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Innocent Forest「灯の鳥」

 いつからこうして歩いていたのか、もうわからない。
 夜が来る。日が落ちる。休む場所を探さなくては。
 そう求めてからどれほどの時間が経っただろう。
 あたりは暗く、あてどなく歩みを進めている。
 目に触れるものはすべて木々。
 空は見えなくなって久しく、生き物は気配だけが濃密に漂って、けれど決して姿を現さない。それが何者かに見張られている心地の悪さになってこの身にまとわりついている。
 子供の頃に暗闇を怖がったような感覚を久しぶりに味わった。懐かしく、でも歓迎できない、原初的な不安に押しつぶされそうだ。疲れを感じて手をついた、樹木のざらついた表面は冷たく僕を拒絶する。
 ──どうして森に来たのだろう。
 今になって途方に暮れた。
 帰り道が定かでなくなって、急に不安になっていた。
 だから最初からやめておけばよかったのに、己の考えの浅はかさをいまさらなじった。
 目的があってここに来た。
 噂話か、あるいはおとぎ話に聞いたことがある。
 この森で、人はひとつ、記憶を捨てられる。
 忘れたいことがあった。
 何を忘れようとしていたのか、もう忘れてしまった。
 目的を果たしたのだろうか。わからない。
 ただもう一度歩き出す。
 どこかへたどり着くために。
 何かを探し出すために。

 1.

 鳥の鳴き声をはじめて聞いた。
 森に踏み入ってから一度も生物の鳴き声を耳にしなかった。だから、それを何かの合図のように感じて歩みを速めた。
 足元にからみつく羊歯を踏み、のたうつ木の根につまずきよろけ、それでも確かに前へと進む。
 一歩、踏み込んだ。
 途端に日が差して、反射的に瞼を閉ざす。
 ──明るい。
 日暮れを迎えたと思ったが、木々が日差しを遮っていただけだったようだ。
 あるいは知らぬ間に夜通し歩いて朝を迎えたのか。
 そこは、木々が除けたようにひらけた空間だった。
 ぽつんと一軒、屋敷が建っている。
 庭先に色とりどりの花が咲き、サンルームのガラス窓が日の光を照り返して輝く。唐突に立ち現れた牧歌的な光景を、夢のように感じて立ち尽くした。
「──あ」
 再び鳥の鳴き声が聞こえ、考えるよりも早く姿を探した。見上げた二階の窓辺で小鳥が鳴いていた。
 今まさに空から帰ってきて、差し出された誰かの指先で羽を休める。鳥を迎えた白いひとさし指は、小さなその子を鳥篭へ導き戸を閉めた。
 何もかもが優しい仕草で行われ、鳥と人の間には強い信頼関係が結ばれているように感じられて不思議だった。
 指をたどって姿を見た。
 女の子だ。髪も肌も褪色したように淡い。
 襟元に結んだリボンが髪よりもおおげさに風にゆれている。僕を見つけるとやわらかく微笑んで、窓辺から姿を消した。
 ほどなく、玄関が開き、彼女が現れる。活発そうな膝小僧をズボンの裾から覗かせた姿は、窓辺を見上げたときの印象よりも少女を幼く見せる。
 十代の半ばだろうか、もっと幼いだろうか。まだあどけない頬がふっくらと柔らかそうで、そこに笑みを綻ばせ、彼女は手を差し伸べた。
「はじめまして。よく来たね。どうぞ休んでいって。歩き疲れただろうから」
 呆然と立ち尽くす僕の手を引いた。
 彼女は警戒心の欠片もなく見ず知らずの相手を部屋へと招き入れる。少女のなすがまま、案内されてソファに腰掛けた。ガラス越しに森を一望できる、サンルームの応接間だ。
 ソファとテーブル、壁に沿って並べられた植物──それ以外はすべて空洞の、高い天井をもつ贅沢な部屋だ。暖かな日差しに包まれて、一瞬、森への恐怖心を忘れた。
 ずっと、ここへ来たかった気がする。
 この光に身を浴したかった。
 目を閉じると少女の声が聞こえた。
「大丈夫。きみの目的は果たされた」
 気負うでもない、なにげない囁き声だ。
 最も欲していた言葉を得られた。
 そう思えて、僕は安堵をもらす。
 ひと言、知らぬ間に声になっている。
「……そうか。よかった」
 飲み物を運ぶよ、と少女は言った。
 けれどその言葉は遠い場所から響いた気がして、僕はまともに答えられない。強い眠気に襲われて、目を開けることができなかった。


