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那津の鬼門

はじめに

 前回は筑前國一之宮住吉神社(以下、住吉神社)に奉納された鎌倉時代の博多を描いたと云う絵馬「博多古図」の中の「容見天神」と「平尾村」の位置関係が現在の地図と一致しないことの背景に、「二つの容見天神」があることについて述べました。
 住吉神社が御鎮座の岬の軸線の延長上に「容見天神」と「平尾村」の表示があるように見えますが、現在の福岡市中央区平尾は住吉神社の本殿と「容見天神故地」(現、福岡市中央区今泉の余香館)を結ぶ直線から大きく南寄りに逸れています。しかもこの平尾にも「容見天神」と伝わる平尾天満宮があることを知りました。
 大宰府に左遷された菅原道真公が筑前國に到着し、当時「那津」と呼ばれた博多に上陸した場所とされる「容見天神」は歴史的には一ヶ所のはず。しかし信仰思想の上では複数の「容見天神」が同時に存在しうる可能性を探ってみました。
 史実追求の視点からは「あり得ないと思われることが実際にあり得る可能性」を考えてみた結果、平尾と今泉の「二つの容見天神」の位置関係について以下の5点に気づきました:
ア)901年の道真公上陸地点は今泉よりも「四十川」の上流の平尾の可能性が高い
イ)「博多古図」が描かれた鎌倉時代までの約200年間に「四十川」に土砂が堆積し、「津」=船着場が平尾から「四十川」の下流の今泉に移転していたと思われる
ウ)平尾「容見天神」からみて筑前國一之宮住吉神社は表鬼門に位置する
エ)今泉「容見天神」からみた住吉神社は春〜夏〜秋の日の出と朝陽を拝む方位
オ)今泉「容見天神」からみて博多総鎮守櫛田神社は表鬼門に位置する

 以上からも「那津」や「冷泉津」と呼ばれた福岡市中心部に広がっていた遠浅の海の守護に、航海神の住吉大神だけでなく、太陽神の天照大御神の神威も仰がれていたことに気づきました。それは、住吉神社に住吉大神だけでなく天照大御神と神功皇后も祀られていることにも窺えます。そして天照大御神の海の守護神としての性格はすぐ上の兄神でもある住吉大神から継承されたものと考えてきました。

 このような信仰環境の博多に来られた菅原道真公が大宰府に向かう途中で平尾の丘(現在の平尾八幡宮境内)から眺望された時、道真公の目にはどのような光景が映ったのでしょうか?それを今回は追体験してみたいと思います。

菅原道真公が眺望した「博多の街」

 まず前回紹介しました平尾天満宮の御由緒をもう一度振り返りましょう:


「天満天神又の名を容見天神すがたみとの言い伝えがある神社です。(中略)…、昌泰四年二月京都を出発され、瀬戸内海を航海のあと三月博多袖港に入港された菅原道真公は、博多の街は如何なるものかと思われ高い丘より眺めるのが、最上と平尾山麓の丘の下に船を寄せられ、左遷の地に第一歩を印されたのが、ここ平尾天満宮の土地でした(以下略)」

平尾八幡宮の御由緒の中の「容見すがたみ天神(平尾天満宮)」より

 菅原道真公の博多到着が昌泰四年三月ということは現在のグレゴリオ暦で言えば901年の4月になります。桜から藤にかけての季節になります。
「ここ平尾天満宮の土地」とは現在の平尾八幡宮境内であり、八幡宮の本殿の隣に天満宮の祠が祀られています。

平尾八幡宮の社殿と平尾天満宮の祠。菅原道真公はこの地から博多を眺望されたと伝わる。


 菅原道真公は現在の平尾天満宮の土地まで登り、「博多の街は如何なるものか」と遠望されたわけですが、当時の「博多の街」とは、「博多古図」を参考にすると南は「日本第一住吉大明神」(筑前國一之宮住吉神社)から北は「沖ノ濱」の範囲になります。

