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容見天神と「お水取り」と妙見信仰

那津の表鬼門と裏鬼門

 古くは「那津」や「冷泉津」と呼ばれた海だった今の博多の中心部。その狭義の「津」=船着場から見た表鬼門と裏鬼門について次のように考察してきました:
・平安時代の「津」=平尾容見天神(平尾八幡宮境内社平尾天満宮)付近
・鎌倉時代の「津」=今泉容見天神(余香館)付近

・平尾容見天神の表鬼門=筑前國一之宮住吉神社(住吉三神=航海神/天照大御神=太陽神/神功皇后=仲哀天皇の皇后で応神天皇の母)
・住吉神社の境内は今泉容見天神から春〜夏〜秋の日の出や朝陽を拝む方位
・航海神だけでなく太陽神も海や船着場の守護神

・今泉容見天神の表鬼門1=博多総鎮守櫛田神社(天照大御神/大幡主大神=伊勢の神宮に用地を奉り、越国を平定した大若子命/須佐之男命=天照大御神の弟)
・今泉容見天神の表鬼門2=山田邑斎宮(天疎向津姫命=天照大御神/武甕槌神=大国主命の出雲の国譲りを実現させた武神/事代主命=大国主命の子/住吉三神
・今泉容見天神の表鬼門3=遠見岳と伊野天照皇大神宮(天照大神/手力雄神=天岩戸を開いた神/萬幡千々姫命=天照大御神の長男天忍穂耳命の妃で天孫邇邇藝命の母/「水取宮」:罔象女神=水の女神、住吉三神志賀三神=海神を合祀)
・今泉容見天神の裏鬼門=野芥櫛田神社(天照皇大神/大若子命/天児屋根命=天岩戸開きのため祝詞奏上/手力男命/倭姫命=垂仁天皇の皇女で天照大御神の大和から伊勢への遷座に供奉し伊勢の神宮を創建)

福岡県糟屋郡久山町の山田邑斎宮
今泉容見天神の表鬼門に当たる福岡県糟屋郡久山町の伊野天照皇大神宮の鳥居と遠見岳
伊野天照皇大神宮の参道
猪野川に沿って橋の奥に進むと水取宮跡、橋から右手に行くと遠見岳登山口=伊野天照皇大神宮参道。
伊野天照皇大神宮に合祀されている水取宮の跡

 因みに前回は触れずじまいでしたが、平尾容見天神の表鬼門から正反対の方向=裏鬼門に延ばした直線は、福岡市早良区西油山に御鎮座の海神社(御祭神は元々は志賀三神、今は豊玉彦命)の辺りに至ります。「津」=船着場の守護神として海神が平尾容見天神の裏鬼門に位置するのです。油山は福岡の代表的名山の一つ。よく目立つ山でもあり、航海の目安となったことは想像に難くありません。

福岡市の大濠公園(昔は海と繋がっていた草香江)から望む油山(写真中央左寄りの山)。中腹には海神社。

 ここまで書いた中で太字で強調した神々に注目してください。天照大御神住吉三神志賀三神(または豊玉彦命)が繰り返し登場し、まさに狭義の「津」=船着場の表鬼門と裏鬼門が太陽神と航海神、海神に守られていたことがよく判ります。

 他の神々にも注目すると、博多総鎮守櫛田神社の須佐之男命は神話の中で父=伊邪那岐命から海原を治めよと命じられ、山田邑斎宮の事代主命は漁業の神でもあり、伊野天照皇大神宮に合祀されている水取宮の罔象女神は水神です。

 また山田邑斎宮に祀られている武甕槌命と野芥櫛田神社の御祭神の一柱、天児屋根命は、藤原氏の氏神として有名な春日大社の神々でもあります。『春日龍神』という能の曲目がありますように、春日信仰は龍神信仰とも密接な関係があります。龍神は水神でもあり、池、湖、川、海に鎮まると信じられ、そこから海神や航海神としての崇敬も寄せられてきました。
 その龍神信仰の篤い春日大社の本殿や若宮神社(天押雲根命=天児屋根命と比売神の子)の傍や、かつては春日大社と一体だった奈良の興福寺と猿沢池の近くには手力男命を祀る祠がありますが、手力男命は前述のように伊野天照皇大神宮と野芥櫛田神社の御祭神にも加えられています。
 因みに春日大社では、本殿に祀られる四柱の神々のうちの比売神は天照大御神のことであるとも伝えられてきています。

 こう見てきますと、那津の鎌倉時代の船着場=今泉容見天神の表鬼門と裏鬼門を守る神々のほとんどが海や水、漁業、龍神と関わりが深い神々であることも判明します。

 平安時代の船着場と考えられる平尾容見天神にとっての表鬼門の守護神は筑前國一之宮住吉神社だと冒頭に記しました。それでは平尾容見天神にとって博多総鎮守櫛田神社はどのような位置にあるのでしょうか?

