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生活の(居)場所
ただ居ることがむずかしい。
飲食店はお金を払うことでそこにいていい安心を得られる。
お金を払わずにそこに居続けられてる空間のなんと少ないことか。
家にも、同じような、ただ居ることへの難しさを感じる。
家賃を払っている、という時点でお金は発生しているのでそこにいていい権利みたいなものは獲得しているはずなのに、なぜだか、ただ居ることができない。
スマホを触る、音楽を聴く、なんかしなくてはいけないことがある気がしてそわそわする、ただそこに居る、ということがなぜこんなにも難しいのだろうか。
居ることの練習が必要な気がする。
金銭を必要とせず、ただただそこに居ていい場所で、居続けてみるという練習。
金銭を介する限り、そこには、お金を払える人/払えない人の分断が生まれてしまう。
となると、やっぱり自然なのか?
でも、自然では一時的にただ居ることはできても、自然の中に何週間も何ヶ月間もいれば、次の月の生活費のことが心配になってきて、やっぱりただ居ることができなくなってしまう。
居ることの重要性は、わたしはわたしでいいんだ、という肯定感を生み出してくれると思う。
それは何者になる必要はなく、ただそこに居ていい、という権利。
本来は保障されているはずの権利。
ただ居るためには、自分の人生に対してすべての責任を持つ、ということから始まる気がするけど、それはめっちゃめちゃにハードルが高い。
自給自足?
ハードルが高い。
悩ましい、ただ居ることへの険しい道のり。
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