大博通りに設置の「博多古図」の部分拡大。方位は上が南東なので、左が北東=表鬼門になる。


 ただし現在の平尾八幡宮は境内が社叢に囲まれ、近隣はマンション等が林立していますので、「博多の街」の全景を眺望することはできません。しかし菅原道真公が平安時代にここに登って来られた時は視界が広々と開け、平野部を取り囲む山脈に遮られるまで遠くを見渡すことができたでしょう。そこで地図を使って菅原道真公の目に映ったであろう地形を推測してみましょう。
 次の地図で「キョリ測」機能を使って平尾八幡宮の鳥居の印を始点にして、そこから表鬼門に当たる住吉神社の方へ直線を延ばし、さらにそのまま住吉神社を通過してある程度目星となるような地形を探していきますと、糟屋郡久山町の遠見岳とその南麓の天照皇大神宮が目に留まりました。

●平尾八幡宮のMapion地図
https://www.mapion.co.jp/m2/33.57326436,130.4001454,16/poi=91821661_ipcbl

●筑前國一之宮住吉神社のMapion地図
https://www.mapion.co.jp/m2/33.58587967,130.41369924,16/poi=ILSP0000082423_ipclm

●遠見岳のMapion地図
https://www.mapion.co.jp/m2/33.67711493,130.51154751,16/poi=L0570335

●天照皇大神宮のMapion地図
https://www.mapion.co.jp/m2/33.67023843,130.51199445,16/poi=ILSP0061167054_ipclm


 平尾八幡宮(天満宮)の鳥居マークから遠見岳、また天照皇大神宮の鳥居マークに延ばした二つの直線は、どちらも住吉神社の境内を通過します。
 ということは、平尾天満宮にとって遠見岳や天照皇大神宮も表鬼門になります。ここで平野部が尽きる自然地形からすると、住吉神社より遠見岳の方が「鬼門」=魔界の出入口という印象は強かったのではないでしょうか?

右手の森の奥の山頂の凹凸が目立つ山が遠見岳。左の独立峰は立花山。JR福北ゆたか線車内から撮影。

 大変興味深いことに、遠見岳の山頂、そして天照皇大神宮の鳥居マークから福岡市中央区今泉1丁目のもう一つの「容見天神」(現在の余香館)に延ばした二つの直線は櫛田神社の境内を通過します。

●遠見岳と伊野皇大神宮(天照皇大神宮)のYahoo地図
https://map.yahoo.co.jp/place?uid=eb5d66097a6da1a70a59763d3ddeae5fa196d1a2&q=遠見岳&lat=33.6771327&lon=130.5115442&zoom=14&maptype=basic

●余香館のYahoo地図
https://map.yahoo.co.jp/place?lat=33.58398&lon=130.39896&zoom=18&maptype=basic


 以上から次のように整理できます:
平尾の容見天神(平尾天満宮)の表鬼門<46〜49度>→住吉神社→遠見岳と伊野天照皇大神宮
今泉の容見天神(余香館)の表鬼門<43〜46度>→櫛田神社→遠見岳と伊野天照皇大神宮
*<>内は真東=0度として反時計回りに計測した角度

 こうしてみると、「那津」という港湾の狭義の「津」=船着場としての「二つの容見天神」は、「博多の街」に止まらず、平野部全体を遠く見渡した場合、遠見岳と天照皇大神宮を表鬼門として意識していた可能性が出てきます。住吉神社や櫛田神社はあくまで「博多の街」の範囲内における表鬼門ということになります。
 また住吉神社や櫛田神社にとっても遠見岳と天照皇大神宮は表鬼門に位置する形になります。
 それでは遠見岳の麓の伊野天照皇大神宮にはどんな御由緒があるのでしょうか?

