舟を浮かべる采女祭が行なわれ、「春の日」と「秋の月」の対称性があることからも、後日さらに考察してみる意義があると思います。


「春雷の神」 猿田彦神

 前述の春日山からの日の出や朝陽を遥拝する時期を仮に立春から立夏までとすると、それは春雷の季節でもあります。
 すなわち采女神社の社殿が一夜で反対向きになったとの伝説は、そこから猿沢池を隔て、または猿沢池に浮かべた舟から、御蓋山の地主神猿田彦神を「春雷の神」として祀る信仰があった過去を暗示しているのではないでしょうか?

 高天原から葦原中國に降臨される天孫邇邇芸命を空中でお迎えした猿田彦神は、上空と地上の両方を照らしておられたので、雷雲の中から雷光を放ちながらお迎えし、蛇行する落雷の光の軌跡が天孫降臨の道筋のように捉えられ、それが「春雷の神」猿田彦神に道開き、道案内のご神徳を仰ぐようになった背景にあるのではないかと考えられます。

 しかも天孫降臨の日が春分の日だったと仮定すれば、この日に「春季皇霊祭」が日本全国各地の神社で行なわれることにも、理解が今少し深まります。

 天孫の道案内をされた猿田彦神を「春雷の神」と位置付けると、春日大社で斎行される勅祭「春日祭」が昔は旧暦二月の申の日(現在の新暦では毎年3月13日)が祭日だったことから、別名「申祭(さるまつり)」とも呼ばれてきたことにも符合すると思います。「申」を「雷」とすれば、「申祭」=「雷祭」だからです。


 春日祭はもちろん春日大社御本社の神々のための勅祭ですので、「春日」=天孫邇邇芸命(太陽神で皇祖神の御孫)「申」=猿田彦神(天孫降臨の案内した春日先住の雷神)と武甕槌命(天孫降臨の地ならしをした春日来臨の雷神)とすると、「春日祭」と「申祭」の二通りの名称には、天孫降臨への意識も感じられます。

 雷神武甕槌命による地ならしと雷神猿田彦神の案内による天孫降臨は、自然と人との関わりという観点からは、稲作を始める前の庶民への太陽神の御孫と春雷の神との共同神助とも言い得ます。
 春日祭の翌々日の15日には御田植祭と御田植神事が行なわれるからです。

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