     ◆

 ケイ、朝だよ。もう起きて。
 そう優しく揺り起こす声を、聞いたように思う。
 ──あれは、一体誰の声だろう。
 すごく優しい声だ。
 その声に僕は天にも上る気持ちになる。
 その声さえあれば、僕は何も怖くない、大丈夫。
 どこへでも行けるし、何にだって挑戦できる。
 心強く頼もしい、その声は──
 一体誰のものだっただろう。
「……」
 目が覚めたけれど、瞼が重い。
 まだいくらでも心地よく眠り続けられるような気がした。
 膨らんだ枕と厚く柔らかい毛布に全身を優しく包まれて、親鳥に温められる卵の気分だ。
 深く呼吸をすると、幸福感に満ちたまどろみが少しずつ引いていく。もう眠ってはいられない。
「……ここ、どこだ」
 見知らぬ部屋にいる。
 こんなに寝心地のいいベッドも身に覚えがない。
 服は森に入った旅支度のままだが、ブーツもジャケットも取り去られ、首元はボタンから解放され、眠りを邪魔しないような配慮がなされていた。
 けだるい身体を起こす。
 まだ疲れは残っているけれど、心地いい運動をしたあとのような、どこか清々しい感覚だった。
 森で迷って、屋敷にたどり着いた。
 夢ではないか、と即座に思う。
 少女に出会った。
 鳥篭に、鳥を受け入れて……微笑んだ。
 その光景が妙に非現実的に見えて、夢ではないかと疑った。そうではないのなら、ソファで寝入ってしまった僕を、一体誰が運んだのだろう?
 身を起こして部屋を見渡す。
 窓から森の木々が見えた。
 時刻はよくわからない。でも、空は明るい。
 最低限の調度品は長らく使われた形跡がなく、それにしてはベッドは清潔に保たれている。もう一度潜り込んで眠ってしまいたいほど毛布はやわらかく温かい。
 誘惑よりも好奇心が勝ってベッドを出た。
 ブーツを履いて、窓ガラスが歪んだ日差しを投げる床の上を歩いて、ドアを開く。
 埃っぽい空気に満ちた廊下が続いて、左右のどちらかが昨日案内されたサンルームだと推察した。
 明るい光の満ちるほう、暗い影に続くほう。おそらく前者だろうか。首を伸ばして様子を窺う背中に、
「お目覚めですか、お客様」
「わっ」
 唐突に声をかけられて、振り返る。
 影になった廊下から背の高い女性が現れた。
 黒い髪をきっちりと編み込んでいる。
 黒いワンピースに白いエプロンと、全体の印象が二色で色分けされたような女性だった。
 ふたり目の住人に遭遇して妙に安心した。あの子がこの屋敷にたった独りで暮らしているわけではないのだ、と判ったからだ。
「あ──もしかして、僕を運んだ?」
 ほかにも言うべきことはあるだろうに、やっと出てきたのはそんな質問だった。
 男をひとり、彼女の細腕で運んだのかと思うと申し訳なくなる。重たかったに違いない。
「はい。不躾ながら、客室までの移動および衣類の着脱をお手伝いさせていただきました。ご了承ください」
「ああ、いや、それは構わないよ。ありがとう。面倒をかけてすみません」
「いいえ。屋敷の客人は手厚くもてなす決まりです。支度ができました、食堂へお越しください」
 侍女は長いスカートを翻し、僕へ向き直る。
「申し遅れました。私、お世話をつとめさせていただきます、メルグスです」
 身に染みついた見事な所作で一礼し、頭を起こす。
 一連の動きも、ともなう表情も、声の調子からもある種の厳しさを感じさせた。つられて僕も、角ばった動きで礼を返す。
「僕は、えっと──ケイ。お世話になります」
 ケイ。それが僕の名前。
 忘れるはずないのに、忘れていたような気がした。
 お世話になると言いながらも、一体どういう経緯で自分がこうなったのか、いまいちはっきりしたことがわからない。
 ただ、昨日の少女の言葉だけが耳に残っている。
『目的は果たされた』
 ──僕はひとつ、記憶を失った。
 何かが欠け落ちたようには思えなかった。不足した感覚はなく、むしろ余分なものが削ぎ落とされて、本来の自分のかたちを取り戻したとさえ思う。
 風邪を引いていた身体がようやく完治したような。重たい服を脱ぎ捨てられたような。
 ──これが、多分、本来の自分のかたち。
 影の落ちる通路を案内されて食堂へ向かう。
 どこから入るのか、足元に不意に踊る日差しが森に息衝く小さな生き物みたいだと思う。
 屋敷の中はとても静かだ。
 メルグスはほとんど足音を立てず、僕も忍び足になって息を殺してあとをついて行く。だから、静寂がいっそう確かに感じ取れる。
 あの女の子は、どこにいるのかな。
 なぜここに暮らしているんだろう。
 ふたりのほかに、住人はいないのか。
 次々に浮かんでは消える好奇心が次第に僕の意識をはっきりさせていく。メルグスに質問しようか。いきなり不躾だろうか。迷っているうちに食堂に辿りつき、椅子を勧められた。
「あの、これは」
 食卓は、広い円形のテーブルだ。
 中央にいくつもの果物を乗せた杯が、周辺にまだぱちぱちと音を立てる焼きたてのパンが、隣には注ぎ口から湯気の上るポットが並んでいる。肉料理は見当たらず、そのほとんどが野菜や豆、果実のみで構成されていた。どれも作りたての温かさをもって僕の食欲に訴えかける。
「おはよう。よく眠れた?」
 食卓に気を取られていた顔を上げる。
 対面に彼女が座っていた。
 淡い色の、小鳥を迎えた少女。
「あ──うん。それはもう」
「ならよかった。ぼくはルクレイ。きみは?」
「ケイ。……ルクレイ」
 名乗り、相手を呼ぶ。呼ばれて、少女は少しだけ目を細めた。
「まずは食事にしよう。お腹空いてるでしょ?」
 僕の質問したがる様子に気づいて、ルクレイは仕切るように言った。機を逸したようにも思ったが、確かに彼女の言うとおりに空腹だったから、素直にパンに手を伸ばす。傍らで、メルグスがさりげなくカップにお茶を注いでくれて、茶葉の香りにすっきりと頭が冴えていった。
 ひと口かじって、あとはもう夢中で食事をした。
 その様子をルクレイは眩しげに見つめ、時折カップに口をつける。彼女は先に済ませたのか、卓の上の食べ物に手を伸ばさない。旺盛に食事をする僕を見て嬉しそうに微笑む。
「美味しい」
 思わず言葉が口をつく。
 と、ルクレイは給仕をつとめるメルグスを見やって、「だってさ」と言葉をつぐ。メルグスは律儀に一礼して、逆に僕のほうが恐縮してしまう。その様子を見て少女はまた目を細める。
 決して賑やかではないけれど、楽しい食事になった。お腹一杯食べて息をつく。とても落ち着いた心地だ。
 こんな気分になったのは一体いつ以来だろう。
 このところ、ずっと何かに怯えていた気がする。
 ずっと、途方に暮れていた。
 テーブルの上からすべての食器が運び去られ、遮るものもなく少女の姿が見える。
 ルクレイはカップを持ち上げ、温かな香りを楽しむように目を閉じる。何を思うでもなく眺めていたら、瞼を開けた彼女とまともに目が合った。
「ここに住んでいるんですか? 森の中に?」
 勢いで、ようやく、疑問を口にする。
「うん。きみは? 町から来たの?」
「もちろん。だから、驚いた。この森に、誰かが暮らしているなんて想像もしなかったから。だって──」
「だって?」
 ふと口を噤む。
 続く言葉が無礼ではないかと心配した。
 だって、ここは忘却の森。
 人から記憶を奪う森。
 だから、近づいてはいけない。
 踏み入ってはいけない。
 ある者は不意に森へ行き、別人のようになって帰ってきた──そんな話も聞いた。
 森には何か、妙な力がある。
 決して深入りしてはいけない。
 それが町での決まりごとで、誰もが知る事実だった。
 不気味な噂の絶えない森に、まさか人が暮らしていたなんて。
 言葉なく、しかし雄弁な沈黙に、ルクレイはすべてを見透かしたように短く笑った。
「じゃあ、なぜ、わざわざここへ来たの?」
「噂を、聞いて……」
 記憶を失う森。
 ここへ来れば、辛い出来事を忘れられる。
「うん。言ったよね。大丈夫、目的は果たされた。きみはひとつ記憶を失った。よかったね、無事に逃げ延びたんだ。もう何も心配いらない」
「もう──いいのか」
 苦しみから解放された。
 そうだ。無事に逃げ延びた。恐ろしくて二度と振り返りたくない、忌まわしい記憶と決別した。
 それが一体どんな体験だったのか。
 今となってはもう判らない。
 けれど、それで構わないのだ。
 身体はとても軽くなった。
 これが、本来の自分のかたち。
 でも、それならどうして、頬を涙が濡らすのだろうか。
 止めどなくあふれる、これは、痛みなのか、安堵なのか。震える喉から漏れかけた嗚咽を飲み込んで、僕は手のひらで涙を拭う。しゃくりあげて泣くなんて、子供の頃に戻ったみたいだ。
 少女は黙って、そ知らぬふりで見過ごしてくれる。
 慰めも励ましもなく、そこにいて、ただ受け入れてくれる。それが僕には何より嬉しかった。

 2.