九州の伊勢 伊野天照皇大神宮

 同宮参拝時にいただいた御由緒書『九州の伊勢 伊野天照皇大神宮』によると、御鎮座地の糟屋郡久山町の「猪野」は明治以降の表記で、往時は「伊野」。お宮の正式名称は「天照皇大神宮」です。
 同宮が伊野に御鎮座となる由来は不詳な面もあるものの、「二つの容見天神」や筑前國一之宮住吉神社、博多総鎮守櫛田神社との関係を考察する上で興味深い部分がありますので、そこを抜粋引用します:


「…その一説は、仲哀天皇と神功皇后が香椎御臨幸の時、皇后が近くの山上で撞賢木厳御魂(つきさかきいずのみたま)すなわち天照大神に神託を請われ、見事に遠征の目的を達成されたという有名な話が『日本書紀』にありますが、その山とは神路山、所緑の地としてその麓を伊(猪)野の語源ともなった斎宮(いみの)と称し、ここに天照大神の分霊を勧請したとするものです。
『三代実録』第32巻には、陽成天皇の元慶元(877)年十二月、筑前の天照神に授位のことが記されていますが、これを当宮に比定する見解もあります。しかし、天皇の祀られる皇祖神として、本来は一切の分社を厳禁するという掟が長い間続いていましたので、当地への鎮座はもっと後代となるかも知れません。…」

『九州の伊勢 伊野天照皇大神宮』「伊野天照皇大神宮の由来」』より

『三代実録』の記述が伊野天照皇大神宮を念頭に置いたものかどうかは私にも不明ですが、今は菅原道真公が筑前に到着された901年3月のわずか13年ほど前のことである点にだけ留意しておきましょう。

 次に『日本書紀』の記述にある「近くの山」とは「神路山」とあり、同宮の御由緒書には一の鳥居の奥に見える遠見岳の写真が掲載されています。次の写真は私が昨夕(2023年6月7日)撮影した一の鳥居と遠見岳です。撮っている最中に花壇の中から猫が出てきました。

伊野天照皇大神宮の一の鳥居と遠見岳


伊野天照皇大神宮は遠見岳の登山口でもある


 試しに仲哀天皇の大本営があったとされる福岡市東区香椎の香椎宮の古宮を始点として遠見岳の山頂に直線を延ばしてみると、その方角は26度(真東=0度として反時計回りに計測した角度)となりました。これは福岡市で地平線上の夏至の日の出の方角にほぼ等しいです。

香椎宮のMapion地図
https://www.mapion.co.jp/m2/33.65358343,130.45271848,16/poi=L0706358

 尤も香椎宮古宮からこの方位にはすぐ小高い山並みが続いていますので、夏至の日の出をこの方位に拝むことはできません。日の出はもっと南寄りになり、それは久山町山田に御鎮座の斎宮の方位ではないかと思いますが、現時点は未確認です。

久山町山田の斎宮のMapion地図
https://www.mapion.co.jp/m2/33.65979968,130.49867634,16/poi=ILSP0061186346_ipclm

 斎宮は仲哀天皇崩御後に神功皇后が香椎から移り住まわれた聖母屋敷の南西に位置し、海を隔てた新羅への親征成功の祈願を七日七夜続けられた場所と云います。同宮については別稿で詳しく見たいと思いますが、御祭神に天照大神や住吉三神、神功皇后が含まれている点を特記しておきます。
 なぜなら、今泉の容見天神からみて春〜夏〜秋の日の出・朝陽を拝む方位にある住吉神社の御祭神も、住吉三神、天照大神、神功皇后が重なるからです。

 伊野天照皇大神宮には興味深い点がまだまだ多いですが、ここではもう一つだけ挙げておきましょう。
 それは猪野(伊野)の古来の産土神である水取宮の紹介です。

「むかしは水取権現と称し、祭神は罔象女神・住吉大神・志賀大神であります。神功皇后異国を征し給いし時、皇后を守り給うた神々で、殊に罔象女神は陣中の水を汲んで皇后に納め奉ったことから、水を守護し給う水の神とされています。
 古来、猪野の里の産土神(うぶすなのかみ)として別の場所でお祀りしておりましたが、明治四十三(1910)年八月二十五日、許可を得て伊野皇大神宮に合祀し、現在に至っております。」