平尾容見天神と博多櫛田神社

 この点を考察するため、左遷先の大宰府に向かう菅原道真公が船を降りて、今は平尾八幡宮が御鎮座の小高い丘に登って博多を一望されたという故事を、私たちも追想してみるのが良いのですが、現在は平尾八幡宮の境内から博多を一望することはできません。同宮の近隣もアパートやマンション等々ビルが林立しており、また博多はすでに海ではありません。

菅原道真公が博多を眺望された丘に御鎮座の平尾八幡宮。左奥が平尾天満宮(平尾容見天神)の祠。


 そこでYahoo!マップで平尾容見天神と博多櫛田神社の位置を調べてみましょう(ここでは便宜的に、平尾容見天神の位置は平尾八幡宮の本殿としています)。
 以下はこの2地点の地図のURLですので、皆さんご自身で両者を直線で結んでみてください。

平尾八幡宮(平尾容見天神):

https://map.yahoo.co.jp/place?gid=OaUtIpbv552&lat=33.57342&lon=130.39598&zoom=15&maptype=topography

博多櫛田神社:

https://map.yahoo.co.jp/place?gid=JtMycOOuI7E&lat=33.59297&lon=130.40996&zoom=18&maptype=basic

 この直線の方角は、真北=0度とすると時計回りに25度弱(23〜24度)。この角度にピンとくるものがありました。
 それは北斗七星の大きさです。
 北斗七星について改めてインターネットで調べると、その形状は「柄杓」に喩えられ、水が入る「杓」の大きさが約10度、手で持つ「柄」の大きさが約15度、合計約25度、という説明をよく目にします。
 密教(『仏説北斗七星延命経』)では、北斗七星を構成する星々は「杓」の先端から「柄」の後端へ順に次のように名付けられています:
貪狼星/巨門星/禄存星/文曲星/廉貞星/武曲星/破軍星。
 そして貪狼星から巨門星、禄存星、文曲星までが「杓」、文曲星から破軍星までが「柄」、文曲星が「杓」と「柄」の継ぎ目となります。

 アナログ時計は針が一日に時計回りに2周しますが、北斗七星は北極星を中心に反時計回りに一日で約1周するので「北の大時計」とも呼ばれているようです。
 
 前述のように平尾八幡宮境内(平尾容見天神)からみた博多櫛田神社は真北から時計回りに25度弱の方角に位置しています。
 ということは、博多櫛田神社は貪狼星(北斗七星の先端)がちょうど真北に来た時の破軍星(北斗七星の後端)が見える方向に位置していることになると考えられますが、実際は一番目の貪狼星より二番目の巨門星がわずかに先に真北(北極星の真上)に来ます。貪狼星と巨門星は北斗七星の「杓の側面」を象り、巨門星は「杓」の側面と底面の接点となります。したがって巨門星が真北に来る時の破軍星が見える方向に博多櫛田神社がある形になります。
 次の写真は今年5月9日20時23分に福岡市近郊でスマホで撮影した北極星とそのほぼ真上に巨門星が来た時の北斗七星の写真に加工を施したものです。
 北極星=白、貪狼星=赤、巨門星=橙、禄存星=黄、文曲星=緑、廉貞星=水、武曲星=青、破軍星=紫の色違いのドットをそれぞれの星に重ねています。
 そして巨門星と北極星を結ぶ直線を引いています。

北極星とそのほぼ真上に巨門星が来た時の北斗七星(2023年5月23日20時23分、福岡市近郊)

 この位置関係は偶然ではないと思われます。
 北斗七星の貪狼、巨門、禄存、文曲の四つの星々は「水が入る杓」の部分です。それが真北(北極星の真上)にくる時は、「柄杓が下を向く」格好になります。
 つまり「杓の中の水が北極星や地上に注がれた時」の状態に見立てられます。まさにその時の平尾八幡宮(平尾容見天神)から「柄」の後端=破軍星が見える方向に櫛田神社はあるのです。

