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龍神考(16) ー日巫女と玉依毘賣命ー

日本の「日巫女」の普遍性

「霊」という字は現代では精神や魂に関わる不可視の、またはそれに近い不可思議なものとして観念的なニュアンスを強く帯び、「霊魂」や「幽霊」、「悪霊」、「神霊」、「心霊」など様々な組み合わせと意味合いで使用されています。

 一方、旧字体「靈」の成り立ちを調べると、生身の人間集団の生命維持のために現実の雨を神に乞い願う非常な覚悟を持った巫女の姿という特定の状況を表現する象形文字であることを痛感させられます。このことは、これまで一連の「龍神考」で述べてきたとおりです。

 そして雨乞い祈祷から降雨や淡水の補給までのプロセスに関する諸々の信仰思想が、現実の自然界の要素や働きを背景としていることにも気づきました。
 雨が降るには、まず海が太陽によって温められ、次に水蒸気と同時に上昇気流が発生し、水蒸気は雲となり、高気圧の上昇気流は低気圧の地上に降り、それに加え北極星に向かう地軸を中心とした地球の自転などによる風の働きもあって、雲は海から陸に送られてきて雨を降らし、山という「濾過装置付き貯水槽」を経て、泉や川、池、湖の形で表出して初めて、私たちは淡水をまとまった量で利用することができます。

 以上から、太陽神天照大御神を北極星や宇宙の中心である大日如来と同一視する太一思想や、また雨宝童子とも同じであるとする思想が、自然の摂理に則っていることは明らかです。
 ちなみに、江戸幕府の開祖徳川家康公の御霊を江戸の真北、つまり北極星の方位に「東照大権現」の神号と「日光東照宮」の宮号で祀ったことも、太陽=北極星=大日如来の太一思想が背景にあるのだろうと、本稿を執筆しながら思いました。

 すると、降雨を祈る巫女が日々太陽神を祀ることの必然性も上記のプロセスから明白です。この太陽を祀る「日巫女(ひみこ)」が、いわゆる魏志倭人伝に記述がある「卑弥呼」の由来でしょう。

 こうした日々の祭祀の積み重ねが「日巫女」の太陽神との感応のレベルを上げていき、ついに太陽神と一心同体の妻のような存在に精進した別格の「日巫女」が、「天照大御神」や「大日孁貴(おおひるめのむち)」などの神号で信仰されるようになったと思われます。

 このような「日巫女」が雨乞い祈願の言葉を「云う」時に口から立ち昇る呼気はそのまま、太陽によって温められた海から立ち昇る「云=雲」に重なって受け止められていたのではないでしょうか?
「雲」の原字「云」が「云う」の意味もある背景には、「日巫女」の「云う」祈りに応じた太陽神が「云=雲」を発生させる、現実に起こりうる現象が意識されていたと思います。

巫女神格化説もある天照大御神の奉祀に始まる博多総鎮守櫛田神社の上に立ち昇る雲(2020年6月19日)


 しかし各地にもいたはずの「日巫女」が天照大御神に準じるようなレベルに降雨祈祷の「靈」能力を高めるには、一人の生身の女性としては非常に深い懊悩を伴うような宿命を一生をかけて乗り越えていくことが求められました。
 それは太陽神と「神人合一」の妻となり、共同体全体の母であり続けるために、処女性と母性という対照的な性質を維持することでした。

 長くなりながらも前回の「龍神考(15)」の考察を振り返りましたのは、上記が「日巫女」の実像に迫る上で踏まえておくべきことであり、また自然崇拝の日本の信仰思想が世界的な普遍性を持つことに意識を向けるためでもあります。

 世界各地の自然環境や伝統文化の異なる点はいろいろあっても、淡水がなければ人類は生きていくことはできません。
 そして雨が降る仕組みは世界共通です。
 ならば、降雨や止雨を太陽神をはじめとする諸神に祈願し、その霊験を得ることに携わる「日巫女」に関係する現実の自然の摂理に則った信仰思想は、日本だけでなく世界に通用するはずではないでしょうか?

 処女性と母性を兼ね備えた信仰対象としては、キリスト教の神の子イエスを処女懐胎したという聖母マリア、正教会では「生神女(しょうしんじょ)」がすぐ連想されるでしょう。

モスクワの赤の広場の一角の教会の正面に飾られる幼いイエスを抱く生神女のイコン(2019年11月13日)


 これと類似の、太陽神と結ばれて雨という宝をもたらす「日巫女」に関する信仰思想は、キリスト教やいわゆる原始キリスト教などと呼ばれる外来宗教の伝来以前の遥か昔からあったはずです。
 そうでなければ、雨乞いの靈験も得られず、日本人はとうの昔に死に絶えていたでしょう。

 そうならないように「日巫女」は生身の女性としての人並みの幸せを捨てて日々の祭祀に努め、それでも天候に異変が生じると、ダムや水道のない時代に水不足で生死の瀬戸際に追いやられた衆人の視線を一身に浴びていたことでしょう。
 もし雨乞いの靈験が得られなかった場合、「日巫女」は共同体の中でどのような運命を辿ったことでしょうか?
 それほど「日巫女」の日常の祭祀も特別祈祷も、決死のものがあったと想像されます。
 そのようなことの積み重ねがあって、今の私たちの生命もあるわけです。

