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BaseBall (Bear)とFootball(後編・Jリーグ開幕の日に)

 前編をまだお読みでない方はこちらから


 約4000字に渡る前編を読んで下さった方々には頭が上がらない。愛するバンドと僕の紆余曲折を長々と書いたが、内容の大半はこの後編に繋がらないものだ。固有名詞が登場する文章になるとどうしても冗長になってしまって恐縮である。

 しかし、なぜ内容に直接関係のないように見える話を前後編にまとめているかというと、それはやはり2つの記事に関連性があり、前編を踏まえて書きたいことがあるからに他ならない。ただ好きなものを発表するために記したわけではないのだ。

 また前置きが長くなってしまいそうなのでとっとと本題に入る。タイトルにある「野球」「Base Ball Bear」「サッカー」は、いずれも僕の好きなものだ。後編では、好きなもの全般との付き合い方についての考えを主に書いていく。

 この記事を、追いかける対象がいるすべての方に向けて書く、というと生意気だが、せめて僕の周りにいる、何かしらのファンをやっている方々に届けば嬉しい。



 22歳の僕の周りには、同世代、もしくはそれより少し年上の方々が多く居る。その大半は社会人として立派に働いているか、この4月から荒波に飛び込んでいくかのどちらかだ。

 そんな人々の日常や思考を垣間見てみる(彼らのSNS上での表現からの推察にすぎないが)と、若い頃に比べて、趣味への熱量の低下が起きている方が多い印象を持つ。趣味、というと対象が大きくなってしまうが、少なくとも、僕と共通の趣味であるスポーツ観戦と音楽鑑賞の分野においてはそれが顕著に見える。これは非常に寂しいことだ。一方で、キャンプやゴルフなどを趣味にしている方々は、年を経ても引き続き楽しんでいることが多い(むしろ、年を経てから始める方もかなり居る)。

 責任ある人間として日々を送っていると、趣味に没頭する時間が取れなくなってくる、というのもあるかもしれない。しかし、ストレスの発散自体はどんな人間にも必要であり、忙しない毎日を過ごしていてもそれは変わらないはずだ。いったい何が、何かの「ファン」であった彼ら彼女らを落ち着かせてしまったのだろうか。


 ここからは、あくまでも僕の仮説である。

 「ファン」をやっていると、己の無力さを感じることがある。僕が応援した程度でチームの成績が上下することはないし、僕がグッズや観戦チケットを購入することで生まれる収益など微々たるものだ。よほどの大富豪でない限り、応援する対象に影響を及ぼすことは出来ない。

 一方で、誰か/何かを応援しているからといって、それだけで自分の人生にとってプラスになることもない。もちろん、勇気付けられたり気合が入ったりという側面はあるだろうが、それらはこちら側が勝手にそう受け取っているだけで、対象はファンの生活や人生に責任を取ってくれない。贔屓のチームが負けても死にはしないし、優勝したってファンが偉くなるわけではない。好きなアーティストが武道館でライブをやろうが、活動を休止しようが、次の日からは全く関係のない日常が始まるのだ。

 言葉を選ばずに書けば、どれだけ応援していようが、好きでいようが、結局は他人事でしかない。彼氏/彼女がバンドマンである場合を除き、どんなに歌詞が心に沁みても、それはあなたのことを歌っているわけではないのだ。ましてやスポーツ選手が、ファンを喜ばせたいだけで競技に打ち込んでいるわけはない(ファンを大切にしてくれる選手も多いが)。

 この辺りが、「自分自身と向き合い、己の行動や努力が結果に結びつく」キャンプやゴルフと違うところで、成熟するにつれて熱量を落ちつかせてしまう要因ではないだろうか。極端な話、応援するものがなくても明るく恵まれた人生を送ることは可能なのだから、心身ともに消耗する社会人たちが他人事に心を動かしている暇はない、のかもしれない。



 僕にも、いつかそんな日が来るのだろうか。音楽の話をして、「若い頃は色々聴いてたけど最近は聴かなくなったな~」なんて言うようになるのだろうか。野球やサッカーを観に様々な土地を訪れることもなくなるのだろうか。

 そうなっていたら、それはそれでまっとうな大人になれていると思う。カープが優勝しても大学入試には失敗し、大分トリニータのJ1昇格、そして躍進に心躍っていても大学を中退してしまったように、僕は、趣味を日常の活力にする技術を持っていない。サンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」を聴きながら、人への恨み言が頭から離れないような人間だ。


 ただ、そうなってしまっていたら、ただただ寂しい。それだけの話である。これからも、他人事に一喜一憂しながら、勝手に想いを乗せて生活したい。そもそも応援とは誰に頼まれるでもなく自らの意志でするものだ。

 2カ月前には「離れられない人生」とまで思ったベボベですら、今はそこまで聴けていない。僕自身の調子が良くない故に、彼らの明るさを眩しく感じる時期となっている。


 以前も書いたが、やはり僕の根底には「置いていかないでくれ」という思いがある。人の数だけ人生はあるのだから、そんなことを思う必要がないことは重々承知しているが、どうにも他人に後れを取っている感覚が拭えない。

 僕の周囲の、悩み苦しみながらも良い人生に向かって歩いている方々、もはや音楽やスポーツの力を頼ることもなくなった方々を見ると、その感情が僕の気持ちを重くしてしまう。僕はまだその境地に居ないし、行きたいとも思えていない。きちんと自分の人生に向き合って、己の言葉と文脈で生きている方々へのあこがれ、尊敬、そして身勝手な寂しさ……。知人たちには何の罪も恨みもないのだが、複雑な感情を抱いてしまう。こんな自分は気味が悪くて仕方がない……と書くこともまた稚拙で、世間一般からすると嘲笑の対象になりかねないものなのだろう。



 22歳にもなって、情けない内面の暴露をしてしまっている。結局前後編を通して何が書きたかったのかもよく分からなくなってしまった。

 ただ、ひとつ言えることとすれば、これからも僕は、野球とサッカーと音楽という「他人事」を熱心に追い続けていきたいと思っている。人生の役には立たないかもしれないが、勝手に熱狂し、勝手にストーリー性を感じ、勝手に自分の姿を重ねて、エンターテインメントとして楽しみたいと思う。どんな趣味を持つのも自由であるから、わざわざ読者の皆様に宣言する必要もないのだが、この記事をまとめるとすれば、こういった言い回しになる。


 最後に言い訳しておきたいことがある。文中で何度も「熱量の低下」を嘆いたが、何をどんな形でどれくらい応援するか、は個人の自由である。決して「真のファンとは」といったむさ苦しい話をしているわけではない。

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