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蜃気楼

前回の続きです。前回はこちらから。

一時保護所に着いていきなり下着一枚にさせられ、持ち物検査でおばあさんに買ってもらった画材やその時持っていた他の下着も全て取り上げられた。施設の備品?なのかな、ダサいボロのジーパンと半袖のTシャツを着せられ、別室で簡単な心理検査を行った。そのあと、保護所の職員さんから「ここでは絶対に守ってもらわなければならない3つの決まりがある」と言われた。

①ひとことも喋ってはならない
②職員さんの言うことは絶対
③同性との距離は1メートル、異性との距離は常に2メートル以上空けること

あまりにも厳しい内容とその高圧的な態度にびっくりしてしまい、頷くことしか出来なかった。説明を聞いたあとホールのようなところに出ると、子供たちが30人程いたがその光景が更に私の不安を掻き立てた。ホールの真ん中には赤いテープで太く線が引かれ、左側が女子、右側に男子とその線を超える子供は誰ひとりいなかった。更にさっきの3つの決まりで誰も何も喋らない。泣きもせず笑いもせず、無表情な子供たちが常に人間と人間の距離を一定に保っている。そしていきなり「食堂集合ーーー!」と1人の女性職員さんがホール全体にに向かって叫ぶと、下は7歳から上は15歳くらいまでの子供たちが一斉にピアノの方へ走り、男女2列に別れて先頭から「いち!」「にい!」「さん!」と点呼し始めた。私もそれに合わせて女子の一番最後の列に並び数字を言った。

向かった先は食堂。窓が沢山あり明かるかったのを覚えている。「いただきます!」と職員さんが言うと、子供たち全員が無言で合掌しひたすら黙々と食べる。食堂に響くのはカチャカチャと箸がプラスチック製のお皿に当たる音だけ。私も同じように合掌し目の前のご飯に手をつけた。…う、ご飯が美味しくない…前養育家庭さんのところで美味しいものを沢山食べていたからと言うわけでは決してない、明らかに変な味がする。味が薄いでも濃いでもない、例えるならそう、腐りかけた残飯みたいな…。なので個包装のもの(その時はパンやゼリー)にしか手をつけずにいたら、職員さんが竹刀を持って私の方に近づき、見下ろしながら「税金でつくられてるんだ。残したら反省部屋だからな」とすごい形相で言うので、「反省部屋」というまだ見ぬ場所に連れていかれる怖さと、職員さんの目が父親そっくりで、ゲロみたいなそれを必死に流し込んだ。

風呂は2日に1回。基本はシャワーのみしか許されないが、生理などで身体が冷えてしまうとお腹が痛くなる子は生理中であることを職員さんに申告して嘘でないと確認されれば湯船に浸かるのが許された。浴室の中にも職員さんがいて、会話をしていないかが常にチェックされた。リンスは無く、シャンプーは1人一回半プッシュまで。ボディーソープなんてものはない。髪は長くなったら勝手に職員さんに切られた。私も入所当時前髪が長いと眉上でバツンと一直線に切られガタガタの前髪で過ごした記憶がある。バスタオルは使い回し。ここでは年齢関係なく長くいる子供のほうが立場が上という暗黙の年功序列のようなものがあったので、私は一番最後に回ってきたびちょびちょのバスタオルで身体を拭いた。

夜は8畳くらいある部屋に敷布団を自分達で敷いて一部屋4人ずつで寝かされた。寝室は男女各4つずつあった気がする。必ずホールから中が見えるように、寝る時でも扉を閉めてはならない。寝室の電気は消すのが決まりだが、ホールの電気は着きっぱなしだった。夜中の見回りは職員さんが30分置きくらいに懐中電灯を持って来る。人の影と懐中電灯の光が部屋に伸びるたび、背中を向けて必死に寝たふりをした。寝ないとホールに連れてかれ早く寝ろと圧をかけられるのを知っていたから。

朝7:00にはホールと各寝室についているベルが鳴り、それが起床の合図になる。また「食堂集合ーーー!」の声と共に男女別れて2列に並ぶ。食堂まで寝癖をつけたままぞろぞろと一言も話さず歩き、テーブルについて「いただきます!」の合図で合掌、不味いそれを一気に流し込む。「ごちそうさまでした!」の合図でまた黙って合掌し、整列してホールへ戻る。戻った後は髪の毛をゴムで束ねたり顔を冷水で洗って身だしなみを整えた後、小学生の時にやったドリルそっくりの「あいうえお表」をなぞるコピー用紙を渡され、延々と五十音を書いた。五十音だけでなくABCや、百マス計算の時もあった。当時中学3年生だった私は受験勉強で頭がいっぱいで、学校に行ってもっとレベルの高い勉強がしたいと思ったが、そんなことを言えるわけがなかった。

午後は近くの運動場で20分間のランキング。運動場までの道のりも2列で整列して歩く。持久走がとにかく苦手な私は、一日の中でもあの不味いご飯を食べるより嫌な時間だった。ヘトヘトになっている私を見て、男性職員さんが「お前良かったな!冬だったら40分だぞ!」と言った。季節は夏。良かった、本当に良かった…。猛烈な疲れの中素直に安堵した。

そしてまた保護所に戻り、硬くてパサパサしているカンパンのようなものとコップ一杯の牛乳を手渡され、流し込む。牛乳は不味くはなかったけど、乳製品はお腹を壊してしまう体質なので飲めないということを伝えていたのにも関わらず渡されたので飲むしかなかった。逆らう行為が本当に怖かったから。あの男性職員さんが持っている竹刀は家にも似たようなものがあって、よく母親にそれで叩かれた。私にとって竹刀を持ったまま無言で近づかれるというのは「お前は絶対に逆らわせない。絶対服従だ。」と言われているようなものだった。

夜ご飯を食べて20:00には就寝。20:00までの時間は2日に一回のシャワーがあったり、職員さんに心理検査を受けさせられたり、またドリルの書写しをしたり。本を読むことも一部の子供は許されていた。これがここでの基本的な一日の流れだ。

一時保護所に来てから1週間が過ぎた頃、実家にいた時電話して養育家庭やここまで車で送ってくれた児童相談所の職員さんが訪ねてきた。
別室に移動し2人きりになったところで「元気にやっていますか?」と児童相談所の職員さんに言われ、「意味がわからないです」と答えた。毎日毎日刑務所のような生活、一言も喋れずご飯は不味いしこれは何の仕打ちだと。辛く苦しい家から飛び出してきた先がこれなのかと。とにかく今思っていることを爆発させた。すると児童相談所の職員さんは
「ここはあなたのように家に居場所がなくなって児童養護施設の空きを待つ子だけではなく、非行を働いて反省のために親から送られてきた子や、離婚調停中の子など様々な事情を抱えた子が来る場所で、その子達のプライバシーを守るために一切の私語が禁止されているの。この施設自体は税金で成り立っているからご飯も美味しくないかもしれない。でもあなたが決めたことでしょ?」
と私に言い放った。
「こんな場所なんて聞いてなかったです。こんなところだってわかってたら来なかった。」
そう言っても「もう児童養護施設の空きを探す手続きは進めてしまっているから我慢して」と言われるだけで、人生で初めて絶望というものを感じた。

真っ暗なトンネルを自分で出ようと決めたが、あの時遠くに見えていた出口のような光は蜃気楼だったのだ。トンネルの出口はまだまだ先で、確かに前に進んではいるのだろうが、あまりに暗く息苦しいし、蜃気楼の光は消え失せまた真っ暗なトンネルになってしまった。

つづきはこちらから。

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