「ぼくは、みんなが記憶の喪失に戸惑って道に迷わないよう、ここにいる。休む場所を貸して、帰り道を示す。示すだけだ、どこへ行けなんて押しつけはしないよ」
 庭へ出て、サンルームへ向かう。
 森の様子を眺めながらルクレイのあとに続いた。
 森は途方もなく深く続いているように見える。
 ここからどうやって町へ帰ればいいのか。一度迷った経験が、再び森に入ることを躊躇わせていた。
 怖じ気づく僕に気づいてか、ルクレイは言う。
「行きたくなるまで、休んでいって構わない。みんなそうする」
 驚いた。みんなと呼ぶほど大勢の人がこの森に訪れ、記憶を失い、去っていく。
 噂が事実だったとしても、記憶を捨てたい人間なんてそう多くはないと思っていた。
 前例の存在に勇気づけられるような、むしろ彼らの勇敢さを羨むような、どっちつかずな気持ちだ。
「ここで休んで、それから、みんなはどうするの?」
「それぞれ、って答えは不親切だね。みんな数日ここで過ごす。気が済んだあとで元の町へ戻る人もいれば、住んでいた町とは別の場所を目指して行く人も。森は色んな町に通じているらしいから」
 中は日光に温められた空気で充満し、いきいきとした植物の香りでいっぱいだ。
 改めて天井の高さやガラス窓の数に圧倒される。降り注ぐ光の雨に呆然と天をあおいで立ち尽くす。
「すごいね、ここ」
「うん。お気に入り」
 僕がこの部屋を好ましく思うのが嬉しいみたいだ。
 同じように天井を見上げて、眩しさに瞼を閉じる。
「日の光を浴びて、しばらく休めば、自然と進む道がわかるから」
 その言葉はまだ僕には実感として響いてはこない。
 まだ、時間が必要だ。
「焦らないでいい。慌てないでいいよ。ゆっくり、落ち着いて、それから考えればいい。今はただ──休んでいいよ。身体に、心にも、休息をあげて。いままで充分迷ったでしょ」
 ルクレイはソファへ気楽に身を投げ出す。
 僕もならってお行儀悪く身を横たえる。
 ふたりが半身を並べてもまだ余裕のある、大きなソファだ。横たわって見上げる天井はさらに高い。
 ガラスの天蓋の向こうは青い空。平衡感覚を失って、ふわふわした浮遊感を味わう。そっと目を閉じると、瞼越しにも温かな日差しを感じる。
 居心地がいいな、と素直に思う。
「みんな、記憶を捨てにくる? この森へ」
「うん」
「捨てたいほどの、記憶を……」
「みんな、抱えきれずに、ここへ来る」
「きみはずっと、彼らのためにここで待ってるの?」
「そう。もう大丈夫だよ、心配ないよって、安心させてあげるの。記憶を失ったことでひどく取り乱す人もいる。不安がって混乱してしまう。そうならないように教えてあげるんだ。これはきみが望んだことで、望みは叶ったって」
「後悔するひとも、いる?」
「どうだろう。それはきっと森から帰ったあとのこと。きみは後悔している?」
 僕は目を開ける。
 思いもよらない強い光に反射的に瞼を閉ざす。
 もう一度、おそるおそる目を開けると、何かが日差しを遮って僕の顔に影を落としていた。
 ルクレイがこちらを覗きこんでいる。
 窺うような眼差しには僕を哀れむ色はなく、純粋な興味だけが宿っていた。
 僕のことを知りたがる目だ。
「後悔。わからない。けど今はこれでよかったって気がしている。後悔したくないと思う。僕はここに来てよかった。今、すごく気が楽だ」
 ルクレイは吐息をもらす。
 笑みのような、返事のような呼吸だった。
 言葉はなく、寄り添うでもない。ただそばにいて、同じソファに横になって、無為な時間を過ごした。
 時間は無限にあるような気がした。
 何もしなくていい。何も喋らなくていい。
 ここでは誰も急き立てず、何も催促されず、望むままに休んでいられた。
 ずっと、こういう時間がほしかった気がした。
 眠りとも目覚めともつかない曖昧な意識。現実とも夢ともつかない不可思議な空間。日々の生活から切り離され、今日と明日の狭間でいつまでもまどろんでいられる。
「ケイ」
 不意に、ルクレイが身体を起こした。
 ソファを降りて絨毯を踏む。僕へと向き直って、
「夕食のリクエストをメルグスにしておいで。彼女、久々の来客にはりきってる。もう下ごしらえを始める頃だ」
「ああ、うん。ありがとう」
 促されて身体を起こす。まどろみへの未練は立ち上がった時にはもう消えていた。
 夕食の時間まであとどのくらいだろうか。昼の食事を済ませてから一時間も経っていない気もすれば、もう長いこと横になっていたようにも感じる。
 何もせずに過ごす時間を、これほど惜しくないと思ったのははじめてかもしれない。

 3.
 過ぎた日々は一日のようにも、一月のようにも感じた。
 目覚めるたび、鳥の巣みたいに温かいベッドを新鮮に感じる。生まれる前の鳥は卵の中でこんなふうに温かく柔らかな安心に抱かれているのだろうな、と想像してしまう。穏やかな気持ちでいられて、目は覚めていても毛布を抜けたくない。
 やがて、扉が軽く叩かれる。
 扉は閉ざされたまま、メルグスの呼び声がする。
「ケイ様。お食事のご用意ができました」
「ありがとう、メルグス。行くよ」
 向こうで慇懃に一礼する彼女の姿が見える気がする。気配が去って、それでもしばらく毛布の中でぐずぐずして、ようやく僕は支度を調える。
 借り物の白いシャツ、リネンの心地よいズボン。
 メルグスによって清潔に保たれる衣類たち。
 ここへ来る道で着ていた服はあれから一度も袖を通していない。
 食卓へ到着すると、いつもどおり先に食事を終えたルクレイがお茶を味わっている。
 どんなに早起きをした日も彼女は先に食卓にいて、僕が来るのを待っていてくれた。
「おはよう、ケイ」
「ルクレイ、今日も早いね」
「規則正しい生活をしているから。おすすめだよ」
「僕は、だめだな。あのベッドが心地よくて、ついごろごろしてしまう」
 ルクレイは嬉しそうにメルグスに目配せする。
 それを受けて、メルグスは一礼をする。
 毛布を干すのは彼女の役目だ。ベッドメイクも毎日きっちりと行う。その仕事は一流のホテルマンのように完璧で、日によって出来栄えが異なるようなことはない。
 今朝も不足のない朝食を楽しんでひと息つく。
 メルグスは絶好のタイミングでお茶を運び、団欒のひとときを万全なものにする。
「どう、ケイ。行き先は決まりそう?」
「ええと。正直なところ、まだ何も考えてない」
 町に帰らなくてはいけないと分かってはいた。
 けれど、どうしても現実味を感じられない。
 町がどこにあって、そこでどのように暮らしていたのか、深く考えることが難しかった。
 今までどうやって生きていたのか分からないのだ。
「そう。少し歩いて捜してみるのもいいかもね。森の中へ散歩に行く?」
 ルクレイの問いかけに僕は考え込む。彼女には急かすつもりはなく、僕にもそれは理解できた。
 このまま居続けることはできないと漠然と感じてはいるが、具体的にどうすればいいのか見当もつかない。変化を得るのはいいことかもしれない。
 今日まで充分休んだ。
 少しずつ行動を起こしてもいい頃合いだと思う。
「散歩、一緒に行ってもいい?」
「大歓迎!」
 連れ合いを得て、ルクレイが素直に喜びをあらわにする。森への散歩は彼女の毎朝の習慣だ。僕は付き添ったことがない。森で迷った経験が新しく、再び踏み入ることに抵抗があった。
 けれど、散歩程度の距離ならば──
 ルクレイが一緒なら、迷うことはないだろう。
「そうと決まれば、メルグス、ランチボックスを作って。あ、待って、ぼくも手伝う」
 カップをあおってお茶を飲み干し、ルクレイが席を立つ。
「せっかくだから少し遠くまで足を伸ばそう。日暮れまでには帰るから」
「え、あ──いや、いい、近くまででいいよ。疲れちゃうだろ」
「へいき! ゆっくりしていて。食休みのあとで出かけよう」
 メルグスのあとを追って厨房へ駆けて行く。
 その足取りは元気を持て余した子供そのものだ。
 退屈していたところに新しい楽しみを得た、お留守番の子供。無下にできるわけもなく、僕は苦笑して頭をかいた。

