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記憶の中の落語家(6)四代目桂文紅【*】

[画像は、四代目桂文我編『桂文紅日記 若き飢エーテルの悩み』(青蛙房、2009年)より]

 私が高校落研時代(1970-73)に通っていた道頓堀角座、そこで生で聴いた落語家として、すでに松鶴・米朝・春団治を取り上げた。同じ頃に生で聴いた落語家を思い出すと、森乃福郎・桂米紫・笑福亭花丸・桂文紅・桂文我・桂扇朝(歌之助)...。その中から、今回は桂文紅を取り上げる。
 立命館大学卒業の上方落語界初の「学士落語家」であり、「青井竿竹」というペンネームで放送作家としての仕事もしていることは承知していた。しかし、落語家としての系譜については当時は知らなかった、というよりも関心がなかったというのが偽らざるところである。その語りについても、すこしくぐもったような声で滑舌も決して良くなく、どちらかと言えば「聴きづらい」落語家という印象であった。

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  公益社団法人・上方落語協会では、協会員を上図のような系譜に分類している。文紅は、この中では「桂春団治一門」に位置づけられているが、没年以外の情報はない。そこで、Wikipediaの記述を引用すると・・・

1955年3月、4代目桂文團治に入門。桂文光を名乗り、同年8月に大阪松島福吉館で初舞台。1959年2月、4代目桂文紅を襲名。

 ついで、4代目桂文團治については、

1949年ごろ、4代目文團治を襲名(実際には戦中、地方巡業の時などには勝手に文團治を名乗っていた模様。兄弟子である3代目米團治、その弟子4代目米團治とも大きく育った名跡である「米團治」を止め名としたため)。戦後は半ば引退した形であったが、上方落語界の人材が払底する中、橘ノ圓都らと共に長老として再び高座に上がることとなった。なお上方落語協会が発足すると顧問を務めた。

 以上の記述からすれば、米團治系統として桂米朝一門に入れた方が良いように思えるが、このあたりは今後ちゃんと勉強したいところだ。

 さて、その高座には何度も接しているのだが、はてどんな噺を聴いたかと言えばほとんど思い出せない。唯一記憶に残っているのが「鬼薊(おにあざみ)」、鬼薊清吉という義賊の生涯を扱った人情噺。画像を借用した四代目桂文我の著書によれば「このネタを、直に稽古してもらったのは、三代目桂南光兄と、私くらいだと思う」とのことである。これもWikipdiaを引用すると・・・

講釈ネタで、上方落語には珍しい人情噺である。前半部の清吉が引き起こす家庭内騒動の件は、東京の六代目三遊亭圓生が演じた長編人情噺『双蝶々』の発端部と同じであり、何らかの関連性が見られる。後半部の安兵衛と清吉との会話は、はめものが入り芝居がかった演出がとられている。
なお、清吉が親の元を去ったあと、「このあと、おまさは気に病んで死んでしまいます。三年後、世をはかなんだ安兵衛が橋から身を投げようとしたのを、清吉が助けるという因果となり、清吉は金持ちの家に入り貧しい者には入らず盗んだ金子を与えるという、義賊のようなもので。『武蔵野に はびこるほどの 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる』という辞世の句を詠んで、三十一歳を一期として刑場の露と消える、鬼あざみの発端の一席…」と講釈風の説明を入れてこの噺は終わる。
四代目桂文紅は師の文團治から直接この噺を伝授してもらったが、晩年は訥々と語るいぶし銀のような芸で親子の情愛を演じ、高レベルの上方人情噺を観客に満喫させていた。

 私個人は、高校卒業以降その高座に接したことはない。それゆえ、「晩年は訥々と語るいぶし銀のような芸」という記述に実感はない。それでも、師匠・文團治が戦後滅びかけた上方落語復興に貢献したのと同様、後輩たちに文團治系統の噺を伝える努力をされたことは間違いない。今となっては、もう少し早く関心を持つべきであったと、少々後悔している。

【*】略歴(Wikipediaより

4代目 桂 文紅(よんだいめ かつら ぶんこう、1932年4月19日 - 2005年3月9日)は、大阪の落語家。出囃子は『お兼晒し』。大阪府生まれ。四條畷中学、大阪府立寝屋川高校、立命館大学文学部出身。本名:奥村 壽賀男(おくむら すがお)。72歳没。上方落語の世界初の大学卒業の噺家。・・・