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風景が風景を受容する
大阪のフェニーチェ堺で幻灯劇場 音楽劇『鬱憤』をみてきた。
感染症流行下のわたしたちの不安を描いた群像劇。
演劇は、基本的に目に見えないものを目に見えるものをつかって観客といっしょに見ようとする行為、だと思っている。
舞台上にある有限のもの、それをみる有限の観客が、目には見えない記憶だったり感情だったり、この客席にいない人のことを見ようとしたりする。(見えてしまう)
それが、演劇の面白いところの一つだなーなんて思っていて、今回も『不安』を見ようとするなかで多くの有限な登場人物たちと出会うことができた。
彼らが舞台上に並べられ配置された風景は、視覚的に美しいだけでなく、その配置に何か特別な意味があるような気がしてくる。
演劇は観客にとっては風景で、遠くからみたら、わたしたちも地球という舞台上に乗っている風景なのかもしれない。
わたし自身が風景の一部でありながら、演劇という風景を受容する行為は、風景が風景を受容するということになる。
混ざり合わないかもしれない2つの風景が思わぬ絶景を生み出してくれるかもしれない。
演劇をみるのはお金がかかるのでなかなか頻繁に足を運べるわけではないんだけど、風景を受容するつもりで劇場に向かう足取りはいつも軽い。
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