     ◆

 ルクレイは濃紺色のビロードのローブを羽織った外出着姿で、軽やかな足取りで進む。
 ランチの入った籠を下げた姿は、絵本に出てくる登場人物のようで微笑ましい。
 僕は借り物の服に上着だけ自前のジャケットを着て、少女のあとに続く。
 慣れているのか、ルクレイが木の根につまずくことはない。枝に衝突せずに済むのは単純に彼女の背が低いからだ。あやうく目に入りそうな枝先を首を曲げてかわしながら、遅れ気味の足取りで少女に続く。
 森は暗い。日差しを遮る木々の天蓋の下、生き物の姿は虫も獣も見かけない。こちらの動向を窺うように、警戒して息を潜めているような気配があった。
 静寂の合間を、風の通り抜ける音と、それに揺らされる木々のざわめきだけが埋めていく。
 森の息遣いを感じる気がした。
 意思を持って、囁きかけているような。
 導かれている。誘われている。惑わされている──。
 森で迷った日の記憶がよみがえり、僕は少しだけ怯える。
「ついた」
 ルクレイの囁きが、僕から恐怖を取り除く。
 明かりの差す、空間の開けた様子は、ルクレイの住む屋敷の周辺を思い起こさせた。中央にあるのは巨大な樹で、幹の直径を目算するのも難しいほどだ。
「ここに、きみを案内したかったの」
 ルクレイは振り返る。
「ここは森の中心地。ここからどんな場所へも、同じ距離でたどり着く」
 不思議な話だ。
 方々からの距離が均等になる位置を測って中心地を割り当てたのか。
 そうだとしたら、そびえ立つ巨大な樹がここにあるのはできすぎた偶然に思う。
 あるいは、事実はどうあれルクレイは励ますつもりでそう言っているのかもしれない。
「ここで少し考えたら、もしかしたらいい道が見つかるかも。ね、食事にしよう」
 近くに寄ると、巨樹はその規模感をいっそう曖昧にした。見上げても先は見えず、近距離ではほとんど壁のようだ。幹から伸びる枝だけでも森のほかの樹ほどに大きい。巨大樹は、それ一本だけでひとつの小さな森が成立しているように感じられた。
 単純に、これだけ大きな構造物を目の当たりにして圧倒される。力強さに打ち震え、頼もしく感じた。
 見守られている。そう思った。
 すべて──この樹はすべてを知っている。
 適当な根を見つけ、それを腰掛けにしてふたり並んでランチボックスを開く。
 僕には具のたくさんつまったサンドが、ルクレイにはいくつかの果実が詰められていて、魔法瓶から熱いお茶を注いでひと息ついた。
 風が吹くと、木々の合間から差す日がちらちらとふたりの身体の上を撫でていく。
 僕はこの場所を好きだと思った。
 いつしか森への苦手意識は消えていた。同時に、ここを離れていくことに現実味を感じられない。
 小量の食事を終えて、ルクレイは木の根に背を預け、ふりそそぐ光を気持ちよさそうに浴びている。
 視線に気づいて目を開けて、僕を見やった。どう、と問いかけるように。
 確かに変化は訪れた。
 どこへ行こうという欲求は浮かんでこない。
 けれど、己の希望がはっきりした。
「……玄関の蝶番、油を差さなくちゃ。一度ネジを全部取り替えたほうがいいかも、錆びついていると危ないから」
 何の話かと怪訝そうに上体を起こし、ルクレイは根の上に足を揃えて膝を抱えた。
 僕の言葉に耳を傾ける。
「メルグスは家事はするけど、大工仕事はしないだろ。僕がやる。がたついてる椅子の足を直したり、ほかにも、高い場所の埃を払ったり……」
 少しだけ、少女の目に期待が灯る。
 拒絶はされていないと感じて僕は勇気づけられる。
「男手があると、何かと便利だと思うんだ」
 決定的な言葉を聞くまで、自分からは何も言わないつもりらしい。
 少女は抱えた膝に頬をうずめて僕を見ている。
「ここで暮らしても構わないかな。今後は、自分のことは自分でするし、メルグスを手伝うよ。女性と子供のふたり暮らしより、そのほうが少し安全だ。僕、まだどこへ行く気にもなれない。ここで暮らしたい」
 正直な気持ちを伝えた。
 胸に渦巻いていた重たいものが、ふと軽くなった気がした。
「ほんと?」
 ルクレイは囁く。
 何に対する確認か、わからなかった。
 でも、どれに対しても考えは変わらない。
「本当」
 少女は考え込むような目をした。
 思った以上の慎重な反応に心配になる。
 今になって迷惑だとか邪魔だとか、歓迎されない言葉を想定して身構えてしまう。
「ぼくもね、ずっと考えているんだ」
「──何を?」
「ここでの暮らしを、ぼくは気に入っているのだけど……時折、誰かほかの人も一緒に暮らしていたらいいのにって思うことがある。ひとりきりで過ごすのは嫌いじゃないけど、時々すごく退屈なんだ」
 ひとり、とルクレイは言う。メルグスとふたりではないのか。あるいは、彼女くらいの年頃の遊び相手には不足なのだろうか。言葉の細かい意図を推測する。
 その結果、どうやら彼女も新しい住人を喜んでいるようだと理解できた。だから、嬉しくて身体中の血が熱くなったみたいだった。
「ルクレイ」
 感極まって思わず抱きしめる。
 む、と少女は息を詰まらせる。触れる、ルクレイの身体は傍から見る印象よりも細く、頼りない。
 柔らかく、温かい。
 この感触を知っている気がした。
 確かめるように、もう一度、しっかりと抱きしめた。
「ケイ、もう」
 ルクレイがそっと僕の身体を押し返す。
 乱れた髪を払って、少女は彼を見上げる。
 急なハグに驚いた顔だ。戸惑って、少し照れている。
「ごめん。でも、嬉しくて」
「ううん」
 小さくかぶりを振って、きみを歓迎するよ、と少女は言った。僕は彼女の言葉を素直に受け取って、なお喜びを深くした。


 風が少し冷たくなった。
 ランチのあとを片づけて、屋敷に帰る支度をする。
 ルクレイは去り際、大切そうに巨樹の皮を撫でた。
「また来るね」
 あたかも樹に聞く耳があるように囁く。
 それからつま先立ちになると、手ごろな枝にキスをした。まるで口づけを受け入れるように、わずかに枝が垂れて見えたのは、風が揺らしたせいだろうか。
「それじゃあ」
 樹に別れの挨拶を残し、ルクレイは屋敷へ帰る道をたどる。
 歩きながら樹を振り返った。
 大きな、大きな、途方もなく大きな樹。
 こんな樹があるなんて知らなかった。これだけの巨大なものがどうして町からは見えなかったのだろう。話も聞いたことがない。今まで知らずにいたのが不思議でならない。
「ケイ。足元気をつけないと、根につまずくよ」
「ああ、うん」
 ルクレイの忠告へぼんやりと返事をする。
 言われたとおり、僕は木の根につまずいた。

 4.