『九州の伊勢 伊野天照皇大神宮』「水取宮の由来」』より


  水取宮の跡地は前掲の天照皇大神宮のMapion地図の中の五穀神下宮のすぐ隣、つまり猪野川の屈曲部です。志賀大神は福岡市東区志賀島を本拠とする海人の阿曇族が祖神として祀る三柱の綿津見神。航海神の住吉大神=三柱の筒之男神と三組の双子のようにご誕生になった海神です。


猪野川の皇大神宮そばの屈曲部。この奥が水取宮跡地。


 このように水の女神と海神、航海神が産土神である土地に天照皇大神宮が御鎮座となったことは、住吉神社(住吉三神、天照大神、神功皇后)と天照大御神の奉祀に始まる櫛田神社が「那津」の守護神と敬仰されたことと対応関係にあるのではないかと思われます。
 
 以上を整理するとこうなります:
1)平尾の容見天神(平尾天満宮)の表鬼門<46〜49度>→住吉神社(住吉三神、天照大神、神功皇后)→遠見岳と天照皇大神宮
2)今泉の容見天神(余香館)の表鬼門<43〜46度>→櫛田神社(天照大神奉祀が起源)→遠見岳と天照皇大神宮
3)香椎宮古宮から夏至の日の出方位<26度>→遠見岳=神路山(天照大神に渡海遠征祈願)*今泉容見天神からの春〜夏〜秋の日の出・朝陽の方位→住吉神社
4)香椎宮古宮から実際の夏至の日の出方位?<10度>→斎宮(天照大神、住吉三神、神功皇后)*今泉容見天神からの春〜夏〜秋の日の出・朝陽の方位→住吉神社
5)伊野における産土神の水取宮(罔象女神、住吉大神・志賀大神)と天照皇大神宮のセット=水神・航海神・海神と太陽神のセット→博多における筑前國一之宮住吉神社と博多総鎮守櫛田神社=「那津」の船着場(平尾の容見天神と今泉の容見天神)の守護神
*<>内は真東=0度として反時計回りに計測した角度

おわりに

「那津」と呼ばれた港の守護神を航海神の住吉大神と太陽神の天照大御神とする信仰が、博多における筑前國一之宮住吉神社と博多総鎮守櫛田神社だけに収まらず、福岡平野の北東端にある糟屋郡久山町の遠見岳付近の伊野天照皇大神宮と水取宮、斎宮にも及んでいた可能性が見えてきました。
 換言すれば、住吉大神と天照大御神という兄妹神をセットに信仰することが重視されていたことも示唆しているようです。
 また平尾と今泉の二つの容見天神が筑前國一之宮住吉神社と博多総鎮守櫛田神社を経由して遠見岳を意識していたことに加え、遠見岳は皇室の四所宗廟の一つである香椎宮との信仰上の関わりを窺わせる霊山であることも興味深い発見でした。
 遠見岳を遠くから意識した信仰は他にも発見しましたので、次回はそちらに足を延ばしてみましょう。
 遠見岳を意識して巡拝していくうちに、太陽を実際に目にすることはない真北を向いて太陽神天照大御神を拝む伊勢信仰の意味が徐々に見えてくるような気がしてきました。
 筑前國一之宮住吉神社では住吉大神、神功皇后と共に天照大御神を東方に拝み、博多総鎮守櫛田神社では大幡主大神、須佐之男命と共に天照大御神を西方に拝みますが、遠見岳南麓の「九州の伊勢」伊野天照皇大神宮では天照大御神を北方に拝むことになるからです。



 
 

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