 このような意識を持ち、日本の信仰思想を探究していくことは、諸外国との交流が今後一層拡大、深化していく趨勢において極めて重要なことだと、かつてロシアで大学院生時代に国際移民の政治的問題をテーマとしていた私は強く感じました。
 それが過去20年近く社寺巡拝をしながら日本の信仰思想について探究し、今ここに思うところを綴っている主な動機の一つです。

「玉」によりそう「日巫女」ー玉依毘賣命

 さて「日巫女」が処女性と母性を併せ持ち、太陽神の妻となる信仰思想の好例として、海神の娘、玉依毘賣命(たまよりびめのみこと)の神話があります。

 古事記上巻の終盤に、太陽神天照大御神の曾孫の山佐知毘古(やまさちびこ)と結ばれた海神の娘の豊玉毘賣命(とよたまびめのみこと)は御子の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)をお産みになりますが、その時に和邇(わに)の姿になっていたのを山佐知毘古に見られたのを恥じて海にお還りになります(和邇については諸説あり)。

豊玉毘賣命が鎮まる福岡県新宮町の相島の南端(龍王石あり)に沈む太陽(2023年6月16日撮影)


 そこで、妹の玉依毘賣を養母として遣わされます。
 玉依毘賣に関して、それ以前に結婚されていたという話はなく、処女のまま、母性が強調される養母となられたことになります。
 そして御子の鵜葺草葺不合命が成長されるとその妻となり、人皇初代神武天皇も含む四柱の御子神をお産みになります。
 つまり玉依毘賣は処女のまま太陽神天照大御神の玄孫(鵜葺草葺不合命)の養母となり、後に妻となり、初代天皇の母となられたのです。
 このように玉依毘賣は「玉」(太陽の子孫)のお側にずっとよりそっていらしたわけですが、そのことが「玉依」の由来ではないかと思われます。

太陽によりそう雲と日暈(豊玉毘賣が鎮まる相島への新宮渡船場近くで2023年6月17日朝撮影)


 昔話の設定によくある、子のないことを悲しむ「老夫婦」の年齢が40代の初め頃だったと、かつて読んだ本で知って軽いショックを受けたことがあります。
 昔の人々の感覚では、玉依毘賣を人間に見立てると、10代半ばで処女のまま甥の(母乳は出ないので)養母となり、30歳前後で妻となり、老齢期の40代になる前に何とかギリギリ四人の子を産み、養うのが間に合ったということになります。

 後日詳しく取り上げますが、鵜葺草葺不合命のご誕生の様子や神号は、日本古来の水や農耕の神と考えられる蛇体の宇賀神を連想させます。 
 そしてこの点には、処女の「日巫女」が養母のように太陽神のお世話(祭祀)をし、やがて太陽神の妻となって降水量を調節することで五穀豊穣をもたらし、共同体全体の母親役も務める姿が反映されています。

 また日本書紀では豊玉毘賣はご出産の際に「和邇」ではなく「龍」の姿に変じたとされます。そもそも海神の娘ですので、日本書紀の記述も当然に思われますが、ならば妹の玉依毘賣も「龍女」のはずです。

豊玉毘賣ほかを祀る福岡市東区三苫の綿津見神社の海辺に龍蛇のように並ぶ岩(2022年1月13日撮影)


 このように日本神話の記述からも、「龍女」玉依毘賣に準じる処女の「日巫女」が母性でもって太陽神を祀り続け、やがて太陽神と一心同体の妻のようなレベルに「靈」能力を高め、共同体のために雨乞いの言霊を呼気とともに発し、それに感応
した太陽神が海を温めて神気の籠る水蒸気と上昇気流、すなわち雲と風を起こして地上の人間の生活や農業に必要な雨を降らせるという仕組みが窺えます。

 さらに付け加えると「日巫女(ひみこ=HIMIKO)」のモデルの一つ、玉依毘賣が主祭神の神社で福岡県で最も有名なのは、太宰府市の宝満山(ほうまんざん)に御鎮座の竈門(かまど)神社です。
 宝満山には御笠(みかさ=MIKASA)山や竈門(かまど=KAMADO)山の別名もあります。
 しかも「竈門山」の名は、煮炊きする「カマド=KAMADO」のような山容で、そこからまるで「煙=KEMURI」が上がっているように「雲=KUMO」が絶えないことに由来すると云います。

 このように、「日巫女」玉依毘賣を祀る神社の社号や山名やその由来にも、これまで「龍神考」で注目してきた畢竟「神=KAMI」に収斂しうるK+母音とM+母音の組み合わせが、繰り返し暗示されていることが一目瞭然です。
 ということは、今後の考察においてもK+母音とM+母音の組み合わせには注目し続ける必要があります。


福岡県筑紫野市原交差点付近から望む笠や竈のような形の宝満山(山頂左手に竈門神社上宮/今年1月2日)

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