 ここで暮らす。
 そう決めて、いくつかの行動を起こした。
 まず己の言葉のとおり、玄関の扉を調整した。
 錆びついたネジを磨いて蝶番の軋みを軽減させると、扉の開閉が軽くなった。食卓の椅子を点検し、不備のあるものに手を加える。
 仕事を始める前、こんなことがあった。
 釘や工具を求めて屋敷中を探し回って、どこにも見当たらず疲れ果てて部屋へ戻ると、僕の寝起きしているその部屋にまさに一式揃っていた。
 狙いすましたような出来事にルクレイかメルグスの作為を疑うと、ふたりはそろって「知らない」と首を横に振った。
 森には不思議な力がある。これもそうだろうか、と僕は空想を広げてしまう。
 今日からまた新しく仕事を始めた。
 サンルームの窓拭きだ。
 僕はサンルームを気に入っていた。
 時折手を休めて、きらきら光る天蓋を見上げる。
 部屋中に光が降り注ぐ。優しく、柔らかく。
 この日差しを浴びながら働くのはどんなにいい気分だろうかと思った。思ったとおり──それ以上に、いい気分だ。つい歌い出したくなるほど。
 僕は上機嫌に仕事に取り掛かる。
 サンルームの窓は膨大な数だ。
 すべての汚れを拭うまで何日かかるか分からない。
 先の見えない長期的な仕事があることを今は嬉しく思えた。少なくともこの仕事を終えるまでは、ここに居られる。漠然とそう信じた。
 おつかれさま。
 そう言ったのは窓越しに姿を見せたルクレイだった。どこかへ向かう道すがらで、ガラス窓の向こうで手を振っている。
 続けて、何か伝えようと口を開いた。喋っているのは判るが、厚い窓越しに声は届かず、挨拶以上の内容はまったく伝わらない。
「え? 何?」
 今度はゆっくり口を動かすのだが、唇の動きで言葉を読むような技術を僕は身につけていない。
 首を横にふって肩をすくめると、ルクレイも同じようにして笑った。あとでね、というような言葉を残し、通り過ぎていく。
 もう少し仕事をしよう。
 再びボロきれを手に、窓ガラスに触れる。


 しばらく夢中で掃除を続けて、ふと顔を上げて見た空は快晴の青で、時間の経過がよくわからない。
 ここでは、そういうことはよくあった。
 森の外とは時の流れが違うのかもしれない。
 急かされることなく、焦ることなく、穏やかに過ごしていられる。
 外の空気を吸いたくなって庭へ出た。日差しも直に浴びよう。
 ふと、先ほどのやりとりを思い出して、ルクレイを探し歩く。サンルームの周辺、玄関──もっと足を伸ばして屋敷の裏手へ。
 裏手は菜園になっていて、いくつかのハーブや野菜、小さな果実が育まれている。
 それはメルグスの唯一の趣味だという。
 きっちり整えられた菜園は精密な機械の仕事を思わせる。どれもこれも几帳面に実り、収穫を待っているように見えた。
 菜園のための道具が揃えられた小さな納屋の、ひさしの下に長椅子がある。
 丁度よい日陰の中に、その身体は横たわっていた。己の手を頬の下に敷いて、あどけない顔で眠っている。
「ルクレイ」
 呼びかけると、偶然か、少女は小さく身じろぎをした。
 長椅子の端に腰掛けて、彼女の細い髪をすく。
 指の隙間を流れていく繊細な感触が心地よくて、いつまでも撫でていたくなる。
 あまり触れると起こしてしまいそうだから、手を引いてただ眺めた。
 健やかな寝息が聞こえる。心地よい疲労と規則的な寝息が、いつしか僕をも眠りへと誘った。
 抗う理由もなく目を閉じる。眠りの手前で夢を見た。
 今みたいな時間を知っていた。
 誰かと寄り添って眠る。優しい囁き声が呼ぶ。
 ケイ。
 微笑みを交わす。手と手が触れる。
 温かくて、満ち足りて、何の心配もいらなかった。
 日々は忙しく過ぎて、いつの瞬間も楽しかった。
 明日を待ち望み、昨日をいとおしみ、日々を編む。
 それがあれば、どんなに怖い思いをしても平気だった。帰る場所は絶対に暖かく、優しいはずだから。それがあれば、どんなに途方もないことにも立ち向かえた。何よりも心強い励ましをこの身に受けていたから。それがあれば、暗闇の中を果敢に歩んでいけた。目が潰れても、耳が塞がっても、唇を縫いつけられても、きっと大丈夫だった。
 それがあれば。
 それは一体何だったのか。
 それはここで失った記憶なのか。否、違うはずだ。
 心地よい記憶なら、わざわざ手放すはずもない。
 だからこれは、一度も得たことのない、ずっと欲しがっていた感覚なのかもしれない。ここでなら手に入る──もう手に入れているかもしれないもの。
 何かが欠け落ちたようには思えなかった。
 風邪を引いていた身体がようやく完治したような。重たい服を脱ぎ捨てられたような。
 身体はとても軽くなった。
 同じだけ、以前よりも寒くなった。
 一体何を失ったのだろう。
 ケイ。そう呼ぶ声がする。耳に馴染んだ囁きに、僕の意識は曖昧になる。眠りへ落ちるその瞬間、隣でルクレイが身を起こした。
 急な動作に反応して僕も覚醒する。
 少女はあたかも僕が聞いた幻の呼び声に呼応して目を覚ましたようだった。
 驚いて彼女の挙動を見る。彼女は眠気の名残をひとつも窺わせない機敏さで頭上を仰いだ。
「ルクレイ?」
 たずねる声に、彼女はようやく僕に気づいて表情をやわらげる。
「昼寝、起こしたなら、ごめん」
「ううん。ちがう。鳥が鳴いたから」
「鳥?」
 ルクレイはうなずく。
 僕に構わず急ぎ足で菜園を出て行く。去り際、僕を振り返り「一緒に来る?」と問いかけた。