 ここで平尾八幡宮から真北に延ばした直線が現在の地図でどこに至るかを調べると、それは那津大橋の信号でした。便宜的にYahoo!マップでの那津大橋の信号の対岸にある福岡市民会館の地図のURLを載せましたので、皆さんもご確認ください:
https://map.yahoo.co.jp/place?gid=V1P264k1gek&lat=33.59833&lon=130.39797&zoom=16&maptype=basic

 那津大橋は福岡市の博多区と中央区の境界をなす那珂川の河口付近に架かっており、平尾八幡宮から真北に延ばした直線はその手前(南側)では須崎公園と須崎橋の境界を通過することも判ります。


須崎橋から南に望む現在の那珂川河口付近。この辺りを菅原道真公も舟で遡って行かれたと想像できる。


 この辺りは過去の記事で参考にしてきた筑前國一之宮住吉神社に奉納された鎌倉時代の博多の地図とされる「博多古図」の「冷泉津」を取り囲む細長い砂嘴の先端「洲嵜」(現在の須崎公園辺り)と「沖ノ濱」の間の細い水路に当たります。
 次の「博多古図」の写真はイメージし易いように一部を拡大し、北側(「洲嵜」や「沖ノ濱」)が上になるよう反転させています。

博多の大博通りに設置の「博多古図」のコピー。「容見天神」は「日本第一住吉大明神」の岬の対岸。

 ということは、平尾八幡宮に立つと、現在の那津大橋が架かる那珂川の河口(「博多古図」の「洲嵜」と「沖ノ濱」の間の水路)は北極星と同じ方位に見えることになります。
 また平尾八幡宮と那津大橋を結ぶ直線は、私が鎌倉時代の船着場と仮定してきた今泉容見天神(現在の余香館)のすぐ東側(当時は海側)を通過します。
 つまり次のような位置関係になります:
平尾容見天神(現平尾八幡宮)→今泉容見天神→「洲嵜」(那珂川河口)→北極星
 尚、平尾容見天神と今泉容見天神という二つの容見天神は、「博多古図」の中では一つの「容見天神」という形でトリック的な画法で描かれていることは、以前の投稿「二つの容見天神」で述べた通りです:


 こうしてみてくると、北極星の真上に北斗七星の「柄杓」が真下を向いた状態で昇り切った時、「杓」の中の水が北極星、次に那珂川の河口に注がれる様相が想像できます。
 
 那珂川の水は河口付近では南から北へ流れ出ていますが、那津(鎌倉時代以降は「冷泉津」)は元々遠浅の海です。満潮時は海水が那珂川の河口からかなり奥まで押し寄せてきます。
 前掲「博多古図」で言えば、砂嘴の先端の「洲嵜」と「沖ノ濱」の間の水路から海水が流入、「日本第一住吉大明神」の真下の「汐原」(現在の福岡市南区塩原)辺りまで遡上していたと、筑前國一之宮住吉神社で聞いております。ちなみに塩原の北端から前述の那津大橋まで直線距離で4km超となります。

福岡市南区塩原のYahoo!マップ:
https://map.yahoo.co.jp/address?ac=40134&az=NTY&lat=33.56284&lon=130.42151&zoom=14&maptype=basic
 
 このように那津は細長い丘陵帯+砂嘴と博多の街区が広がる砂丘に囲まれた中で川水と海水が混じり合う遠浅の汽水域だったのです。

 すると、北斗七星の「柄杓」から注がれる水はまず北極星、次に那珂川の河口へ注がれた後、河口から南の今泉容見天神の傍、そして平尾容見天神の方へ遡上してくる、というふうに考えられたのではないでしょうか?
 その様相を、今の平尾八幡宮の境内から北側にある博多を眺望された菅原道真公もご覧になったのではないでしょうか?

