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TOCKA〔タスカー〕

 王手またはチェックメイトを意味する「詰み」は、いささか響きが古風な割にはネットスラングに定着して久しく、「今月の電気代高すぎて詰んだ」「新学期3日目で便所飯とか詰んでる」というように、世代を問わずカジュアルに濫用されている。しかし、本当に詰んだ大人はそのことを口にする余裕も暇もなく、冷や汗をかきかきしながら何とか事態を収束させるべく走り回るしかない。金銭的に、社会的に詰んでしまうことの怖さ、惨めさは便所飯の比ではない。それでも運良く一段落つければ笑い話にもなるだろう。たとえにっちもさっちもいかなくなったとしても、支えてくれる誰かがそばにいるだけで踏ん張ることができるかもしれない。望みはそう簡単には潰えないし、意外なところから転がり込んで来たりもする。「バカヤロウ、まだ始まっちゃいねえよ」と強がるのが図々しいくらいの歳になっても死ぬまで人生は続いてゆくのだ。勝手に他者の可能性を査定する権利は誰にも無い。だからか自虐的に用いるのであればまだしもだが、冷静な第三者を気取るツイッター民の「詰んだ」という物言いがどうにも好きになれないでいる。
 しかし、『TOCKA〔タスカー〕』の主人公である男女三人の境遇は、残念ながら世間的には「詰み」そのものでしかないだろう。作品の舞台は釧路で、地理的にも既にデッドエンドの感があるが、スクリーンに映し出される灰色の景色は、車のナンバープレートを別にすれば私が暮らす秋田とそう変わりがない。街のムードは人がつくるものである。食い詰めた章二を「貧すれば鈍する」と嗤うわけにはいかないのだ。『さがす』における釜ヶ崎の貧しさも今や他人事ではなく、あの清水尋也の在りようはほとんどルフィである。そして本作も同じく嘱託殺人を題材にしているのだが、弱者が弱者を喰い物にする悲劇を描いたあちらとは異なり、社会のレールを外れた者のための救済措置として扱われている。古谷実の読者にはおなじみのとおり、〈フツーが一番むつかしい〉。たとえば『ヒミズ』を、『わにとかげぎす』を鎌田義孝が撮っていたらと思う。人生を諦めた男たちが抱く殺意が内に向くか、外に向くかの違いでしかないからだ。それを分けるのが他者の存在で、章二の人の善さは離れて暮らす娘がいてこそのものでもあるだろう。ガソリン泥棒と廃品回収詐欺で生計を立てる幸人にもかわいい妹がいる。Siriしか話し相手のいなかった早紀にとって、この奇妙な道行きは、同志とのセンチメンタルな旅だ。冷え冷えとしたカーセックスも、死に抗う大人の精一杯である。しかしそれはカップ酒程度の気休めにすぎず、すぐそばには不安が口を開けて待ち構えている。明るい方へと足を踏み出してみようとも一寸先は闇だ。目の前の誰かの体温を肌で感じることで、やっと恐怖と向き合える。正気を保つために我を忘れなければならないという矛盾の膨大な蓄積が人生なのかもしれない。それに耐えきれなくたったとき、何をどうすればいいのか。とぼとぼとでも歩き続けるかぎりはと思いたい。絶望は孤独の母だからだ。カウリスマキがスラップスティック・コメディを志向するのは単なる趣味ではない。まるで棒のように倒れる男たちの顔は総じてキートンに似て無表情だが、生活にしがみつくその手の握力はきわめて強い。
 遠く寒い国のユーモアに代わるもの。『TOCKA〔タスカー〕』を観ながら考えていたのはそんなことだった。斎藤ネコが弾くヴァイオリンの音色はまさに冬の北海道のようにきびしく、春はまだやって来そうにない。息をひそめて雪解けを待とうにも、時は選択肢を少しずつ奪ってゆく。『ライムライト』のあの名台詞が老いたチャップリンの実感であってくれたなら、まだ救われそうな気もするのだけど。

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