 屋敷の二階へ、僕は今日はじめて踏み入った。
「ここが、鳥篭の部屋」
 ルクレイが示したのは大きな扉だった。
 コバルトグリーンの塗装がところどころで剥げ落ちて、屋敷の古さを窺わせる。高い位置に丸い採光窓がくりぬかれて、差し込む日差しが床に模様を描く。
 ルクレイは己の襟元に指を差し込んで、それを引き抜いた。リボンで結ばれた小さな鍵だ。
 何の飾り気もない無骨な鍵をドアノブの下の鍵穴にさす。がちゃんっ、と確かな金属音を立てて解錠を知らせたドアを、ルクレイは力を込めて押した。
 僕はなぜか息を殺して見守っている。
 ドアが、開く。
 羽ばたきの音が聞こえた。
 ルクレイに続いて部屋に入る。
 首をもたげて頭上を仰ぐ。
 見渡す限り、部屋中に、鳥篭があった。
 頭上を渡る幾重もの梁に掛けられて、あるいは柱に支えられ、ともすれば床の上にそのまま、鳥篭がある。色も素材もさまざまのすべての鳥篭に、一羽、あるいは二羽三羽、かたちも色もとりどりの、小さな楕円形のかたまりのような、うごめく暖かな生き物が棲んでいた。
「鳥──」
 見たままを呟く。
 ルクレイは迷いない足取りで部屋の中を進む。
 僕も気づいた。鳥が鳴いている。
 その場所を彼女は見抜いている。
 部屋にはあちこちに脚立が立っていて、そのひとつを選んで軽やかに上ると、梁に下がる鳥篭を外して膝の上に置いた。
 抱えるほどの大きさの、円筒型の銀の鳥篭だ。
 ルクレイは額を格子につけて中を覗き込む。
 また、鳥は鳴いた。確かに聞き届けたと伝えるように少女はうなずいた。
 鳥と人の間に心が通じたように見えて、僕は深い感慨にひたる。ただ、言葉を発せず、見守っていた。
 ルクレイは鳥篭を抱え脚立を降り、窓辺に歩む。
 窓を開いて、それから鳥篭の戸を上げると、鳥へ指を差し出す。導かれたように鳥はひとさし指に乗り、鳥篭を出た。
 胸は白、羽は灰、頭を黒い毛が覆っている、几帳面な印象の小さな鳥だった。
 それは惑うように何度か首をかしげ、やがて、止まり木の指から空へ飛び立っていく。
「さよなら」
 別れを告げる言葉が優しかった。
 見送る眼差しは遠く、寂しさと喜びの同居した表情が鳥への親しみを窺わせる。あの日も彼女はこうやって──あの日は、鳥を迎えていた。
「ここは──この鳥は?」
 やっと、僕は声を発した。
 ルクレイもそれまで僕のことなど忘れていたように振り返って「あ」という顔をする。
「この子たちは、森へ迷い込んだ鳥だよ」
 部屋を見渡し、ルクレイは答えた。
 こんなにたくさん、どこから来たのだろう。
 今の鳥は、どこへ行くのだろう。
 不思議だった。
 これだけたくさんの生き物がいて、あるべき匂いがしない。ただ、ほのかに暖かく、静かに息衝く気配だけが部屋にある。
 生きているのだろうか、本当に?
「あの鳥は、どこへ?」
「分からない。巣箱へ帰るのか、空へ帰るのか」
「巣箱から来た鳥なの、みんな?」
 ルクレイはうなずく。
「ほかの巣箱からやってきて、ここに居つく。すぐに出たがる鳥もいれば、ずーっと鳥篭を好む鳥もいる。一度出たかと思えば、また戻ってくる鳥も」
 鳥の去来は頻繁なことなのだと窺えた。
 鳥の境遇をつい己に重ねてしまう。
 森の噂に導かれる人々に似ていると思った。
 鳥たちも、何か忘れたい記憶を抱えて来るのだろうか。そう思うと、あの日に見た鳥が気になった。
 親近感が湧いて、会ってみたいと思った。
「ルクレイ。以前──僕がここへ来た日にも、鳥を迎えていたよね。あの子は、今も?」
「うん。居るよ。ほら、ここだ」
 窓辺を離れ、ルクレイは部屋を歩む。
 この膨大な数の中、どこにどんな鳥が棲むのかすべて把握しているようだ。
 案内に従いそこへ向かう。
 鳥は、支柱から下がった木の鳥篭の中にいた。
 赤い鳥だ。
 羽根にくちばしをうずめ、心地よさそうにまどろんでいる。頭部や喉元に白い模様が散って、翼も所々が脱色したようにまばらな白が混じっている。触れたら暖かそうな印象に、つい鳥篭に指を差し込みたくなった。けれど、安眠する様子がそれを躊躇わせる。
 それでも、あまり僕が見つめるせいか、鳥は小さな頭を上げて観察者の顔を見た。
 目が合った、と思った。
「触れてみる?」
 隣で、ルクレイが問いかける。
「いいの?」
「きみがよければ」
 もちろん、触れてみたかった。だからうなずいた。
 少女は鳥篭の戸を開け、僕に促す。
 おそるおそる手を篭に差し入れた。
 手の甲を鳥へ向け、なるべく小さく縮こまらせた拳で、ほんの軽く、触れる。
 鳥は怯える様子はなく、僕を拒絶することもない。
「温かい」
 思わず口をついた。
 高い体温を感じる。
 まるで灯し火のようだ。
 こんなに小さな鳥なのに頼もしく思えて、むしょうに嬉しくなる。懐かしいものに触れた気がした。なぜだか、とても惹かれた。

