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見送る

家族が出かけるとき、客人が帰るとき、私は最後まで見送ることが好きだ。
自分の家から見送る場合はもちろん。
人と駅や道で別れるときも、「じゃあね」と言った後で、相手の背中が人混みに消えるまで、見送りたいのだ。

見送る…?
見届ける…?

どちらかと言うと、姿が消えるまで「見届けたい」のかもしれない。

子どもたちが小学生の頃は、家からの真っ直ぐな道を右折するまで、道路の真ん中で、背伸びまでして、見届けた。
そのことを分かっている子どもたちは、真っ直ぐな道の途中で何回も…
そしていよいよ最後の右折する角っ子で、振り返って手を振ってくれた。
そうすると、私も嬉しくって、人目を忘れて大袈裟にジャンプまでして、手を振り返す。

時には一旦姿を消して、ひと呼吸してからわざわざ、ひょっこり顔を出すこともあったので、しばらく油断はできなかった。
可愛い姿に思わず声を上げて笑ってしまうこともあった。

そんな時代を経てきたんだ。

今朝、中3になった息子と出掛けるタイミングが重なり、久々に見送るチャンスが到来した。
でも一瞬だけ私が早く出ることになり、息子がその後どのくらい後に家を出るかは分からない。

私が家を出て、近所の人に挨拶をしてから振り返ると、息子の背中が見えた。
…もうあんな方まで歩いていたのね…
私は歩くのを止めて、その背中を見送っていた。
(大きくなったわね…などと思いながら)

すると、最後の右折の角っ子で、息子がチラッと振り返るのが分かった。
足は止めずに、ほんの一瞬。
すかさず手を振る私を認識したかどうかの、ほんの一瞬のこと。
それでも息子はきっと、感じたのだろう。
母は自分の背中を見送っているかもしれない、と。

子どもたちが大きくなってからも、こんなふうに時々見送っている。玄関先で声を掛けるだけではなく、外に出で、その姿が見えなくなるまで。

そうするとだいたい、姿が見えなくなる直前で、(まさか、まだこっちみてないよな?)と確認するかのように、振り向いてくれる。

私は思う。
見送ってくれているかな?
という期待を込めて振り返ったとき、誰もいなかったろどんなに寂しいだろうと。子どもや客人、友人にもそんな思いをさせたくはない。だから最後まで見届けたいのだ。

いつか、もっと年をとったら…
子どもたちに見送られながら、旅立って逝くのだろう。息子達よ、それまでは、私の背中を見ることはない。

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