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掌編:ある手相読みの話

もし、例えばどこかに、過去を変えることができる人がいたとしたら。その人がすべてを受け止め、理由も問わず、ただ静かにそのあやまちを消してくれるとしたら。

その「もしも」はここに存在している。手相読みであると同時に「線消し屋」とも呼ばれている私の先生は、もう何年もつづくこの仕事のなかで、多くの人生を救ってきた。

先生の助手として働き始めて約一年になる。最近また手のひらの線を消してほしいという依頼が多くなってきた。きっと株価が下がっているのだろう、そう思ってパソコンの画面を見ると、日付が目に入った。なるほどバレンタインデーが近い。

「ぼくみたいな人にとっては、ただやっかいな日でしかないさ。」

と先生は言った。浮気性の先生の奥さんは、一カ月ほど前に家を出て行ってしまったそうだ。
聖人を演じて人々の相談に応じる先生もまた、私のものとそう変わらない、ごくありふれた手相を持つ一人の人間だった。

人はみんな何かしらの後悔を抱えて生きている。ほとんどは愛に関すること、なかでも多いのは離縁を求める相談だった。相手を傷つけず別の誰かと一緒になりたいというのが彼らの願いだった。いい歳をした大人が愛に苦しむ姿は、私の血をたぎらせた。

「人生の行きづまりで道を思い出すために、するべきことを記録して生まれてきたんだよ。」先生は私の手のひらを指でなぞりながらそう説明した。「たかが手のひらのしわにすぎないと人は言うけれど、ひとつひとつに意味があるんだ。」

***

二月十四日の予約客は、サラリーマンの若い男性と、赤ちゃんを連れたお母さんと、小さなおばあさんの三組だった。

夕方、とつぜん扉が開き、一人の女性が入ってきた。鮮やかなラベンダー色のコートを着ていた。

どこかで見覚えのある姿だった。40歳になるか、ならないかというぐらいの年頃に見えた。

「ごめんなさい、本日の受付は終わってしまったんです。」
「ええ。」

女性はなにも考えず返事をしたように見えた。すべてが決まっているとおりに進んでいるという相槌のようだった。私はすこし動揺した。
あと一時間後におばあさんの線消し作業が終わるはずだった。鑑定中を示す「CLOSED」の札がドアノブにかけられている。
彼女には待つという事実があるだけだった。コートの肩が濡れていた。そういえば夜から雪の予報が出ていたことを思い出した。

***

雪が降り始めたのだろうか、足元にただならぬ冷気を感じて、目が覚めた。どうやら私は受付のデスクに突っ伏して眠っていたらしかった。

「起こしちゃったわね」

最後に鑑定室へ入ったおばあさんが目の前に立っていた。

「すみません!」

あわてて時計を見ると、就業定刻を回っていた。

「ここにいた女性を知りませんか?」

私は混乱する頭を整理しようとした。女性が座っていた椅子には、何の形跡もない。

「誰もいませんでしたよ。」とおばあさんは素っ気なく言った。

私は我に返り、ひどく申し訳なくなった。おばあさんにとって今日は、人生の過去にお別れをする特別な日であったというのに、私は呑気に居眠りをしてしまったのだ。

腰が曲がるまで生きてきてもなお、消したい過去があったこの人は、どんな思い出と決別しなければならなかったのだろうか。聞いたところで覚えてはいないはずだった。明日にはもうこの鑑定所に来たことすら忘れてしまう。私はいつもの手順で料金精算をし、領収証を切っておばあさんに渡した。

ふと、受付のカウンターに置かれたメモに気がついた。
「雪が降っているから、もう帰りなさい。さようなら。ありがとう。」

先生の字だった。

あの女性はきっと先生の奥さんにちがいなかった。わざわざバレンタインの日を選んで、先生に会いに来たのだろう。CLOSEDの札が、微妙に動かされた気配がある。窓の外はすでに雪が積もり始めていた。あらゆるものが静かに隠されていくようだった。

***

翌朝、人々は、白銀の街ををせわしなく交差していた。

やっとオフィスに着き、いつもの通りラベンダー色のコートをハンガーにかける。誰もまだ出勤していなかったが、雪のせいだろうと思った。

ところが、そろそろ定刻の九時になろうかという頃になっても、来るべき人は現れず、電話も鳴らなかった。もしかして、と私は思った。

CLOSEDの扉をノックしたが何の反応もない。
私はおそるおそる部屋に入った。

大きく開かれた窓から、雪まじりの風がびゅうびゅうと吹き込んでいる。雪の下に家具や本が散乱していた。

一晩のうちに重要な何かが失われてしまっていた。なぜ、私は、ここに誰かがいるなどと思ったのだろう。

もぎとられた私の一部が、そのうち外の世界と無限につながっていくような錯覚を覚えた。

思わず私は、自分の手のひらを凝視した。


【完】



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