     ◆

 何を忘れにここへ来たのだろう。
 捨ててしまいたいほどの記憶とは、一体何だったのか──。
 鳥に触れた幸福な気持ちが一転して、眠れない夜を迎えた。
 こんなに寝苦しい夜はこの屋敷に来てはじめてだ。
 ずっと、触れた熱が手に残っている。
 鳥は温かかった。
 見た目の印象よりもずっと、熱を持っていた。
 母鳥のような毛布も今日は息苦しく、重たい身体を起こす。
 眠れそうにない。
 裸足のまま床を踏んで、足音を殺して部屋を出た。
 どこへ行こうと思ったわけでもない。
 ただこの場所でじっとしていても事態はよくならないだろう。
 屋敷は静まり返っていて、静寂が耳に痛い。時折、森が風に揺らされて潮騒のような音がする。
 足は、気づけばサンルームを目指していた。
 眠れないなら、夜のうちにも仕事を進めておこうと思ったのかもしれない。サンルームの扉を開く。昼のうちに暖められた空気が残っていて、夜の気配が遠ざかる。少しだけ安堵してソファを目指した。
 そこに、動くものに気づいた。
「ケイ?」
 囁き声が呼ぶ。
「……ケイ。どうしたの」
 彼女の呼ぶ名を、ようやく僕のものだと理解する。
「ケイ。それが、僕の名前」
 確かめるように呟く。そうだ、間違いなく僕の名前。
 なぜ今、咄嗟に返事ができなかったのだろう。なぜ、自分の名だと思えなかったのだろう。
「眠れない?」
 ルクレイはソファに身を預け、天井を見ていたようだ。小さなランプに火を灯して僕の道を照らす。
「考えごとをしてしまう」
 導く光を頼りにソファへたどり着く。ルクレイは寝間着のまま、靴をぬいでソファに上がっていた。
 そうして背もたれに首を預けて天井を見上げると、窓から夜空が見える。
 満天の星に気づいてルクレイを見た。彼女はいたずらっぽく微笑んでランプの灯を吹き消す。
 ふ、と吐息の音が聞こえ、あたりは闇に包まれた。
 ほどなく、光を探す目に星空が飛び込んでくる。
 思わず手を伸ばしてしまう。届きはしないと知りながら、でも、伸ばさずにはいられなかった。
「届きそうだ」
「星に? いったい、どんな手触りなんだろう」
 ふたりはしばし言葉を忘れ、星の手触りに考えを巡らせる。
 目が慣れるとランプの明かりがなくても相手の顔が分かる。ルクレイは案じるように僕を見つめた。
「考えごとって?」
「今まで気にならなかったんだ。でも、急に怖くなった。僕はここへ来て何を忘れたかったんだろう。もう忘れてしまったから思い出せない。それが目的だったのだから、何の問題もないはずだ。それなのに、不安になる」
 耳を傾けていたルクレイは、テーブルからマッチ箱を引き寄せて、ランプに再び火をともした。
 にわかに周囲が照らし出される。ソファを立ち、ランプを取ると「ちょっと待っていて」と言い残して部屋を去っていく。
 話を中断されたとは思わなかった。
 自分でも何を言いたいのかまとまっていない。
 不安を吐き出して楽になるかもわからない。
 取り残された部屋は夜と同じ色をして、星空が頭上に瞬いている。
 星はいったいどんな手触りなのだろう?
 僕は想像してみる。それはきっと、昼間に触れた鳥のように柔らかく、熱いのだ。
 心を空想へ飛ばすと混乱した気持ちが落ち着いて、ずっと悩んでいたことをもう一度見つめなおせた。
 一体、己が何を忘れたのか、知りたかった。
 自分はなぜ、その体験を忘れようと思ったのだろう。
 忘れたいほどの嫌な記憶。
 それは誰かに傷つけられた記憶か。
 あるいは、誰かを傷つけた記憶か。
 自分は本当は酷く醜い人間で、最低な行いをして、すべてを忘れるために森を頼ったのではないだろうか。帳消しにして逃げ伸びて、最初からやり直す。全部の失敗をなかったことにして何食わぬ顔でまた始める。そんな、ずるい人間なのかもしれない。
 だとしたらこの屋敷での穏やかな日々や、幸せな瞬間、すべてに泥を塗る気がした。
 少女から親切心を騙し取っているような──それが何より心苦しかった。
「お待たせ」
 侍女を従え、少女が戻ってきた。
 もう夜も更けて久しい時間だが、メルグスの装いは昼間から少しも変わりない。まだ仕事をしていたのだろうか、だとしたらいつ眠っているのか疑問に思う。
 メルグスは銀のトレイに載せたティーセットをテーブルまで運んだ。
「眠れない夜をやりすごすためのお茶」
 ルクレイが囁き声で教えてくれる。白くて丸い鳩のようなポットから、小さなカップに注がれた。
 温かな香りからハーブティだとわかる。精神の安定を促し、気を落ち着かせて眠りへ誘うお茶だ。
「それでは、失礼いたします」
 給仕が済むとメルグスはあっさりと去っていく。
「どうぞ」
 勧められ、カップに口をつけた。
 程よい温度で淹れられた香りのよいお茶は、ひと口で身体中に浸透していくようだ。
「不安はわかるよ」
 ルクレイもお茶を飲み、言葉を続ける。
「記憶は、ひとつひとつが関わりあい連なって、昔から今へと至る。だから記憶をひとつ失うと、すべてのつながりが曖昧になってしまって自分を見失う。でもね、それでもいいから新しくやり直したい人が、この森へやって来るんだ」
 少女は覗き込むような眼差しを投げる。
「きみも、そうでしょ、ケイ」
 名前。ケイ。それを、自分の名だと意識して繰り返す。
 ケイ。そうだ。そうだった。
 ルクレイの言葉はもっともだ。
 僕はもう自分の名前を実感できなくなっていた。
 きっと、失った記憶に関連づいていて、だから薄れつつあるのだ。
「──やっぱり、後悔している?」
 問いに、すぐには答えられなかった。
「……何を忘れたのか、知っておきたいんだ」
 矛盾を自覚しながらも、僕は続ける。
「ここで暮らしたい。こんなに穏やかに暮らせるところは、ほかにないよ。僕はここが好きだ。できることならずっとここで暮らしたい。でも、その前に、もし自分が何かを犯していたなら償いたいと思う。誰かを傷つけたなら謝りたいんだ。じゃなきゃ、ここでの暮らしが、その心地よさが、全部嘘になる気がする」
「そう」
 少女は小さくうなずいた。
 僕の意見を肯定も否定もしない。
 すべて委ねて、干渉しない。
 その態度が僕の決意をいっそう強くした。
 確かめに行こう。町へ戻ろう。
 己の過去を知るべきだ。
「ああ、眠たくなってきた」
 やるべきことを定めて決意を口にしたことで、不安は払拭されたようだ。
 ハーブティの鎮静効果もあったのだろうか。急な眠気に抗って、僕はソファを立つ。
「眠れそうだ。ありがとう、ルクレイ」
「ううん。よかった。おやすみなさい」
「きみは、まだ眠らないの? もうこんなに遅いのに」
「大丈夫。ぼく、昼寝をしたからね。それで目が冴えてるの」
 残りのお茶を飲みながら、ルクレイは答える。
 少し語尾が笑っている。
 つられて僕も笑って、サンルームをあとにした。

 5.

 窓の向こうに柔らかな光が満ちる。
 夜明け前の空は凍りついたような薄青色で、森は紗幕を通したように靄に沈んでいる。
 いくつもの鳥篭の合間にルクレイはいた。
 脚立に腰かけ、その鳥篭と目線を合わせている。
 鳥篭の中で眠るのはケイと触れ合った赤い鳥だ。
 今は安らかに目を閉じ、呼吸のたびに小さな身体がわずかに収縮する。鳥を眺めてルクレイは頬を綻ばせる。その鳥が、あまりに幸せそうに眠っているから。
「あたたかくて、きれい」
 少女は囁く。
 そっと、打ち明け話よりも静かに、眠る鳥へ語りかける。
「幸せな鳥だね。決して悪いものじゃない。怖くもない、汚くもない。そばにいるだけで胸が温かくなる。……だから、さみしくなるんだ。これは、ぼくの鳥じゃないから。きみの巣箱は、ほかにある」
 ルクレイは目を細める。
 まぶしく尊いものを見るように。
 鳥は眠り続ける。夜が明けるまでにまだ時間がある。
 ルクレイは鳥篭に寄り添って、朝を待った。

     ◆

 久しぶりに着ると胸がそわそわした。
 それは、僕がここへ来る道中に着ていた旅支度だ。
 あの日以来一度も袖を通さなかったが、メルグスによって洗濯され、糊づけまできっちり済んでいる。
 遅くに眠りに就いたのに朝の目覚めは清々しかった。やるべきことを抱えたからかもしれない。いつになく前向きな気持ちだ。
 メルグスに起こされる前に食堂に行くと、それでもやっぱりルクレイが着席していて、食後のお茶を飲んでいる。
 いつもより早起きをしたつもりだったから悔しい。
「ルクレイ。おはよう」
「おはよう、ケイ。よく眠れたみたいだね」
 彼の服装に気づき、少女は少しだけ目をみはった。
 落ち着いて微笑みを返す。
「今日、一度町へ戻ろうと思う」
 ルクレイはうなずいた。
 彼女は変わらず否定も肯定も示さない。
 それを、やっぱり心地よく感じる。
「帰って確かめてくる。自分が何を忘れたのか。そうして改めて、きみと暮らしたいって望みを告げるよ」
 宣言した脇でメルグスがお茶を注ぐ。
「もちろん、メルグスともね」
 付け足して、明るく笑った。
 メルグス手製の朝食をいつも以上に大切に味わう。
 それから短い食休みを終えて屋敷を出た。
 ルクレイが庭先まで付き添ってくれる。
「僕が道に迷わないよう、願っていてよ」
「もちろん。ケイが無事に道を見つけることを、ぼくは信じているよ」
 大仰な口調を、つい茶化したくなってしまう。でも、彼女は大まじめな顔で僕を見た。だから黙ってうなずいた。
 僕へ控えめに手を振るルクレイの気恥ずかしそうな見送りが嬉しくて足取りも軽くなる。
 以前のように森を迷うことはないだろう。
 そう彼女の言葉を信じられる気がした。

