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みちくさ⑦‥高等女学校・中学校の創設

学校法人明星学園発行の『明星学園報』に、資料整備委員会が連載している「資料整備委員会だより・みちくさ」を転載します。

資料整備委員会だより第7回
‥‥2017年7月発行分、明星学園報No.108に掲載

明星の保護者たち 4
 明星学園には創立間もない時期から今日まで、学園を応援し支えてきた3つの団体があります。保護者と教職員の会である「明星学園PTA」、卒業生会(同窓会)である「明星会」、卒業生の保護者や教職員を中心とした「後援会」です。
 最初に誕生したのは「明星学園母の会」。公式な結成は1927(昭和2)年1月とされていますが、実際には学園の創立と同時にお母さん方が集まって自主的に活動していました。この会は今日のPTAの前身で、先生方の要請に応じて子どもたちの学校生活を強力にサポートし、また自分たちの文化活動を行うことも主な目的でした。創立同人の一人照井げん先生はその当時をふり返り、毎日2~3人ずつのお母さんが入れ替り立ち替り学校を訪れていたと、熱心な母親たちの思い出を書き残しています。

■高等女学校・中学校の創設
 小学校3学年で始まった明星学園は、創立時の3年生が6年生になると、中学部創設の問題が起こってきました。赤井先生はこの頃の状況を次のように書き記しています。
「一般の小学校では5年生から中等学校への入学準備をするそうである。私達は如何にすべきであろうかが最上級を持つ山本(徳行)君の大きな悩みであり、同人すべての頭を痛めた問題であった。小学校教育の本質からいえばこんなことは問題にはならぬ。誤まれる中等学校の教師の教育観に迎合して準備などはなすべきものではなかろう。しかし児童にとっては中等学校へ入られぬということは大問題である。父兄においてもそうである。この現実の問題に当面すると理論ばかり言っておられぬ。父兄(特に5年)の間にも不安な気分が次第にあらわれてきた。しかもことは経費と関連する。同人は集まるごとにこれが問題になり、ほんとに鳩首したものである。ある時は私は出て、某中学校の経営をひきうけ、それをこの学園の中等部としようと計ったこともあった。しかしそれも思う様にはならなかった。この年の春全部が完成し、6年生が出来た当時、この問題に対する私たちの態度くらい不安なものはなかった。」(赤井米吉「明星5年」『渾沌』第8巻第1号、1929年1月22日)
 この頃の中等学校のことを現在では「旧制中学」「高等女学校」と呼んで現在の中・高等学校と区別しています。旧制中学・高等女学校は5年制で男女別学、小学校と違って個人立は認められていませんでした。
 赤井先生は、明星を創立した1924(大正13)年夏に講演のために朝鮮を訪れた際、広島高等師範時代の友人で大邱中学の教頭だった上田八一郎氏を訪ね「3年後には中・女学校をつくるから上京して手伝ってほしい」と誘いました。これに対して上田先生は、「1学級30名、生徒総数150名を超えないこと、男女共学、無認可の学校、上級学校入試準備の要らない学校、武道と教練のない学校…」という希望を出しました。実は赤井先生の考えも上田先生と一致していて、いずれ明星の小学校を卒業する子どもたちのためにつくるのは、文化学院や自由学園と同じように、法令上のわずらわしい制約に縛られない無認可の学校だと考えていました。

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■普通の学校か、各種学校か‥‥
 ところが、その理想を実現させようとすると、無認可の各種学校では困ることが多かったのです。男女共学が認められていなかった時代、小学校こそ“お目こぼし”で大目に見られていたものの、本来は儒教の「男女七歳にして席を同じうせず」という倫理観に従って男女は別々に分けるべきもので、中学校と女学校を同じ敷地に置くことはできませんでした。また武道・教練のない学校では上級学校の受験資格を得られませんでした。
 明星に子どもを通わせたのは都市部を中心とする比較的富裕な新中産階層の家庭が多く、子どもの自発的な活動を尊重する新教育を支持しながらも、同時に中等学校、大学受験にまで必要な学力を学校に求めました。
 先生たちの理想と親たちの希望には計画段階から温度差があったのです。
やがて赤井先生も「生徒はわたしの所有物ではない。わたしの教育理想の犠牲になるべきものではない。やはり普通の中学校・高等女学校としての認可を受けて、その規定の範囲内で可能な限り新しい試みをやるべきだ」と考え方を変えました。明星学園がどのような学校でありたいかという意思決定に、親たちも深く関わっていたことの表れです。

