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僕の人生はいつ終わったのか

 この度、1年と少しの間働いたコンビニを辞め、交通警備のアルバイトに鞍替えした。労働時間と収入を増加させるためである。ここにも何年も居座るつもりはなく、貯金をしながら正規就職先を探していく予定だ。

 人件費削減の煽りを受け、シフトが減少していたここ3ヶ月、かなり暇であった。何か自分の身になることをしたわけではないが、とにかく時間は有り余っていた。余裕があるといえば聞こえはいいが、空虚な時間は人間にとってあまり良いものではない。他人と接するより自分と対話する時間が長いと精神に悪影響を及ぼすことを、僕は様々な挫折経験から知っている。あまりにも自省を怠るのはまずいが、行きすぎた自分への思考は自己否定か責任転嫁か、いずれにせよ屈折した結論にしか至らない。

 今回は、暇に蝕まれて徐々に歪んでいったと思われる僕のここ最近の思いを文字に起こそうと思う。「思われる」という表現を使うのは、歪みは己で気づけないものであり、本当に曲がってしまっているか僕には判断できないためである。とんでもなく甘えた思考が羅列するが、どうか強く当たらないでほしい。いや、たとえネガティブなものでも反応を頂けるだけでもありがたいのだが……。



 僕は今、自分の身体で生きている。この文章があなたの目に届いているということは、少なくとも僕が記事を公開した日時までは生存している。生命活動が止まっていては文字を打つことも内容を練ることも、最後に「公開する」をクリックすることもできないのだから、当然のことだ。

 そして、僕は今21歳と、日本社会においてかなり若い部類に入る。緊張したりストレスを感じるとすぐに胃腸が荒れることとめっきり太ってしまったこと以外に、身体的な不安は存在しない。現状、急に動けなくなる確率はかなり低い。

 つまり、僕は今元気に生きている。それで十分なはずだ。



 しかし、漠然とした不安、苦しさは消えてくれない。不安は仕方ない。日本が、世界が僕の生きている限り安泰である保証などどこにもないのだから。問題は苦しさである。忙しければつらく、かといって時間があってもつらい。努力するのはつらいし、何もしなくてもつらい。


 簡潔に言えば、生きていくための軸が存在しない。野球やサッカーの観戦という生きがいともいえる趣味はあるが、それらは僕自身が結果に関与できない。少しでもいい生活をしたいとは思っているが、自分のために何かをすることは本当に難しい。中学の頃に宿題を早く終わらせられなかったメンタリティは、10年近く経った今でも何も変わっていない。

 

 僕は生きているが、ただ死に向かって歩いているだけなのだ。世界を救いたいとも思わないし、かといって僕だけが幸せな世界になってほしいとも思わない。生きていくために収入が必要だから最低限働いて、あとは堕落しているだけだ。

 僕には未来がない。21歳なのに将来が見えていなくて、21歳にして可能性を閉ざしてしまっている。


 

 以前からの読者の方は、僕が異常なほど異性に執着することを知っているだろう。僕の書いたほとんど全ての記事に女性に対する記述が存在するはずだ。それは、「その方のために生きたい」からである。僕は自分のために努力できない。魅力的な女性が近くに現れた時、僕の持つ絞りカスのような力が、その方に良い方向に作用することを望むのだ。束縛されたり行動を指定されるのは嫌だが、生きる糧とさせてほしいのである。女性を身体目当てで狙う男とは別のベクトルで相手に失礼な考え方だ。



 このnoteも、極論を言えばモテたいから書いている。僕の内面を晒し、それを楽しめる、あわよくば良く思ってくれる女性が居ることを夢見て書いている。もっと言えば、いつも読んで下さっている方の誰かが、僕に振り向いてくれることを願って書いている。自分の話ばかりではあるが、僕の記事はある意味でラブレターなのだ。



 そんな理想は、決して叶うことがない。本当にモテたいのならば、こんな自己弁護と内向性の暴露を発信するのではなく、少しでも筋肉質な体型となり、今風の洒落たヘアスタイルを採用し、ユニクロ一辺倒を卒業し、笑顔を絶やさず、思いやりを持って生活するのがどう考えても近道だ。「悩んでいる間にひとつでもやればいい」とはよく言ったものだ。こんな、思考を連ねただけの誰でも書ける作文以下の殴り書きを、どうして他人が、異性が高く評価するだろうか。



 感情に任せて好きな(または好きだった)女性との元々あるかどうかすら定かでない信頼関係を破壊したことは一度や二度ではない。このnoteでも一度やってしまっているし、綺麗な関係の切り方ができた試しがない。長文のLINEを送ってブロックしてしまったこともあるし、僕の知らないところで女性を泣かせて友人たちに怒られたこともある。精神的に不安定な男には本当に需要がないのだから、この辺りの過去は伏せておけばいいものを、こうやって書き連ねてしまうことが僕の気持ち悪さである。都合よく赦されたいのだ。それを社会では「身勝手」と呼ぶ。「気色悪い」というのも正しいかもしれない。


 赦されたい。でも怒られたい。全てひっくるめて愛されたい。愛したい……。そんな感情は受け取ってもらえない。女友達または彼氏との笑い話のタネになるのが関の山だ。もしかすると、苦しい思いをさせてしまう、いや、してくれるのかもしれない。しかし、そんな感情もいずれは忘れ去られ、稀に良くない記憶として浮かぶ程度だろう。


 大抵が僕が勝手に大きくする感情である。それをいきなりぶつけられる方は気持ちが悪くて仕方がないだろう。好意を向けられて嫌な人間は居ないだろうが、その方法に問題がある。然るべきタイミングで、然るべき言葉を適切に投げかけてはじめて想いは届き得る。


 僕の好きなバンドは、紆余曲折を経て明るく爽やかな作風へと変化した。生きていく上で起こるアクシデントや理不尽を乗り越え、痛みを感じながらも前へと進んだのだろう。このnoteを読んで下さっている方々は過去に苦しんでいたか、今も悩みを抱えて生きていると僕は推測している。こんなにも薄暗く陰湿な文章の数々を読み得るのはきっと繊細な方であろう。そんな皆様も、様々な過去を消化し、現在を生きている。僕に感想を送ってくださる仲の良い方々は、少なくともSNSを拝見する限り僕にはとても前向きに、エネルギッシュに生きているように見える(苦しさを僕に見せていないだけかもしれないが)。

 結局、僕だけが置いていかれているのだ。当人たちは置いていったつもりなどないだろう。僕が勝手に足を止めているだけなのだから。悔しい。本当に情けない。


 例によってまとまりのない文章である。何を伝えたいのか、見えにくいことこの上ない。特別伝えたいことなどなく、内面を記して発表しているだけであるため、当然といえば当然なのだが。

 記事はラブレター、と書いたが、そこまで考えると重たくなってしまう。僕は気の許せる方とコミュニケーションを取るのは好きなものの、用もないのに人と連絡を取ったりアクションを起こす勇気はないので、近況報告のお手紙程度に読んで頂けるとありがたい。濃さは問わず、僕と人間をつなぐツールとして今後も記事を書いていくつもりだ。僕は基本的に過去の文章を見返さないので、もしかしたら重複する内容もあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

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