     ◆

 彼の姿が見えなくなるまで少女はそこに立ち尽くしていた。
 曖昧に振った手をおろし、胸元の鍵を探る。
 己の体温で温まった鍵を服の上から握りしめる。
 これでよかった、と思う。
 屋敷へ戻り、二階を目指した。
 鳥篭の部屋へ。
 襟元から鍵を引き抜き、扉を押し開ける。
 鳴き声が聞こえた。
 羽ばたきの音が、いますぐにでも飛んでいきたいと訴えているみたいだ。篭の中で赤い翼を広げ、内側の白い羽毛をあらわにする。
 ルクレイは篭を鎖から外し、窓辺へと運んだ。
 窓を開くと朝の清涼な空気が部屋に滑り込む。
 差す日はもう明るくて、見上げると眩しいほどだ。
 この空へ、鳥は飛んでいきたがっている。
 戸を開けて指を差し出す。鳥は怯えずに鳥篭を出てきて、一度ルクレイを見上げた。問うように首をかしげる。思慮深さを感じさせる黒い瞳で少女を見つめる。
「そうだよ。きみは巣箱に戻るんだ。ここでずっとは暮らせないよ。そうでしょう?」
 そうっと腕を引き寄せ、鳥に頬ずりをする。
 なんて温かいのだろう。
 こんなに温かなものを手放すのは少し惜しかった。
 けれどルクレイは窓の向こうへ鳥を放った。
 赤い翼を翻し、軽やかに飛び去っていく。眩しくて目のくらむ空へ飛びあがり、森へと向かった。
 一度、甲高い鳴き声を残して、姿はもう見えなくなる。
「さよなら」
 鳥は、きっと彼を追っただろう。
 目に浮かぶようだ。旅支度のケイが木の根につまずきながらもなんとか歩いている。
 彼のもとへ赤い鳥がたどり着く。
「そう。それが、きみの巣箱だよ」
 しばらく窓辺に佇んで、朝の風を受けた。
 前髪をくすぐられ、心地よさに頬が緩んでしまう。
 これでよかった、とルクレイは思う。

     ◆

 いつからこうして歩いていたのか──。
 もうずっと歩いている気がする。
 屋敷を発ってからの時間の経過が分からない。
 過ぎた時は一時間のようにも、一日のようにも感じる。
 目に触れるものはすべて木々。
 空は見えなくなって久しく、生き物は気配だけが濃密に漂っていて、けれど決して姿を現さない。それが何者かに見守られているようで頼もしく感じられた。
 大丈夫。道にはもう迷わない。
 導かれている。信じて歩む。
 ふいに鳥の鳴き声を聞いた。
 どこかで聞いた声だった。
 鳥の声はいつしか僕を呼ぶ囁きに変わっている。
 ケイ。繰り返し、名前を呼ぶ。ケイ。
 ″ケイ、愛しているよ。〟
 唐突に身体が重くなり、もう一歩も歩けないように思った。木に手をついて身を支える。身体が熱く、重い。風邪でも引いたみたいだ。余分な服を着ているみたいだ。
 町への道がはっきり分かる。引き換えに、森の奥の屋敷へと向かう道に自信がなくなった。
 もう二度とたどり着けない予感に胸が痛む。ちがう、この痛みは──。
「思い出した」
 呆然と呟く。
 途端に溢れる記憶の奔流に耐えきれなくなって膝をつく。背を丸めて、胸の中に何か大切なものを抱くように身体を縮こまらせた。
 思い出した。
 ──僕は、愛されていた。
 どうして忘れていたのだろう。
 どうして忘れようとしたのだろう。
 分かっている。もう、その人はどこにもいないから。
 この記憶を抱えたままでは、到底前に進めないと思った。なぜなら、これからの人生に、過去を上回る幸福を望めるなんて思えなかったからだ。
 ──愛された。愛していた。もう出会えない人と。
 幸福な体験ごと忘れ去ってしまいたかった。
 あまりにも耐えがたい痛みを受けたから。
 森で出会った少女の姿が薄れていく。
 本当に思いを寄せたのは彼女ではない、別の相手を重ねていたのだ。
 僕はうずくまる。
 忘れていた痛みとともに、幸福な記憶が胸を焼いて息もできない。幸せだった。幸せだ。そうだ──。
 森へはもう帰れない。
 愛するものは森にはいない。
 町にも、どこにも、もういない。
 だけど、取り戻したから大丈夫だ。
 立ち上がって歩き出す。ふらつく足取りで前へ進む。
 木の根につまずきながら、それでも前へ進む。
 またどこかで鳥が鳴いた。
 その声は、胸のうちから聞こえた気がした。

     ◆

 メルグスは客人の部屋を掃除して毛布を庭に干した。洗ったばかりのシーツも隣に並んで、風にはためくたび眩しく日を照り返す。サンルームの正面、テラスの椅子に腰掛けて、ルクレイは彼女の働きぶりを眺めていた。
「ケイ様がお帰りになる頃には、素晴らしい寝心地の毛布になっていますよ」
「それは素敵だ。でもね、メルグス。彼はもう戻らないよ」
「そうでしたか」
 さして残念がるふうもなく答えて仕事を続ける。
 ルクレイは森を見やって、別れを告げた鳥を思った。
 眼差しは遠くを見ている。
 木々の向こうの彼を追う。
「すごく素敵な鳥だったんだ。赤い鳥。首や頭にちょこっと白い羽毛が生えていて、それがお茶目なかんじ。熱くて、強くて、優しくて、穏やかで──あれが一緒なら、どんな道も歩いていける。そんな気がする。暗い道も照らしてくれる。灯し火のような鳥だった」
「そうですか。それは素晴らしい」
 感動もなくメルグスは少女の言葉を聞き流す。
 お構いなしに、ルクレイは続けた。
「手放してしまうなんて、絶対にだめだ。彼はあれを抱えていかなくては。あれはきっと、いつか、きみを励ます何よりの輝きになるのだから」
 羨むように目を細める。
 夢見るように瞼を閉ざす。
 耳の奥に、まだ鳴き声が残っている。
 それはいつしか実際に聞こえる異なる鳥の声になって、少女は瞼を開けた。
「鳥がきた」
 大慌てで二階へ駆け上がる。
 窓を開いて身を乗り出す。
 空っぽの鳥篭を抱えて、迷いこむ鳥を待ち受けた。
 鳥はまた訪れる。
 だからこの森で、少女はずっと待っている。


文章:詠野万知子|イラスト:ムニャ


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