■難問山積
 この頃、小学校は個人立が認められていたので赤井米吉が設立者となっていましたが、中学校・高等女学校は法人でなければ許可されませんでした。赤井先生は「財団法人明星学園」という組織をつくり、認可を得ることを決心しました。ところが財団法人の設立には多額の資金(基本金)が必要で、教師の力だけでは到底工面できる額ではありませんでした。また小学校創立以来の後援者であった茶郷氏、山之内氏は自然災害や不況の影響を受けて援助を請うことのできない状況にありました。
 そのようななか1927(昭和2)年7月には上田先生が朝鮮大邱の中学を辞め上京しましたが、この頃にも事態は一向に進捗していませんでした。赤井先生が設立の援助を乞われた他の中学校を明星の中・女学校にすることに奔走してみたものの不認可となり失敗、中学校(男子)をあきらめて女学校だけの創設にとどめる案や、各種学校とする案も再浮上しました。上田先生は自由学園や文化学院を何度も訪問し、実際の授業も見学していました。しかし、父母の間からは、どうしても将来は大学受験が可能な学校にしてほしいという要望が強くなり、ここで「母の会」が動きはじめました。

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■後援会の誕生
「母の会の熱心なる動きが次第に父兄の人々を動かし、父兄の有志の集会が頻繁に催されるようになった。それが夏から秋に盛んになって、ついにこの年10月2日をもって父兄の総会が開かれ、明星学園後援会なるものが組織せられて、それが中等部の設立をひきうけて下さることになった。〈中略〉
かつて成城小学校でそこの父兄後援会の献立をした私は、その困難な仕事であることを十分に知っていたので、ここで再びそれを繰返そうとはほとんど考えなかった。何人か特志な人があったらその人にとのみ願っていた。それに学園の父母は実際のところ富豪といわれるものではない。児童の教育に熱心であるということのほかには一般小学校の父兄とさほどに違ってはおらぬ。その事情を十分に知る私は、ほんとにかかる後援会によって中等部、しかもそれは一つではなく、女学部、中学部の二つを設立してもらうということは忍び得られぬことのようにも考えた。しばしば自ら回避の道をとろうかとも思った。しかし金があれば出来るという問題でもない。金よりも情熱であり、理想であり、和合であると思うと、かかる父兄なればこそ出来るのだと考えた。自らの子女の教育の機関を自ら経営するということは最も望ましいことで、第三者から慈善的に出された金の恵みにあずかって行くのが必ずしも能でないとも考えた。行こう、行けるところまで行こう。皆が和合して行ったならば、そして大なる理想に向かって努力をつづけたら如何なることも成らぬということはなかろう。というような風にも考えられて、ついにこれに一切をお願いして進むことになった。
 こうした土地の選定、校舎の設計、教科課程の研究等に夜の8時、9時までも職員会が幾晩もつづき、後援会の委員の人々の奔走が日夜営まれて、この年の暮は実に怱忙として暮れた。」(赤井米吉「明星5年」『渾沌』第8巻第1号、1929年1月22日)
 後援会役員の父母たちは毎週のように山之内邸に集まり協議を続けました。役員は山之内兵十郎氏(山之内合資会社社長)が顧問、岡崎栄松氏(晩年は仙台市長)が会長、新締五郎氏(航空大佐)が会計を務め、父母の支援体制は日に日に強固なものとなりました。
 問題の基本金は茶郷基氏(永中金山経営者)、尾高豊作氏(刀江書院社長、郷土教育連盟会長)、川井源八氏(三菱電機会社社長)、服部春一氏(国際図書社長)ら(すべて保護者)に借り受ける見通しがつき、ようやく2月に中・女学校二つの学校の設立許可を申請できることとなりました。
 中学校は現在の高等学校の校地に、高等女学校は玉川上水をはさんで既設の小学校の校地内に校舎を構え、なんとか4月に入学式を迎えることができました。生徒数は中学校16名、高等女学校14名。小さな中等学校のスタートではありましたが、これは母親たちの熱意が父親たちを動かし、父母が一体となって取り組んだ支援の賜物でした。この人たちが、やがて生徒千名を超える未来の学園へと育つ礎を据えてくださった人々なのです。

創立50周年記念号 題字は会長の武者小路実篤氏

後援会会報No.9(1975.3.20)

■後援会の功績
 太平洋戦争で活動を休止していた後援会は、戦後間もない1947年、教育制度が全面的に改変され、明星学園でも新制高等学校・中学校が発足したのに合わせて再発足し、生徒増に伴う校舎建築事業、老朽化した校舎の建替え、生徒活動の変化にあわせた学園寮(千倉寮)の建替えと整備、国際交流事業への援助など、長年にわたりさまざまな要請に沿って学園に貢献してきました。残念なことに2010年に解散した後は数年間の空白期間がありましたが、このほど「明星学園をささえる会」として再び始動しました。
 後援会の活動は、いま現在の教職員や在校生たちを支えるというだけでなく、学園の将来を見据えた未来のための貢献なのです。いわば、明星学園が築きあげてきた文化を将来へ伝えるための活動だとも言えるでしょう。
(次回へつづく)

文責:資料整備委員会 大草 美紀

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