「北斗の水くみ」と「お水取り」

 ならば、北斗七星の「柄杓」の中の水は海水なのか?という問いが出てくるかもしれません。結論から言えば、海水でもあり淡水でもあると思います。
 なぜなら河川湖沼の淡水の大元も海水であり、それが太陽に照らされて水蒸気、そして雲となり、やがて地上に降り注ぐ雨水だからです。「アマミズ」とは天から降り注ぐ「天水」という意味も念頭に置いた言葉だと思います。

 また博多と同じく、北に海を望む福岡県北部の宗像市や岡垣町では、9月から11月頃の夕刻から夜、ちょうど北斗七星の「柄杓」が北極星の真下に向かい、水平線のすぐ上を通過して再び上昇していくのが見えます。北斗七星の「柄杓」がまるで海水を汲み上げるかのように見えるので、「北斗の水くみ」と呼ばれるようになりました。

「北斗の水くみ」というのは近年生まれた表現ではありますが、大昔から私たちの先祖たちもこのような見立てを行なっていたのではないかと思います。

 そう思う理由の一つは、奈良の東大寺の「お水取り」を毎年のように拝観に行っていた頃、北斗七星がちょうど真北、北極星の真上辺りに輝いていたのを何度か目にした覚えがあるからです。
 これは現代では毎年3月12日から13日にかけての深夜、具体的には私の経験では午前1時頃だったと思いますが、東大寺二月堂の前の閼伽井屋《あかいや》という建物の中の「若狭井」という井戸から「お香水|こうずい」を汲み、二月堂のご本尊(十一面観音菩薩)にお供えする「お水取り」という神事です。これは正式には「十一面悔過法要《じゅういちめんけかほうよう》」と呼ばれ、そもそもは旧暦二月に行なわれていたので「修二会|しゅにえ」とも呼ばれます。

「お香水」はこれに先立つ3月2日の夜に福井県小浜市の神宮寺で行なわれる「お水送り」という神事で、「鵜の瀬」と呼ばれる遠敷川|《おにゅうがわ》の川淵から流され、10日後に東大寺二月堂前の閼伽井屋の若狭井に届く、とされています。この神事の根底には北の若狭と南の奈良は地下で繋がっているとする信仰があります。
 この信仰が強調されるのは、遠敷川自体は北から南ではなく、南から北に流れ、鵜の瀬は神宮寺より上流側にあり、普通に考えると、鵜の瀬から流した「お香水」は神宮寺の方に戻り、そこを通過して小浜市の市街地を貫流してから北の日本海に出ることになるからだとも思います。


 東大寺二月堂から若狭の神宮寺や鵜の瀬に延ばした直線の方位もほぼ真北になります。以下はYahoo!マップでの東大寺二月堂と若狭神宮寺、鵜の瀬です。
東大寺二月堂:
https://map.yahoo.co.jp/place?gid=Dd9L_R_BnpQ&lat=34.68835&lon=135.84162&zoom=16&maptype=basic

若狭神宮寺:
https://map.yahoo.co.jp/place?gid=HagDnMcL24s&lat=35.46603&lon=135.76775&zoom=13&maptype=basic

鵜の瀬:
https://map.yahoo.co.jp/place?gid=7rz6NNJSwPU&lat=35.44707&lon=135.79055&zoom=17&maptype=basic
 ということは、東大寺では北斗七星の「柄杓」が真北の北極星の真上にかかる頃、つまり若狭の方向に見える時に、若狭神宮寺・鵜の瀬から「お水送り」されてきた「お香水」をご本尊にお供えする神事が「お水取り」と呼ばれてきていることになります。
 遠敷川の川筋が神宮寺の傍ではきれいに南北に通っているのも意味深長ですが、神宮寺から「お香水」が運ばれてくる鵜の瀬は南南東の方位にあります。
 前掲地図の「鵜の瀬」の印に最も近接の遠敷川の川岸を始点とした直線を、「神宮寺」の印から東に延びる参道の延長線が遠敷川の川岸に出る地点まで延ばすと、この直線は真北から西に約22度傾いていることが判ります。皆さんも「距離計測」を使って直線で結んでみてください。
 これも、「お水送り」が北極星と北斗七星を意識した神事であることを暗示しているものと思われます。
 この方位は神宮寺の上空にきた北斗七星の「杓」の中の水が最後の一滴まで、斜めに傾けた「杓」の側面を伝って滴り落ちる様相をも暗示しているのでしょうか?
 またこの時、北斗七星の「柄」の後端(私たちが柄杓を手に取る部位)=破軍星は北極星の真上に来ています。
 このように想像してくると、東大寺二月堂の「お水取り」で御本尊に「お香水」がお供えされた後、お香水が入った柄杓を手にした僧侶が参列者一人ひとりに柄杓を傾けて「お香水」を一滴ずつ分けてくださるのを思い出しました。

 天平勝宝四年(752)に始まった「お水取り」は、東大寺開山の良弁僧正に師事した実忠和尚が現在の京都府笠置町の笠置山で修行中に見つけた龍穴に入っていき、そこから一里程北に進んだところにある兜率天内院で十一面悔過の行法を授かったことが由来だと、天分十四年(1545年)に著された『二月堂縁起』に記されているそうです。


 兜率天内院がどこかは判りませんが、東大寺の二月堂と対応している笠置寺の正月堂と東大寺開山堂(良弁僧正と実忠和尚を祀る)を結ぶ直線は、若狭井のある閼伽井屋を通過します。この直線は、開山堂から見た笠置寺が表鬼門(真北から東に50度)に位置することを示します。
 このことは、実忠和尚が笠置山を東大寺の表鬼門として意識して修行をしていた可能性を暗示してもいるのではないでしょうか?
 以下は、Yahoo!マップでの東大寺開山堂と笠置寺の地図のURLです。「距離計測」機能を使って、直線で結んでご確認ください。

東大寺開山堂(「新禅院」から南西に連続した建物):

https://map.yahoo.co.jp/place?lat=34.68909&lon=135.84350&zoom=19&maptype=basic


笠置寺正月堂:

https://map.yahoo.co.jp/place?lat=34.75426&lon=135.94261&zoom=17&maptype=basic


 さらに笠置寺の北を東から西へ流れる木津川をやや西に下ると、京都府和束町と木津川市の境界に妙見山が見えます。この山頂は東大寺開山堂から見て時計回りに約25度の方位、北極星の真上に北斗七星の巨門星が来た時の破軍星の方位にあるのです。北極星+北斗七星への信仰が仏教的には妙見信仰と呼ばれてきたことからも意味深長なものを感じます。

Yahoo!マップでの妙見山の地図:

https://map.yahoo.co.jp/place?gid=WFZDyUPOCgU&lat=34.68909&lon=135.84350&zoom=13&maptype=basic

 このように、東大寺の「お水取り」とそれに先立つ若狭神宮寺の「お水送り」が北極星+北斗七星への信仰=妙見信仰の一形態である可能性が見えてきました。
 特に春先に北極星の周りを東から西へ周回する北斗七星が北極星の真上に重なる頃に、東大寺では北の若狭神宮寺から送られた「お香水」を汲み取り、二月堂のご本尊=十一面観音にお供えする神事であることに気づきました。

 この点は、福岡県北部において秋に北斗七星が北極星の真下に来る時に、まるで海水を汲み取るかのように見える「北斗の水くみ」と対応する可能性を示唆してもいると思います。
 なぜならば、現在の平尾八幡宮が御鎮座の小高い丘から見て北側に広がる那津を眺望されたという菅原道真公は、神仏習合思想では十一面観音とする信仰があったからです。
 ということから、以下のような対応関係を私は思い描いています。
各地点の位置関係:
・東大寺二月堂(十一面観音)→<北>→鵜の瀬&若狭神宮寺→北極星&北斗七星
・容見天神=菅原道真公(十一面観音)→<北>→那珂川河口→北極星&北斗七星

「お香水」の流れ:
・北斗七星→<下>→北極星→<下>→若狭神宮寺で湧出、鵜の瀬からお水送り→<南>→東大寺の若狭井でお水取り→十一面観音
・北斗七星→<下>→北極星→<下>→那珂川河口からお水送り→<南>→今泉と平尾の容見天神の付近でお水くみ→菅原道真公=十一面観音

「お水取り」が、それを始めた実忠和尚とその師良弁僧正が祀られる東大寺開山堂の北東に位置する笠置寺の龍穴からもたらされたことは、妙見信仰だけでなく鬼門信仰も意識されていたことを暗示しています。
 また東大寺の「お水取り」と福岡の容見天神の信仰には意外な共通項もあることが見えてきました。
 しかし今回はいつもよりだいぶ長くなってしまいましたので、奈良の東大寺の「お水取り」と福岡の容見天神との鬼門信仰の関連、そして鬼門とはそもそも何かについては、次回考察してみたいと思います。


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